書類の迷宮に迷い込む
午前十時、平日の役場。
市民課の窓口には、人間たちが紙の束を握りしめて並んでいる。
空気にはプリンターの熱気とボールペンのインクの匂い、そしてなぜか焦りの波動が漂っていた。
その中に、黒いワイシャツを着てうつむく中年男性――倉田さんの姿があった。
> (いける……いけるはずだ。今日は“住民票の写し”を取るだけ。コンビニのコピー機でもできたが……あれは……怖すぎた……)
先週、深夜のコンビニでコピー機に話しかけられ、フリーズした記憶が蘇る。
「このサービスは一時的に停止しています」と言われ、心を閉ざした。
人間社会、恐るべし。
だから今日は直接、役場に来た。朝イチなら空いているだろうと思って。
49年前、偶然見つけた特技を久しぶりに発動。
お尻に絶妙なバランスで力入れると
日中も動けるようになった無敵?な
倉田さんだが、日中外にいる時は
どうしても少しニヤついてしまう。
いかんいかん。気を引き締めねば。
と、お尻を引き締めつつ無表情キープ。
「**番の方〜」
受付機から呼び出される番号にビクつきながら、自分の番号札「14番」を握りしめてじっと待つ。
手に持った“申請書”は、すでに湿気を帯びて波打っている。ペンを持つ手が震えて字も怪しい。
> (名前……住所……ふりがな……これは……罠だ……)
「ふりがな」の欄に「倉田」とだけ書いてしまい、訂正印が必要になった。
訂正印……また別の印鑑がいるのか。1本じゃ役場に来てはならないことを初めて知った……
窓口の職員(若い女性)が困ったように微笑み、言った。
「では、こちらで二重線を引いていただいて、横に正しくご記入をお願いしますね」
倉田さん、頷く。訂正印無しでもいけるとは。しかし――
> (に、二重線って……どっちから……いや、真ん中か? 真ん中ってなんだ? 真ん中って人間の概念でどこ?)
線を引くだけで3分悩んだ。
後ろの席の人が咳払いした瞬間、フッと消えかける気配を放ってしまい、赤ん坊が泣き出した。
ようやく提出を終えるも、「ご本人確認できる書類を……」と言われて、また固まる。
免許証、持っていない。
健康保険証も持っていない。
> (こいつに催眠暗示かければ簡単だが、ギリギリまでここに溶け込むと決めたしな……)
倉田さん、ポケットから古い図書館カードを差し出してみる。
職員の女性が目を細め、困ったように首を振る。
「申し訳ありませんが、こちらはご本人確認には……ならなくて……」
その声に、倉田さんはゆっくり首を垂れた。
〈倉田〉の身分証。か。
どうしよう…………佐々木に借り、いや、ダメだ。あいつのことだから根掘り葉掘り聞いてくるな。
やはり正規のルートじゃ無理だな……
ため息とともにお尻の力を抜いた後
ちょっぴり焼け焦げた匂いを撒き散らしながら帰る倉田が薄暗いロビーに、すっと沈む。
その日の夜勤明け……
佐々木の報告日誌には
> 『本日の倉田さん。いつにも増して哀愁漂ってるような……
バーゲンでお目当ての商品買えなかったのかな?
あと、倉田さんの近くで何か臭うが何なのかは不明。ファブリーズかけたら拗ねたみたい。なんか、ごめんなさい……』