雑務より味噌汁
倉田さんは懐中電灯を床に置いた。
冷たい光が横から照らし出す中で、その顔は影をまとったままだった。
「な、なんなんだあんた……ただの警備員じゃ――」
社員が後ずさりし、パイプを振り回す。
その足元に、すり寄る毛並み。
「うわっ!」
巽がするりと足に絡みつき、社員のバランスを崩させた。
鉄パイプがガシャリと床を叩く。
「ちっ……猫だと?」
社員が蹴り払おうとした瞬間、闇の奥から二つの眼がぎらりと光った。
今度は笑っているように見える――不気味に。
「……逃げ道はない」
倉田さんの声は低く、鋭く、耳の奥に直接響いた。
社員の肩がびくりと震える。
「お、おれは……金を、ちょっと……!会社だって……!」
言い訳は、倉田さんの一瞥で凍りついた。
――そのとき、佐々木はぼんやりとした視界で見た。
社員の影が、床の光の中で揺らぎ……次の瞬間、すっと闇に吸い込まれるように消えた。
残されたのは静寂と、冷たいコンクリートの匂い。
巽が、にゃあと一声鳴いて、尻尾をゆっくり立てた。
それはまるで「仕事は終わった」とでも言っているかのようだった。
佐々木は救急搬送され、肩にギプスをはめられて病院のベッドに横たわっていた。
点滴のチューブが揺れる横で、母親が座っている。
「……あのね、倉田さんが助けてくれたんだよ」
佐々木が熱っぽい声で語る。
「ほんとかっこよかったんだよ!やられたらやり返す!(倉田さんが)二倍返しだ!って心の中で叫んじゃったよ!
だから母さん、僕は大丈夫。だって倉田さんがいるから!」
母親は目に涙をため、深々と頭を下げた。
「倉田さん……息子を守ってくださって、本当にありがとうございます。
このご恩は一生忘れません」
廊下に立つ倉田さんは、無言で軽く会釈するだけだった。
(……過大評価だ)
心の奥で小さくため息をつきながら。
病院を出ると、夜明けの空気が冷たく肺に入った。
巽が足元にすり寄って鳴く。
倉田さんは自販機で缶コーヒーを買い、無表情で一口。
だがふと、昨夜佐々木ママが病室で言った言葉を思い出す。
「今度、お味噌汁でも食べにいらしてくださいね」
ほんのわずかに口元が緩んだ。
派手な感謝よりも、その湯気立つ一杯のほうが――ずっと心に沁みる。
夜明けの街を、倉田さんは静かに歩き出した。