第4話 波に消える名前
潮風が、もう何も思い出せないほど、冷たかった。
ユナは、白い砂浜の上で目を覚ました。
手に何かを握っていた。
小さな青い欠片――リオの記憶の結晶。
けれど、それが“誰のもの”だったのかが思い出せない。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、
ただ涙だけが、理由もなくこぼれた。
マリエは、窓の外を見ながら言った。
「最近ね、街の人たちの“名前”が消えていくの。
昨日まで知ってた人が、今日になると“知らない顔”になる」
ユナは俯いた。
「……私のせい?」
マリエは首を振った。
「世界が“君の記憶”に共鳴しているのよ。
君が忘れるたび、現実が薄れていく」
ユナは唇を噛んだ。
「じゃあ、私が全部覚えていれば……誰も消えないの?」
「そう。でも、あなたの脳はもう限界よ」
マリエの声は震えていた。
「あなたは、“自分の名前”すら危ういの」
夜。
ユナは机の上のノートを開いた。
そこには震える字で書かれていた。
『ユナへ。あなたの名前は“海に残る声”。
忘れたくないなら、波に祈りなさい』
その筆跡を見て、胸が締めつけられた。
“誰か”の文字だった。
けれど、それが誰かを思い出せない。
涙が、ページに落ちる。
文字が滲んで、消えていく。
「……やめて。消えないで」
その声もまた、波に溶けて消えた。
翌朝、マリエがいなかった。
部屋には、彼女のコートと小さな紙片だけが残っていた。
『ありがとう、ユナ。あなたのおかげで、私の息子は眠れました。
――マリエ』
“マリエ”という名前を読んだ瞬間、頭がズキンと痛んだ。
その名前を、もう誰も呼ばない気がした。
ユナは泣きながら叫んだ。
「マリエぇぇぇっ!!!」
だが、声は誰にも届かない。
部屋の壁も、机も、少しずつ“白い砂”になって崩れていった。
ユナは浜辺へ走った。
海の色が灰色に濁り、波が文字のようにうねっている。
まるで、世界そのものが“書き換えられている”ようだった。
ユナは両手で海水を掬い、祈るように言った。
「お願い……全部、返して……!」
その瞬間、潮が逆流した。
空が裂け、記憶の光が降り注ぐ。
誰かの声が聞こえた。
「ユナ、もういいんだよ」
胸の奥が熱くなる。
その声を、確かに知っている。
けれど――名前が出てこない。
「あなたは……誰?」
風が止まり、海が静まる。
目の前に、少年の影が立っていた。
その瞳は、あの青い欠片と同じ色をしていた。
「リオ……?」
その名を呼んだ瞬間、海が一瞬だけ光った。
だが、少年は首を横に振った。
「違うよ。僕は“名前を持たないリオ”。君が作った幻だ」
ユナの頬を涙が伝う。
「だったら、名前をあげる……。私が覚えておくから……!」
少年は微笑んだ。
「もういい。君が忘れても、僕が君を覚えてる」
そう言って、彼は光に包まれた。
ユナが手を伸ばすも、その光は波に溶けて消えていく。
波の音だけが残った。
ユナは砂浜に崩れ落ちた。
自分の名前を口にしようとした。
「わ、たしは……」
声が震え、喉が詰まる。
名前が出てこない。
胸が苦しくて、呼吸が乱れる。
涙が止まらない。
彼女は両手で砂を掴み、祈るように叫んだ。
「私の名前を、誰か――呼んで!!!」
その瞬間、海が輝いた。
無数の声が波に乗って響く。
『ユナ』
『ユナ』
『ユナ――!』
それは、ミナ、マリエ、リオ……彼女が救ってきた人々の声だった。
世界が、彼女の“名前”を呼んでいる。
ユナは泣きながら笑った。
「……ありがとう。私、まだここにいるんだね」
海が優しく頷くように光った。
夜明け。
世界は静かに形を取り戻していった。
人々の名前が、再び風に溶けて響いていく。
けれど、ユナの姿だけがどこにもなかった。
浜辺には、ひとつの青い欠片が残されていた。
そこには、たった一言だけ刻まれていた。
『リオへ。――私を忘れても、海は覚えてる』




