第2話 青い幽霊
ミナを還したあの日から、ユナは眠れなかった。
目を閉じると、波の音の奥から小さな笑い声がする。
潮の香りが、幼い日々を呼び覚ます。
――あのとき、もし私が手を離さなければ。
その後悔だけが、心の中に残っていた。
だからこそ、彼女は「もう誰も、忘れさせたくない」と願った。
その夜、海は不思議なほど静かだった。
星もない闇の中、ユナは灯籠をひとつ流した。
灯りは波に揺れ、ゆっくり沖へと進んでいく。
見つめていると、ふと、光の向こうに人影が立っていた。
潮風が止まり、世界が息を呑む。
「……ユナ?」
少年のような、青年のような声。
振り向くと、そこに――リオがいた。
濡れた髪。透ける肌。
けれど、懐かしい優しさをまとっていた。
「……誰?」
ユナは後ずさる。
「リオ。海で、目が覚めた。
君を見てたら、思い出した気がした」
「思い出した?」
「君の泣き顔。すごく似てた。……ミナに」
その名前を聞いた瞬間、ユナの心が軋んだ。
どうして彼がミナの名を知っている?
ユナは震える声で言った。
「あなた、死んだの?」
リオは静かに頷いた。
「二年前、嵐の日に海で。誰かを助けようとして……」
「その“誰か”って、誰?」
リオは目を伏せた。
「思い出せない。けど――助けられなかった」
波の音がふたりの沈黙を包んだ。
ユナは翌朝、孤児院の裏にあるマリエの書斎を訪れた。
マリエは彼女を育てた院長であり、かつて「海の記憶」を研究していた科学者だった。
机の上には、色褪せたノートが一冊。
そこにはこう書かれていた。
“記憶とは、魂の泡である。
死者の想いは、海に溶け、波として漂う。”
ページをめくる手が止まる。
「……“再生実験体:ユナ”」
見開いたまま、息が止まった。
マリエが部屋に入ってくる。
「それは、見てはいけなかったわね」
ユナは震える声で問いかけた。
「私……実験だったの?」
マリエは目を伏せた。
「違うの。あなたは“記憶を感じる力”を持って生まれた。
私は、それを守るために……」
「守るため? じゃあ、どうして“実験体”って書いてあるの!」
マリエは答えられない。
涙が一粒、ノートに落ちた。
「ごめんなさい。あなたを、普通の子にできなかった」
ユナは声を荒げた。
「私は人の“最期”しか見られない!
笑ってる記憶なんて、一度も見たことない!」
叫びの後、静寂が落ちた。
マリエはただ、抱きしめた。
「それでも、あなたが生きていることが、私の救いなの」
その温もりが、胸を締めつける。
母のような抱擁。
だけど同時に、どうしようもない“悲しみの始まり”だった。
その夜、ユナは再び海辺に出た。
潮が光り、リオが立っていた。
「泣いてた?」彼が尋ねる。
ユナは答えず、ただ海を見た。
「ねぇ、私、私って……何なの?」
リオは静かに近づき、そっと彼女の頬に手を当てた。
「君は君だよ。
たとえ誰かが作った命でも、今、ここで泣けるなら――それは、本物だ」
ユナの目から、涙が零れた。
その涙が砂に落ちると、青く光った。
「ねぇ……リオ。
あなたが助けようとしたの、私なんじゃない?」
彼は息を詰め、何かを思い出そうとするように目を閉じた。
波が弾ける。
――光。叫び声。小さな手。
――「リオ! 行かないで!」
彼の胸の奥に、焼きついた声。
それは確かに、ユナの声だった。
リオは震えながら言った。
「君を……助けたかった。
でも、間に合わなかった。君が泣いていたから……だから、もう泣かせたくなかった」
ユナは口を押え、嗚咽を漏らした。
「どうして、そんなこと言うの……。
あなたが死んで、私は……ずっと生きてた」
彼は微笑んだ。
「それでいいじゃないか。君が生きてるなら、それでいい」
涙が止まらなかった。
胸が、痛いほどに温かかった。
けれど――その瞬間。
ユナの視界が歪んだ。
頭の奥が焼けるように痛む。
何かが、抜け落ちていく。
リオが駆け寄る。
「ユナ!? どうした!?」
彼女は額を押さえながら呟いた。
「名前が……思い出せないの。
あの子の……ミ、ナ……ミナ……」
言葉が途切れた。
その名を呼ぼうとすると、頭の奥が真っ白になる。
リオは彼女を抱き寄せ、震える声で言った。
「君の力の代償なんだ……記憶を還すたびに、君自身の記憶が削れていく」
ユナは涙をこぼしながら、彼の胸に顔を埋めた。
「そんなの……いやだ。私、忘れたくない。
誰のことも、失いたくないのに……!」
リオの手が優しく髪を撫でる。
「大丈夫。君の涙がある限り、誰も本当に消えない」
夜の海が光を放ち、風が二人を包み込む。
それは、まるでミナの笑顔のように温かかった。
夜明け前。
ユナは一人で浜辺に立っていた。
遠くの水平線が白み始める。
潮の音が、誰かの声に聞こえる。
「忘れないで」
けれど、その“誰か”の名は、もう思い出せなかった。
胸に残るのは、喪失の痛みだけ。
それでもユナは微笑んだ。
涙を流しながら。
「……私、もう泣かない。
誰かを忘れても、ちゃんと、覚えてる」
波が静かに頷くように、足元を濡らした。
その光の中で、ユナの影が少しだけ揺れた。




