試験 2
「山海の珍味の羹と、若鳥の炭火焼──秘伝のタレを使用したものです」
「秘伝のタレ?」
興味深そうに反応を返したのは第四公子ではなく、横に控える衛生のほうだった。若 賢星の表情は、背を向けているので明夏の位置からでは見えない。ただ、聴こえる声は冬の凍てつく風のようだった。大丈夫かとかってにはらはらしてしまう。若 賢星は憤りと怒りを隠さない。下手なお世辞でごまかすぐらいなら、舌を噛み切って死ぬかもしれない。続く彼の声は冷ややかだった。
「我が若家の始祖、若謝星が編み出した製法のタレです。約五十種の野菜や香辛料、鶏がらを一週間以上煮つめております。本日は試験のために、家から少量を持ってまいりました。このタレには、鶏肉の旨味を引き出す効果があり、身はふっくらと味わい深くなります。炭火でじっくり焼き上げることで、鶏肉は柔らかな触感に仕上げております。どうぞ、ご賞味ください」
衛生がごくりと唾を飲むのがわかった。あの鶏肉が焼けるのを真横で見ていた明夏は、衛生以上に食欲を刺激されていた。食べ頃になるよう温めなおしておいたのか、鶏肉は焼きたての香ばしい匂いをふんだんに漂わせ、油をしたたらせている。衛生が小皿に取り分けると、炭火焼の香ばしさとタレの匂いがあたりに広がった。小皿を受け取った第四公子が、箸を手に生唾を飲むのが聴こえた。華奢な指に握られた箸で震えながら鶏肉をつかむ。明夏はそっと目を閉じた。鶏肉が口に入った瞬間のことが、勝手に口内に想像された。──炭火焼の煙の風味と、ぱりっと焼けた若鳥の皮目。ふっくら柔らかい肉の感触が、食べてもいないのに舌に広がる。余分な脂のぬけた鶏肉はあっさりして旨味があり、香辛料とほどよいタレが効いている。噛めば噛むほど旨味がじゅわりと広がり、ぴり辛の風味と混じっていく。したたる旨味が口中に幸福をもたらし──。
かしゃんと、慌てたように第四公子が箸を置く音でハッとした。第四公子はひと口も鶏肉を食べていなかった。机に小皿と箸が戻されたのをみて、衛生がため息まじりに言う。
「召し上がらないなら、拙がいただいてしまいますよ? どれ、こちらは──本当に見事ですね。宮中で味わった料理のなかでも、これほど美味なものはめったにないかと」
御簾内で第四公子が首を振る。御簾はちょうど肩から上を隠すように垂れ下がり、その表情は見えないが、ぎゅっと白くなるまで握りしめられた拳からは「絶対に食べない」という強固な意志が窺えた。どこか体調でも悪いのだろうか? あれほど食欲をそそる料理を食べないとなると、病を得て食欲が落ちているとか──? そのとき、くぅぅ、と、第四公子のお腹が鳴った。誰も反応しなかったから明夏も知らぬふりをしたが、前にいる若 賢星が、すぅぅ、と細く息を吸いこむのがわかった。腹が減っているのに食べないのか。そう額に青筋を立てているのがみえるようだ。衛生が咳払いし、「こちらの料理は?」と、若 賢星が用意した汁物を示している。若 賢星の声は刺々しく、怒りを隠そうともしない。
「──鶏肉をもとに、青豆や隠菜草、八子の実、夜吊花などを用い、内から体を整える羹です。疲れた胃腸と臓腑を癒し、消化をよくする効果があります。鶏肉の油を口にいれた後、口直しの効果があるものとしてご用意しましたが」
羹を汁用の小皿にとりわけた衛生は、若 賢星の口調の棘をさらりと流して尋ねる。
「つまり、薬膳の効能のある羹ということですね? 薬を扱うのは薬事房の管轄ですね。厨房の職掌を越える領分になりはしませんか?」
料理に薬を混ぜるなと衛生は言いたいようだった。薬膳の扱いは難しい。薬とされる食材も使い方を誤れば毒になる。食す側の体調や状況しだいで、体に良いはずの食材が真逆の効果をうみだすこともあるのだ。衛生がそのまま小皿を第四公子へ渡したところをみると、ただ単に釘をさしておきたかっただけのようだった。本当にこの羹が毒になると思ったら、第四公子へは渡さなかっただろう。対して、若 賢星の声はいっそう低くなる。彼が怒り心頭であることは明らかで、研ぎすまされた包丁をつきつけるような緊迫感が、その背にはぴりりと漂っていた。硬く握りしめられたその拳で、今にも第四公子に殴りかかっていきそうだ。
「我が若家は、代々薬膳の知識を受け継いでおります。医師ではありませんが、相手をみて、その方にあった食療をほどこす技術を有しております。たとえばそちらの羹は、長期間の絶食や、極端に食が細く、弱った胃腸にもやさしいものです。消化を助ける効果がありますから。たまたまではありますが、いまの第四公子には最適なものでしょう」
小皿を受け取った第四公子と、衛生がぎくりと固まった。衛生は「なぜそれを?」という風に、無言で若 賢星を見つめている。どうやら第四公子は胃腸を弱めているらしい。それが長期の絶食や、極端に細い食事のせいだというのは、見ただけではわからなかった。若 賢星は取り繕うことを諦めたらしく、尊大にため息をつく。
「お疑いはわかりますが、事前に状況を耳にしていたわけではありません。もし知っていたら、脂身のある鶏肉などは絶対にご用意しませんでした。消化を助ける粥や、果物菓子などを作ってきたでしょう。けれどそちらの羹は……幸いにも、今のお体には適しております。どうぞ、ご賞味ください」
衛生が頷いて第四公子を見る。じっと小皿に視線を落とした第四公子は、意を決したように震える手で羹の小皿を口へ運んだ。ひと口、素早くなめるように飲み、ほう、と恍惚の息をもらしてから、慌てて火に触れたかのように小皿を机へ戻す。その反応に、思い切り顔をしかめる若 賢星が目に浮かぶようだった。衛生が「もうひと口」と渡そうとするが、第四公子が即座に手のひらで制した。「これ以上いらない」という無言の意志表示だった。衛生がため息をつき、それでもどこか嬉しそうに若 賢星に頷きかける。
「お見事です。貴殿にはぜひ、後宮料理人として働いていただきたい」
若 賢星は無言で完璧な礼をとり、隣に下がってきた。てっきり険しい表情をしていると思ったのに、意外にも彼は無表情だった。美しい黒目はどこか遠く思考の海をさまよい、怒りはみられない。ぼんやりしていると、肉まん役人にせっつかれた。
「次はお前の番だ。はやくしろ……!」