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赤薔薇の庭と無言の青年

 早朝、王宮の門へ向かうと、紺色の官服のでっぷりした役人が待っていた。仏頂面で腹が肉まんのように膨らみ、顔も手もむちむちとしている。ひと目みて、明夏はこの役人に「肉まん」とこっそりあだ名をつけた。蒸し器で焼いて彩りを添えたら、肉汁のしたたるおいしい料理に仕上がりそうだ。渋面なので、苦みを取り除く薬味が必要になるかもしれないが──……。

 仏頂面で「名前は?」と問われ、明夏は慌てて意識的に声を低める。


明秋(めいしゅう)です」


 名簿で弟の名前を確認した役人は、気だるげに左を示した。


「あそこで待っておれ」


 門の内に、同じく試験を受けにきたのだろう料理人たちが二十名ほど集まっていた。年は明夏と同じぐらいで、みな高そうな絹服に身をつつんでいる。ひょっとすると、ここには士族の庶子や、豪商の料理人ばかりが集められているのかもしれない。明夏は彼らの最後尾に静かに立った。まだ誰にも女だとばれていないが、なるべく目立たないほうがいい。しばらくすると門が閉められ、後からやってきていた料理人たちが締め出された。先ほどの仏頂面の役人が、ふん、と偉そうに告げる。


「栄えある陛下のお膝元なのに、朝一番に来ぬものはいらぬわ。みな、私についてくるように」


 『実技試験は王宮で行われる』。事前に通達されていたのはそれだけだった。わかっているのは日取りだけ、時間についてはひと言も触れていなかった。朝一番に来なければならないなんて、そんなことは言われていなかった。たまたま、自分は早朝に着いてそのまま入ってきたが、そうでない人も多かっただろう。現に締め出された料理人はたくさんいた──。そっと周囲を窺うと、けれど少年たちの顔に戸惑いや驚きはみられない。高価な衣服を身にまとった彼らは、太った肉まん役人の言葉を当然のこととして受け止めている。動揺ひとつみせず、黙って役人の後をついていく。彼らをみて、ここはそういう場所なのだと悟った。士族や豪商の子息には、きっとひそかに貴重な情報が伝えられていたのだろう。後宮で与えられた情報、わずかな言葉──その裏に含まれたものを、常に察していかなければならない。


 つかの間、緊張に強張った思考は、けれど後宮内へ足を踏み入れた瞬間に、その壮麗さに魅了されていた。後宮は本当に広い。角をいくつも曲がり、小さな内門を繰り返し通っていく。よく手入れされた美しい庭園や、泉のそばを通りすぎる。何度も何度も。ひとりでここから帰れと言われたら、来た道を辿ることすら難しいだろう。


 そのとき、何気なく目をやった景色に、はっと呼吸を奪われた。通りがかった門の先に、この世のものとは思えない美しい花園が広がっていた。赤や黄の花々が密集し、天からの光を受けて燦然と輝いている。あれは……ひょっとして、本物の「薔薇」だろうか? 思わず足を止め、まじまじと観察していた。美しいものがあったらじっくり見るのは、「料美屋」で働く人間の癖のようなものだ。美術品や工芸品、花や鳥、なんでもいいが、美の元となる造形を常に頭に取り入れておくのは、飾り料理人にとっては呼吸の次に重要なことだ。料理で人を感動させるには、審美眼を常に磨いておく必要がある。

 明夏は美しいものが好きだった。絵でも花でも、動物でも。人の目を奪う美の構造をつきとめ、自らの手で作りあげたい。常にそう思っているから、つい立ち止まってしまったのだ。これほど美しく見事な庭は、市井にはまずない。まるでこの世のものとは思えない、死んだ後にみるという夢のような──……。


 青い蝶がひらひら舞うのをみたとき、明夏はふらりと門のほうへ踏み出していた。二、三歩進んで、はっとする。振り返ると、役人が先導する列は一本道を進んでいく。すこしだけ離れてしまったが、走って追いかけてもまだ十分間に合う距離だ。すこしだけ、ほんのすこしだけ。覗いてみるくらいなら──。誘惑に負けて門の内に足を踏み入れた瞬間、感嘆のため息と声がもれていた。


「うわぁ……!」


 目の前に巨大な薔薇園が広がっていた。何十、何百と種類の異なる薔薇が咲き、むせかえるほどの芳香につつまれる。庭園の奥にはきらきら輝く清流があり、そばには白大理石の東屋もみえた。ここは貴人が薔薇を楽しむための場所なのだろう。庭全体の構図も見事だが、よく手入れされた花々は素晴らしい。誘われるように近づくと、視線を落とした先に一本の薔薇があった。

 完璧な赤薔薇。

 薔薇は庶民にとっては高級品だった。実物を目にする機会はほとんどなく、自分のような町人には、絵物語や演劇の模造品で見るだけの、一生手の届かない花だ。料理でその形を模すことはあっても、だから実際に目にするのはこれが初めてだった。

 そっと指で触れてみる。顔を近づけ匂いを嗅ぎ、濃い紅を堪能する。花びらの数と造形を頭に叩きこみ、惜しいと思った。ここに絵筆があれば、今すぐこの薔薇の姿を記しておけるのに。この美しさを砂糖菓子や飴でどうやって再現すべきだろう。花びらの色を濃くし、繊細に幾重にも重ねればいいだろうか。花の厚みも絹のように、薄くすべきかもしれない──飾り菓子の調理法が頭にどんどんわいてくる。想像が膨らみ、恍惚と思考をめぐらせていた、そのとき──。


 かさり、と音がした。真横の地面に人影が現れ、ぎょっとする。顔を上げると、優しげな面立ちの青年が驚愕を浮かべて立っていた。年は二十歳ぐらいだろうか。茶色の短い猫毛に、金色の瞳。金糸飾りのついた白い衣を風になびかせ、怪訝そうに首をかしげている。陽の光を受けた金色の瞳が、「どうしてここに?」と無言の疑問の色で瞬く。


「ご、ごめんなさい! 勝手に入って……」


 慌てて門の外へ出たが、青年はぽかんとした顔で立ちすくんでいた。追ってくる様子はない。外へ出て役人が先導する列へ戻ろうとし、唖然とする。いない──突き当りを曲がったのだろうと追いかけてみたが、左右の曲がり角を覗いても姿がみえなかった。みんなどこへ……? 試しに右の角を曲がってみる。四つ角へ出た。料理人たちの姿はみえない。来た道を戻り、左の角も曲がってみる。同じような四つ角があるだけで、人影はひとつもみえなかった。氷菓子を仕込むのに氷室に入ったときのように、ザァっと冷気が背を駆けた。まずい。この広い後宮で完璧に迷子だ……。一本道で途方にくれていると、先ほどの門から青年が出てくるのがみえた。両手に白薔薇を抱えた青年はきょろきょろと辺りを見回し、明夏を見つけると歩いてくる。彼に聞いてみるしかない。怒られるかもしれないが。


「すみません。実は、後宮料理人の試験を受けにきたんです。道に迷ってしまって」


 青年は無反応だった。なぜか化け物を見るような目でこちらを見つめたままだった。あ、と気づき、慌てて膝を折る。


「私は蘇明夏と申します。後宮料理人の、選抜試験の行われる場所をご存じではありませんか? このあたりに厨房があれば、たぶんそこだと思うんですけど……あの……?」


 声が戸惑いに揺れたのは、青年が唖然とした様子のまま黙りこんでしまったからだ。じっと何事かを考えていた青年は、けれど頷く。納得したという風に小さく微笑み、整った口がハクハクと動く。その声は聞こえない。


「え? もう一度お願いします」


 青年は「困った」と眉をさげる。感情表現が豊かで、表情がころころ変わるのが面白い。どこか神聖さを感じる美麗な面立ちなのに、妙に親しみやすさのある人だった。市井の普通の女の子なら、その美しさに見惚れ、恍惚としていただろう。けれど明夏は青年の造作より、着ている金糸刺繍の衣のほうに釘付けになっていた。詰襟と肩、両袖に豪華な金の縫い取りがある。神話の炎の鳥、「不死鳥」を模した飾りのようだ。羽や尾飾りの構図が珍しく、模様も市井では見かけないものだった。その美しさについぼんやりと魅入ってしまった。この精緻な刺繍を自分の飾り菓子で表現してみたい。野菜を切って表現してみてもいいが、焼きごてで焼き付けるのがいいだろうか。そのほうが絵図の細部まで表現できる。すこしでも記憶に留めようと観察していたせいで反応が遅れた。


「えっ」


 青年が薔薇を抱えていないほうの手で、こちらの手をつかんだのだ。一気につまった距離に息をのむ。へらりと音のつきそうな無邪気な笑みが間近にあった。そのまま一本道の先へ引っ張られていく。


「ちょ、ちょちょ、ちょっと──!」


 どこにと問う暇もなかった。左の角を曲がり、四つ角を折れ、ぐんぐん先へ進んでいく。小さな門の前まで来たとき、中に厨房があるのがわかって、ようやく試験の場所へ案内してくれたのだと分かった。門の内からは良い匂いが漂ってきている。中を覗くと、石畳の前庭に料理人志望の少年たちが整列していた。正面に階段があり、平屋建ての建物がみえる。あそこがきっと厨房だろう。青年はぱっと手を離すと、へらつく笑みで手をふった。


「あ、ありがとうございました」


 いいから。そう表情だけで示した青年は、中へ入れと無言で手をふる。どこの誰だか知らないが、本当に親切な人だ。声は聴こえないし、すこし変わっているけど……。そろりと少年たちの列の最後尾へ近づいていく。こっそり加われば、ばれないだろう。ひとり欠けていたことなんて、誰も気づきもしないはず──。


「そこのお前! 列を離れたな? どこへ行っておった!?」


 太った肉まん役人が、前方の高い位置で叫んでいた。まずい。整列していた少年たちがいっせいに振り返る。全員の視線が刺すようにそそがれる。興味深そうに眺めるものや、怪訝と目を細める顔もあり、内心冷や汗が止まらない。男装をしているし、外見で女だとばれることはないはずだ。それでも、じっくり観察されると不安になってくる。顔つきや仕草で女とばれてしまうのでは……? ひそひそ声でこちらをみて話し合っている少年たちを見て、腹をくくった。ばれたらそのときはそのときだ。失敗して焦げた焼き菓子だって、そこからうまく使えば別のおいしいお菓子になるものだ。人間、何事もひらき直りが肝要なのだ。思い切り息を吸い、不安を吹き飛ばすように腹から声を出した。


「申し訳ございません! 道に迷ってしまって」


 肉まん役人の声は張り合うように大きかった。


「言い訳はいい! 遅れてくるなどもってのほかだ! お前に試験を受ける資格はない。お前は不合格!」


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