第八話:宝物の本当の在り処
ごうごうと鳴り響いていた激流の音は、いつの間にか遠ざかっていた。
夕陽に染まり始めた森の中を、私たちは帰路についていた。エミリーの足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽く、弾んでいる。彼女の胸元では、泥を洗い流された銀のツバメが、誇らしげに夕日を反射してきらめいていた。時折、エミリーはそのブローチを愛おしそうに撫で、そのたびに、隣を歩く私の心にも温かい光が灯るのだった。
「それにしても、肝が冷えたぜ……。まさか、あんなボロ橋を本当に渡っちまうなんてな」
私のポケットの中で、リヒトがしみじみと呟いた。彼の声には、いつもの憎まれ口とは違う、心からの安堵が滲んでいる。
「ふふ、あなたと一緒だったから、心強かったわ」
「ふ、ふん! 当たり前だ! 僕という世界一のティーカップ様がついていて、心強くないわけがないだろう!」
リヒトは照れ隠しのようにそう言うと、ぷいとそっぽを向く気配がした。そんな彼の不器用な優しさが、今はたまらなく愛おしい。
やがて、木々の切れ間から、見慣れた店の屋根が見えてきた。窓から漏れるランプの灯りが、まるで「おかえり」と言ってくれているようで、自然と足が速まる。
店の扉を開けると、そこには、カウンターに寄りかかって腕を組み、静かに私たちの帰りを待っていたカイさんの姿があった。彼の表情はいつも通りポーカーフェイスだったが、私たちが三人揃って無事な姿でいるのを見て、その瞳がほんの少しだけ和らいだのを、私は見逃さなかった。
「……おかえりなさい。約束通り、暗くなる前に戻ってきましたね」
「はい、カイさん。ただいま戻りました」
私たちが中へ入ると、エミリーはカイさんの前まで駆け寄ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、お店のご主人! おかげで、お母さんの宝物が見つかりました!」
彼女が胸を張って見せるブローチを見て、カイさんは初めて、僅かに目を見開いた。そして、その視線はブローチから、誇らしげなエミリーの顔へ、そして私の顔へとゆっくりと移った。
「……そうか。見つかったか」
カイさんは、まるで自分のことのように、静かに、しかし心の底から喜んでくれているようだった。彼はエミリーの頭に、ぽん、と大きな手を置くと、優しく撫でた。
「良かったな」
「うん!」
エミリーは、満面の笑みで頷いた。
私はカイさんに、森での出来事をかいつまんで報告した。ピクシーとの出会い、風の精霊とのなぞなぞ、そして吊り橋での一件。私の話を聞きながら、カイさんは時折「ほう」とか「なるほど」とか相槌を打ち、特に風の精霊の話になった時には、興味深そうに顎に手を当てていた。
「シルフィードになぞなぞで勝った、か。リリアーナさん、貴女は、私が思っている以上に、面白い力を持っているのかもしれませんね」
「いえ、そんな……。ただ、本で読んだ知識と、ほんの少しの幸運があっただけです」
「謙遜するものではありません。どんな知識も、それを使うべき時に、正しく使う勇気がなければ意味がない。貴女は、それをやってのけた。素晴らしいことです」
カイさんからの思いがけない称賛の言葉に、私の頬は、夕焼けのせいではない熱を持った。
エミリーは、その後も名残惜しそうに店の中を見て回っていたが、やがて村へ帰る時間になった。
「本当に、本当にありがとう、リリアーナ! それから、ティーカップ様も!」
「リヒトでいいと言ってるだろう!」
「うん、リヒト! また、遊びに来てもいい?」
「ええ、もちろんよ。いつでも歓迎するわ」
店の外まで見送ると、エミリーは何度も何度も振り返り、大きく手を振りながら、夕闇に染まる村への道を帰っていった。その小さな背中が見えなくなるまで、私たちは静かに見守っていた。
店の中に戻ると、カイさんは温かいハーブティーを淹れてくれた。その優しい香りが、冒険の疲れを癒してくれる。
「……お疲れ様でした。今日は、本当によくやりましたね」
カウンターの向かいに座ったカイさんが、静かにそう言った。
「いいえ。カイさんが道具を貸してくれて、リヒトが助けてくれたおかげです。私一人では、何もできませんでした」
「そんなことはないさ」
そう言ったのは、リヒトだった。
「お前が、あのエミリーとかいう嬢ちゃんを助けたいって、本気で思ったからだ。お前のその強い想いが、僕たちを動かして、あの風の妖精たちの心さえも動かしたんだぜ。今日の主役は、間違いなくお前だよ、リリアーナ」
リヒトからの、あまりにも素直な褒め言葉。私は驚いて彼を見たが、彼はぷいとそっぽを向いてしまい、その表情を窺うことはできなかった。
「……リヒトの言う通りです」と、カイさんも同意した。「道具は、ただそこにあるだけでは、ただのガラクタにすぎません。それを使う者の、強い意志と、清らかな心があって初めて、本当の力を発揮する。今日の貴女は、最高の"使い手"でしたよ」
二人にそこまで言われては、照れるしかなかった。私は「ありがとうございます」と呟くのが精一杯で、熱いカップに顔を隠すようにして、ハーブティーを一口飲んだ。
その日の夜。
私は、自分の部屋で今日の出来事を日記に綴っていた。
初めての「仕事」。初めて、自分の意志で、誰かのために行動したこと。それは、これまでの人生で経験したことのない、特別な達成感と、温かい喜びを私に与えてくれた。
日記を書き終え、ふと窓の外を見ると、満月が煌々と夜空を照らしていた。月の光に誘われるように、私はルクスの前に立った。
「おかえり、リリアーナ。今日は、素敵な顔をしているね」
鏡の中から、ルクスの穏やかな声が響く。
「ええ。とても、良い一日だったわ」
私は、ルクスに今日の冒険のことを話して聞かせた。私の話に、ルクスは静かに耳を傾けてくれていた。
「……ねえ、ルクス。私、今日、少しだけ分かった気がするの」
「何をだい?」
「宝物の、本当の在り処よ」
私は、自分の胸にそっと手を当てた。
「エミリーにとっての宝物は、ブローチそのものだけじゃなかった。お母さんを想う心、ブローチに込められた愛情、それが彼女の本当の宝物だったんだわ。そして、私も……母の形見のブローチはアネットに奪われてしまったけれど、母が私に注いでくれた愛情や、思い出は、決して誰にも奪うことはできない。この胸の中に、ちゃんと生き続けている」
私の言葉に、ルクスの鏡面が、月の光を反射して、優しくきらめいた。
『その通りだよ、リリアーナ。君は、もう大丈夫だ』
その声は、ルクスのものとも、あるいは、遠い空にいる母の声ともつかない、温かい響きをしていた。
私は、もう二度と、失ったものを嘆いてばかりはいないだろう。私には、この胸の中にある、決して失われることのない宝物と、そして、この『月影の道具店』という、新しい宝物ができたのだから。
窓から差し込む月明かりが、静かに、優しく、私と、私のかけがえのない道具たちを、分け隔てなく照らしていた。私の新しい人生の、確かな一ページが、またこうして、静かにめくられていった