若 賢星
「っ、お願いです、機会をください!」
「ならん! お前は不合格──」
さらに懇願しようとしたとき、その場が異様な空気になった。肉まん役人と少年たちがなぜかぽかんと口をあけ、自分の背後を凝視している。つられて振り返り、口にしようとしていた言葉を忘れた。自分も彼らと同じように、あんぐり口を開けているのがわかる。光り輝くような美少女が、軽やかな靴音とともに門の内に入ってきていた。国一番の美姫と言ってもおかしくないほどの麗人だ。上質な白砂糖のように真っ白な肌、繊細な目鼻立ち、長い睫毛に、煙るような黒い瞳。表情はどこか憂いを秘め、迷うように揺れている。まるで闇の淵に立ち、今にもそこに落ちてしまいそうな、危うげな儚さのみえる美少女だった。思わず手をさしのべ、守ってあげたくなるような──つやのある黒髪を美しく結い、金色の簪一本で留めている。そこまでなら、どこの貴族子女だろうと疑問に思うところだが、美少女はなぜか料理人の着るような質素な黒服を着こんでいた。磨き抜かれた宝玉を粗末な麻袋へ無造作に入れたようで、その恰好は美少女にそぐわなかった。黒の男物の服に身をつつんだ彼女は、背徳的な魅力も備えていた。ごくりと、誰かがつばを飲むのが聴こえる。言葉を失った全員の前で、美少女は優雅な礼をする。彼女が顔をあげたとき、明夏は「あ」と思った。儚そうな見た目に反し、大きな黒瞳にみえたのは剣呑な光だ。見た目通りに繊細な性格ではなさそうだった。玲瓏とした声が紡がれる。
「遅れて申し訳ございません。父から言付かった所用がありましたので」
その声を聞き、目の前にいるのが「美少女」ではなく「美少年」なのだと、ようやく気がついた。怪訝な顔をした肉まん役人へ、繊細そうな美少年は落ちついた声で告げる。
「若 賢星です。こちらで、後宮料理人の試験が行われるとうかがいましたので」
その瞬間、場がざわついた。少年たちが愕然と「あいつが?」「若 賢星!?」と、つぶやいている。肉まん役人はあからさまに態度を変えた。
「お、おお、若のご子息でしたか! お待ちしておりました。さぁどうぞ、こちらへ──」
にこやかに最前列へ誘う肉まん役人を一瞥し、若 賢星は首を振る。形の良い口がひらかれ、氷のように冷たく澄んだ声が出てくる。
「先ほど、遅れたものは不合格だと仰っていましたね。では、僕も不合格になりますか?」
「い、いえ、とんでもない!」
「けれど、後にきた僕が試験を受けられるのに、こちらの方が試験を受けられないのは、道理にそわない気もしますが」
「こちらの方」と示されたとき、若 賢星は目を合わせてきた。ほんのかすかに笑んだ瞳の奥に、皮肉っぽい蔑みの色がみえた気がする。……気のせいだろうか?
肉まん役人が怒りをこらえるように若 賢星から視線をずらし、私をみる。
「っ、お前! 今回は見逃してやる。次はないからな!」
「っ、は、はい!」
「さあ、若の若君、どうぞこちらへ」
「いえ、僕はこのままで結構です」
若 賢星はなぜかその場を動こうとしなかった。すぐ左隣に立っているので、前方から少年たちの視線がちらちらと向けられる。みんな若 賢星のことが気になるらしい。礼を言おうと横を見たが、若 賢星は真っすぐ前を見ていた。つんと澄ました顔は「ひと言も話しかけるな」と示しているようで、こっそりため息をついた。あとで機会があればお礼を言ってみよう。
「これから実技試験をはじめる! 各自、時間内に一品ずつ料理を作るように。それを試食した上で採用の可否を決める」
肉まん役人は顔を引きつらせ、試験の概要を説明していた。若 賢星のことが気になるようだが、わざとそちらから視線を外している。
「食材はあちらから選んで自由に使うがいい。厨房は建物の中だ」
石畳の庭の左に台が置かれ、ずらりと食材が並べられていた。野菜に魚、肉、調味料、信じられないぐらいたくさんの食材がそろっている。町中の市場をそのまま持ってきたみたいだった。これだけの食材があれば、なんだって作れるだろう。肉まん役人は全員を見渡し、ふん、と目を細める。
「厨房の数が限られておるから、そうだな……ふたりひと組で使うように。誰と組むか決めたものから、さっそく調理を始めよ!」
その瞬間、いっせいに全員が振り向いた。ぎょっとしたが、少年たちの視線の先には若 賢星がいた。みんな彼と組みたいのだ。そう気づいたときには、左腕を若 賢星につかまれていた。
「僕と組んで?」
若 賢星の微笑みは自信に満ち、断られることなど考えてもいないようだった。暴力的な美と圧に押しまけ頷くと、若 賢星は興味をなくしたようにぱっと手をはなした。そのまま軽やかな足取りで食材のほうへ歩いていってしまう。先ほどのお礼を伝える暇すらなかった。向こうから誘ってきたのに、まるで「組んだらもう用なし」と言うような態度だ。しばらく茫然としていたが、他の少年たちが慌ててふたりひと組になり、食材を集めはじめたので、はっとした。自分も食材を集めなければならない。手ごろな肉や野菜を抱えて建物の中へ入ると、焼き場と窯がひと組になった作業場が横一列にずらりと並んでいた。さっそく調理を始めるものの姿もあったが、まだほとんどは食材を集めているようだ。がらんとした調理場の最奥に若 賢星の姿があった。小気味よく野菜を切る彼は、近づいていくとちらりと視線を寄越したが、無言で視線を手元に落としてしまう。その態度は友好的とはとてもいいがたい。見えない壁のようなものを感じたが、彼に助けられたのは事実だ。
「あの、さっきはありがとうございました」
若 賢星は手を止めずに無視した。その包丁さばきは正確で、つい魅入ってしまう。白魚のような手が優雅に動き、刃物を操る。切り終えた野菜をざるへ移し、包丁や包丁台の汚れもすばやく清めている。洗練された動きに迷いはなく、かなりの料理経験があるとうかがえた。惚れ惚れと眺めていると、包丁を静かに置いた若 賢星がため息をこぼした。馬鹿を見るような瞳をしていた。
「君、はやくしないと間に合わないよ。自分の作業に集中したら?」
「すみません、そうですよね。あまりにも手際がよかったので、つい」
「べつに敬語じゃなくていいけど。名前は?」
「明夏です」
つい本名を名乗ってしまったが、まあいいかと思い直した。試験の名簿には弟の名前「明秋」が載っているはずだった。いざとなれば名簿の書き間違えだと言い張ろう。ついでに若 賢星に対して敬語を崩すか考えたが、やめておくことにした。へたに男らしい口調を装おうとすると失敗しそうだ。「ふうん」と頷いた若 賢星は、鶏肉をさばきながら皮肉な笑みを浮かべる。
「どうして君と組んだかわかる?」
首を振ると、若 賢星は手を止めないままで続けた。