第6話 記憶の潮が満ちる日
――百年が経った世界。
海辺の町は静かに息をしていた。
貝殻を拾った少女は、ユナと名付けられた。
けれど彼女はまだ知らない。
自分の名前が“誰かの願い”から生まれたことを。
ユナは幼い頃から、海が好きだった。
この世界では海は再び「恐れ」ではなく「祈り」の象徴となっていたが、
それでも子どもだけで近づくのはよくないとされていた。
しかしユナは毎日のように海に行った。
波の音が、懐かしい。
潮風が頬に触れるたび、胸がきゅっと痛む。
まるで、
――“誰かを待っている心臓”のように。
ある日、ユナは浜辺で倒れている少年を見つけた。
髪は黒く、海の匂いがした。
その横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……どうして……泣きそうになるの?」
少年の名は、リオだった。
「大丈夫?」
ユナが声をかけると、リオはゆっくり目を開けた。
その瞳は深い海の青だった。
ユナは思わず息を呑んだ。
(……この瞳、知らないはずなのに)
(どうしてこんなに心が震えるの?)
リオもまた、ユナの顔を見た瞬間、胸が強く引き裂かれたように痛んだ。
――この痛みを、彼は知っている。
けれど言えない。
言ったら壊れてしまいそうだった。
「海で倒れてたから、びっくりしたよ」
「……ごめん。少し、息をしすぎただけ」
意味のわからない言葉に、ユナは首を傾げた。
だが、リオは自分でも分かっていた。
胸の奥で眠っていた“光”が、彼女と出会った瞬間に暴れ出したのだ。
それは、百年前、海に吸い込まれたユナの声。
ユナがあの日拾った貝殻は、今も温かさを失わなかった。
浜辺でリオと話していると、
貝殻が突然「ピッ」と微弱な光を放った。
「あ……光った……?」
ユナは驚き、手を離しそうになった。
けれどリオは知っていた。
――それは、ユナが最後に残した声の欠片。
――そして、彼の胸の中に眠る光と反応している。
「それ……見せてもらえる?」
リオが手を伸ばした瞬間、貝殻の光が強くなった。
ユナは戸惑いながら、そっと手渡す。
貝殻を掌に乗せた瞬間、リオの頭に鋭い痛みが走った。
海が一瞬だけ息を止める。
そして――。
『――また、海で会おうね』
耳元で、少女の声がした。
ユナではない。
百年前のユナの声。
リオの手が震えた。
(……やっと、聞こえた)
「リオ……? 大丈夫?」
ユナは慌てて彼の手を掴んだ。
触れた瞬間、ユナの胸にも強い痛みが走る。
(……どうして? この人に触れると、涙が出そうになる)
ユナの瞳が揺れた。
胸が苦しい。
でも、それは怖さではなく“懐かしさ”の痛みだった。
「ねぇ……私、あなたに会ったことある?」
リオの心臓が大きく脈打った。
「あるよ」
その一言が喉までこみ上げたが、
言えば何かが壊れる気がして、飲み込んだ。
「……会ったこと、ないはずだよ」
そう言うしかなかった。
ユナは切なそうに微笑んだ。
その笑顔が、百年前とまったく同じで、リオの胸が締め付けられた。
日が沈み、二人は帰ろうとした。
しかしその瞬間、海の色が変わった。
紫と青が混ざるように光り、
波が逆流し、
空が震えた。
百年前と同じ“現象”。
(……また始まる。
ユナの魂が、世界に“帰還”する合図が)
リオの胸の中の光が暴れ出す。
ユナは恐怖ではなく、なぜか涙を浮かべていた。
「なんで……こんなに悲しいの……?」
リオはその涙を見て震えた。
(思い出させたい。
でも、思い出したら……また彼女は消えてしまう)
胸が締め付けられた。
「ユナ……」
リオは彼女の手を取った。
その瞬間、世界が“反転”した。
空も海も砂も消え、
二人だけが青い深淵に立っていた。
ユナの足元から光が立ち上る。
「……ここ、知ってる」
ユナが小さく呟いた。
そう。
百年前、ユナが記憶を還した場所。
青の深淵の中心から、光が溢れた。
そこから――少女の影が現れた。
ユナは息を呑み、震えた声で呟いた。
「……あれ……私……?」
影の少女は優しく微笑んでいた。
百年前のユナの姿。
そして、
その唇がゆっくりと動いた。
『リオ……見つけてくれて、ありがとう。
ねぇ、ユナ。
あなたは“もう一度、私になる”時が来たよ』
ユナは泣き崩れた。
「……いや……!
私、消えるの?
あなたになるって……
じゃあ“私”はどうなるの……?」
リオの心臓が裂けた。
彼はユナを抱きしめた。
震える手で、必死に。
「大丈夫だ……ユナ。
消えない。
君は君のまま……
でも“あのユナ”も、君なんだ」
光の少女は優しく微笑んだ。
そして――ゆっくりと、ユナの胸へ手を伸ばした。
光が触れた瞬間。
ユナの瞳が青く染まった。
涙が溢れた。
両手で胸を押さえ、崩れ落ちた。
「……思い出した……
全部……全部……!」
悲しみ、愛、別れ、誓い。
そして、
最後にリオと交わしたあの言葉。
『――また、海で会おうね』
ユナの体が光に包まれていく。
リオは叫んだ。
「ユナ!!
行かないで!!
今度こそ……失いたくない!!」
深淵が揺れ、光が爆ぜる。
そして――ユナは顔を上げた。
瞳から溢れた涙は、
百年前と同じ、海の色だった。




