倉田とスパイときどきミルキー
深夜0時半。
ビル18階の無人フロアで、清掃員の制服を着た男が端末に向かっていた。
動きは速いが、どこか焦りが混じる――プロのスパイは焦らない。
この男は、まだ自分の腕を過信しているタイプだ。
その様子を、モニター室で見ていた佐々木が慌てて無線を取る。
「倉田さん! 18階でサーバーにアクセスしてます!」
「……あぁ、分かってる」
返ってきた声は低く短い。
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次の瞬間、カメラは死角になった。
フロアの奥、蛍光灯の光が届かない場所で、倉田さんが背後に立っていた。
「夜勤は、静かにやるもんだ」
男が振り返る。
「……誰だ、あんた」
「ただの夜警だよ。……それと、お前は今、俺に“機密ファイルを渡す”と心から思っている」
倉田さんの目が、わずかに鋭く光る。
声は囁きなのに、耳の奥で何度も反響するように響く。
男の呼吸が乱れ、手は自然にキーボードを叩き始めた。
「バカな……俺は……」
「送れ。……中身は、ちゃんと確かめたほうがいい」
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数分後、データは外部に送信された――ただし、その内容は差し替わっていた。
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翌朝。
セキュリティ部門が騒いでいる。
「昨夜、外部に流出しかけた極秘契約書が……全部、アイドルグループ“ミルキーステップ”のライブ映像になってたんです」
佐々木は、自分の机に置かれたDVDケースを見て息を呑む。
――それは推しの最新ライブ、しかも佐々木がどう頑張ってもチケットが取れなかった日の公演の映像だった。
「……これ、どうして俺の机に?」
後ろでコーヒーを飲みながら、倉田さんがぽつり。
「……警備員の特権だ」
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佐々木の日誌より
倉田さんは、敵の心を読むというより、欲望の形を“すり替える”のかもしれない。
ファイルは無事、会社も無事、推しも尊い。
俺は深く考えないことにした。