第3話 深淵のリオ
夜が、永遠に明けなければいいと、ユナは思っていた。
目を閉じれば、まだあの声が聞こえる。
――「君が生きてるなら、それでいい」
けれど、リオはもう現れなかった。
まるで、最初から存在しなかったように。
マリエはユナの変化を察していた。
言葉を選びながら、温かい紅茶を差し出す。
「ねぇユナ……海が、また呼んでるわ」
ユナはゆっくりとカップを置く。
「わかるの。あの波の奥に、誰かが沈んでる気がして」
マリエは頷いた。
「海の記憶に“潜る”こと――あなたができる唯一の救済。
でも、代償は大きい。戻ってくるたびに、あなたの記憶が削れていくのよ」
「それでも、行く」
ユナの瞳には、決意が宿っていた。
「忘れてもいい。私が思い出せるあいだに、あの人を救いたい」
マリエは静かに頷いた。
「……深淵の扉は“青い灯”が開く。
リオが還った場所よ」
満月の夜。
ユナはひとり、波打ち際に立った。
灯籠を三つ流す。ひとつは自分へ。ひとつはミナへ。
そして最後のひとつは、リオへ。
その瞬間、海が息をした。
灯籠の灯が海面を滑り、やがて深く吸い込まれていく。
ユナは目を閉じた。
「――行くね」
足元の水が光に変わり、彼女の体を包み込む。
波音が遠ざかり、代わりに無数の声が響いた。
「どうして置いていったの?」
「まだ、名前を呼んでほしかった」
「ありがとう、さよなら」
それは、海に還った人々の“最後の記憶”。
ユナはひとつひとつを胸で受け止めながら、深く潜っていった。
やがて、光が消えた。
目を開けると、そこは“記憶の海底”。
空もなく、上も下もわからない。
漂う青い光だけが、彼女を導いていた。
その中心に、リオが立っていた。
「……やっぱり、来たんだね」
ユナは駆け寄り、泣きそうな声で叫んだ。
「どうしていなくなったの! あの夜、何も言わずに!」
リオは微笑んだ。
「ここは、君の“記憶の底”だよ。
僕はもう現実にはいない。君の中でしか、生きていないんだ」
ユナは首を振った。
「違う! あなたは確かにいた! 私、あなたに触れた!」
彼は彼女の手を取った。
その指先は冷たく、けれど確かに“形”を持っていた。
「僕は、“君が救えなかった記憶”の集合体なんだ。
君が失った誰か――その想いが形になって、僕を作っている」
「じゃあ、あなたはミナでもあるの?」
リオは黙った。
沈黙のあと、彼は静かに微笑んだ。
「ミナの“願い”を継いだのかもしれない。
君を守りたいって」
その言葉に、ユナの涙が零れた。
「……ずるいよ。そんなこと言ったら、また好きになっちゃうじゃない」
リオは少しだけ笑った。
「いいじゃない。僕は、君が泣く顔が嫌いなんだ」
海底に微かな光が差し込む。
けれど、それは儚い幻想だった。
リオがふと、苦しそうに胸を押さえた。
「……時間が、もうない。君がここに長くいると、現実の体が持たない」
ユナは手を伸ばした。
「じゃあ、一緒に戻ろう!」
リオは首を振る。
「僕は戻れない。君が現実へ帰るたび、僕は消えていく」
「そんなの……いやだ!」
ユナは涙を流しながら抱きしめた。
「あなたがいなくなったら、私……もう誰も思い出せない!」
リオはそっと彼女の髪を撫でる。
「思い出さなくていい。
でも、“想って”ほしい。名前が消えても、心が覚えてる」
その瞬間、ユナの胸が熱く光り始めた。
波のような記憶が体を貫き、リオの姿が薄れていく。
「リオ、やめて! そんなのいらない!」
「君に全部あげる。僕の記憶を」
青い光が爆ぜ、世界が白く染まる。
気がつくと、ユナは浜辺に倒れていた。
夜は明け、静かな波が寄せては返していた。
指先に、青い欠片が残っている。
それは、リオの“記憶の結晶”だった。
彼の声が、遠くから聞こえた。
「僕はもういない。でも、君が泣くたび、海は答えるよ」
ユナはそっと胸に手を当てた。
涙が頬を伝う。
それでも、微笑んだ。
「……ありがとう、リオ。
あなたの“記憶”は、私の中で、生きてる」
波が答えるように光った。
それはまるで、リオの微笑みのようだった。




