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第七話:揺れる吊り橋と風のなぞなぞ

 ごうごうと、まるで地の底から響いてくるかのような轟音が、私たちの鼓膜を揺さぶる。

 目の前に横たわっていたのは、自然が作り出した巨大な裂け目――深い、深い渓谷だった。遥か眼下では、白い牙を剥いた激流が岩にぶつかり、砕け散り、渦を巻いている。一度落ちれば、ひとたまりもないだろう。


 そして、その絶望的な裂け目に唯一架かっているのが、一本の、あまりにも心許ない吊り橋だった。両岸を繋ぐ太いつるは黒ずみ、所々がささくれて断ち切れかかっている。足場となるべき板は、その半分以上が抜け落ちており、残った板も湿気と年月で朽ち果て、いつ踏み抜いてもおかしくないように見えた。風が谷間を吹き抜けるたびに、橋全体がギシリ、ギシリ、と悲鳴のような軋みを上げる。


「そん、な……」


 エミリーの顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女の小さな手の中で、『追跡のコンパス』は、まるで最後の力を振り絞るかのように明滅を繰り返し、その針は狂ったように回転しながら、無情にもあの朽ちた吊り橋の、ちょうど真ん中あたりを指し示し続けていた。


「嘘だろ……。あんな場所にあるってのかよ……」


 私の肩の上で、リヒトが呻くような声を上げた。彼の声には、いつもの軽口を叩く余裕など微塵もなかった。


 ブローチは、あの橋の上にある。あるいは、あの橋から落ちて、激流に呑まれてしまったか。どちらにせよ、私たちに残された道は、あの死への片道切符にしか見えない橋を渡る以外にない。あまりにも過酷な現実を前に、私たちはただ、立ち尽くすことしかできなかった。


「もう、だめだ……。あんなの、渡れるわけない……。お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 エミリーの瞳から、こらえていた涙が再び溢れ出し、彼女はその場にへなへなと座り込んでしまった。その小さな背中は、絶望に打ちひしがれ、震えている。その姿が、かつての無力だった自分自身と重なって、私の胸を鋭く刺した。


 諦めてしまうのか。ここで、終わりにしてしまうのか。

 違う。そうじゃない。私は、もう、ただ守られているだけのか弱い令嬢ではないのだ。ルクスとの一件で、私は自分の弱さと向き合い、それを乗り越える強さを学んだはずだ。カイさんは、私を信じて、この子を託してくれた。


「諦めるのは、まだ早いでしょう?」


 私の口から、自分でも驚くほど、冷静で、力強い声が出た。座り込むエミリーの前に屈み、その肩にそっと手を置く。


「方法が、全くないわけじゃないわ。顔を上げて、エミリー」

「でも、だって……!」

「大丈夫。私に、考えがあるから」


 私は立ち上がると、吊り橋を、そして周囲の地形を、改めて注意深く観察した。頭の中では、カイさんから教わった知識と、この店に来てからの経験が、目まぐるしく回転していた。


 まず、このまま無理やり渡るのは論外だ。私一人ならまだしも、エミリーを連れて渡り切れる確率は限りなく低い。では、迂回路は? この渓谷の幅と深さを考えれば、迂回するには少なくとも半日はかかるだろう。カイさんとの「暗くなる前には戻る」という約束を破ることになるし、何より、コンパスが頑なにここを指している以上、この場所から離れるのは得策ではない。


 ならば、答えは一つしかない。


「私が、一人で行ってくるわ」

「なっ……!?」


 私の言葉に、リヒトが素っ頓狂な声を上げた。


「エミリーとリヒトは、この安全な場所で待っていて。私が、あの橋を渡って、ブローチを回収してくる」

「無茶だ! 正気か、リリアーナ! お前一人で行かせるなんて、できるわけないだろ!」

「いいえ、正気よ。今の私に、できる最善の策だわ」


 私は、自分のスカートの裾を掴むと、躊躇なく、ビリリと膝下まで引き裂いた。追放された時に渡された粗末な服だが、それでも動きやすさを確保するためには必要なことだった。


「かつての私なら、きっと恐怖で足が竦んで、泣いていたでしょうね。でも、今は違う。私には、守りたいものがある。やり遂げなければならない、約束がある。だから、怖くなんてないわ」


 それは、強がりだったかもしれない。本当は、足が震えていた。谷底から吹き上げる風に、肌が粟立つのを感じていた。けれど、エミリーの涙と、カイさんの信頼が、私の恐怖を上回る勇気をくれていた。


 リヒトは、私の固い決意に満ちた瞳を見て、ぐっと言葉を詰まらせた。彼はしばらく何か言いたげに口を開閉させていたが、やがて、観念したように大きなため息をついた。


「……ああ、もう分かったよ! 行けばいいだろ、その代わり!」

「リヒト……?」

「僕を一人、ここに置いていくつもりか? 馬鹿にするな! 僕という世界一高貴なティーカップ様が、お前の無謀な冒険に、特別に付き添ってやるって言ってるんだ! 僕の重さくらい、橋に影響はねえだろ!」


 彼は、憎まれ口を叩きながらも、その小さな体で、私と運命を共にすることを宣言してくれたのだ。その不器用な優しさに、私の胸は熱くなった。


「ありがとう、リヒト。心強いわ」


 私は彼を肩から降ろすと、懐の、ちょうど心臓のあたりにあるポケットに、そっと収めた。ここなら、万が一私がバランスを崩しても、彼が放り出される心配はないだろう。ポケットの中から、リヒトの「おい、苦しいだろ!」という文句が聞こえてきたが、無視することにした。


「エミリー、これを持っていて」


 私は、カイさんにもらった魔除けの香草が入った革袋を、エミリーの首にかけてあげた。


「何かあっても、きっとこれがあなたを守ってくれるわ。私が戻ってくるまで、絶対にここを動いちゃだめよ。いいわね?」

「……うん。リリアーナ、気をつけて……!」


 涙を浮かべながらも、エミリーは力強く頷いてくれた。


 準備はできた。私は、吊り橋の入り口に立つ。一歩先は、奈落。ごう、と風が吹き抜け、私の髪を激しく揺らした。深呼吸を一つ。そして、私は、軋む板の上へと、第一歩を踏み出した。


 ギシリ、と、耳障りな音が足元から響く。想像以上に、橋は揺れた。私は両手を広げてバランスを取りながら、ゆっくりと、一歩、また一歩と進んでいく。眼下には、吸い込まれそうなほどの暗い谷底と、白い激流。決して、下を見てはいけない。


「リリアーナ、落ち着け。呼吸を忘れるな」


 懐のリヒトが、小さな声で囁く。彼の声が、私の唯一の支えだった。


「次の板は、右半分が腐ってる。左側に体重をかけろ」

「分かったわ」

「その先のロープ、よく見ろ。妙に新しい蔓が巻き付いてる。誰かが補強したのか……? いや、違うな。気味が悪い。あまりそれに頼るな」


 リヒトの観察眼は、驚くほど鋭かった。彼のアドバイスのおかげで、私はいくつかの危険な罠を回避することができた。


 橋の中ほどまで、ようやくたどり着いた。コンパスが狂ったように回っていた、まさにその場所だ。ブローチは、どこに……?

 私が足元に視線を落とそうとした、その時だった。


『あらあら、珍しいお客さんだねえ』

『こんなボロ橋を渡ろうだなんて、命知らずなのか、ただの馬鹿なのか』


 どこからともなく、くすくすと、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。ピクシーとは違う、もっと実体のある、けれど姿の見えない何者かの声だ。


「誰……!?」

「私たちは、この谷に吹く風。橋を揺らす、ただの悪戯好きさ」

「お前がここを通りたいのなら、我らを楽しませてみせよ」


 風の精霊、シルフィード。カイさんの書物で読んだことがある。彼らは気まぐれで、旅人に難題をふっかけては、その反応を見て楽しむという。


『さあ、最初のなぞなぞだよ。上に行けば行くほど、下へと落ちていくもの、なーんだ?』

「なぞなぞ……?」


 こんな状況で、とんでもないことを言い出す。だが、彼らを無視して進むことはできそうになかった。周囲の風が、明らかに敵意を持って渦を巻き始めている。


 私は、必死に頭を回転させた。上に行くほど、下に落ちるもの……。


「……答えは、サイコロの目。違いますか?」

『おや、正解だ。つまらないねえ』


 風の精霊たちは、つまらなそうに言うと、次のなぞなぞを出してきた。


『では、二つ目。決して濡れることのない、谷底の石はなーんだ?』

「それは……乾いている石、でしょう?」

『ちぇっ、また当たりか。人間にしては、悪くないじゃないか』


 どうやら、彼らの出すなぞなぞは、古典的なものが多いらしい。これなら、いけるかもしれない。

 だが、彼らの試練は、それだけでは終わらなかった。


『なぞなぞは、もう飽きた』

『そうだね。次は、もっと面白いものがいい』

『お前の、一番きれいな歌を、我らに聴かせてみよ』


 歌。この、足が竦むような吊り橋の上で、歌を歌えというのか。あまりの無茶ぶりに、私は言葉を失った。けれど、ここで黙り込んでしまっては、彼らの思う壺だ。


 私は、懐のリヒトをぎゅっと握りしめた。彼の体温が、私に勇気をくれる。

 私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、震える唇から、一つのメロディーを紡ぎ始めた。


 それは、かつて病床の母が、眠れない私によく歌ってくれた、優しい子守唄だった。白鳥が、月の光る湖を越え、星の海を渡って、夢の国へと羽ばたいていくという、素朴な歌。


 最初は、恐怖で声が震えた。けれど、歌っているうちに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。母の温もりを、その愛情を、思い出すことができたからだ。私の歌声は、次第に力を取り戻し、谷間に響き渡っていった。


 ごうごうと吹き荒れていた風が、いつの間にか、ぴたりと止んでいた。意地悪なシルフィードたちの囁き声も、聞こえない。ただ、私の拙い歌声だけが、静かになった渓谷に、優しく、優しく響いていた。


 歌い終えた時、目の前に、半透明の、光る人影がふわりと現れた。悪戯っぽく笑う、美しい少年と少女の姿をした、風の精霊たちだった。


『……悪くない歌だったよ、人間の娘』

『お前の歌からは、とても温かい"想い"が感じられた。我らは、そういうのは嫌いじゃない』


 彼らはそう言うと、吊り橋の主柱の上部を、その光る指で指し示した。


『お前が探している"想いの欠片"は、あそこさ』

『カラスの奴が、キラキラ光るものが好きでね。谷で見つけたそれを、自分の巣に持ち帰ったのさ』


 彼らが指し示す先を見上げると、橋を支える太い柱の上部に、木の枝や藁でできた、大きなカラスの巣があった。そして、その巣の縁で、小さな銀色の何かが、微かな光を反射して、キラリと輝いていた。


「……あった!」


 ブローチだ。間違いない。

 しかし、巣は私の身長よりも遥かに高い場所にある。どうやって取れば……。


『お前の勇気と歌に免じて、少しだけ、手伝ってやろう』


 シルフィードがそう囁くと、ふわり、と優しい風が私の体を持ち上げた。体が、まるで羽のように軽くなる。私は、風に導かれるままに、ゆっくりと体を浮かせ、巣へと手を伸ばした。


 指先が、泥に汚れた銀色のそれに触れる。

 ひんやりとした金属の感触。確かに掴んだ。母と娘の、大切な想いの欠片を。


 私がブローチをその手にした瞬間、だった。

 エミリーの手の中で狂ったように回っていた『追跡のコンパス』の針が、ぴたりと静止した。そして、全ての迷いが晴れたかのように、穏やかで、それでいて力強い、澄んだ青色の光を放ち始めたのだ。妨害していた精霊たちの力が消え、コンパスが、ブローチに込められた本来の持ち主の想いと、正しく共鳴した証だった。


 風の精霊たちに礼を言うと、私は彼らが起こしてくれた追い風に乗り、一気に岸辺へと戻ることができた。


「リリアーナ!」「お嬢さん!」


 私を出迎えたのは、涙でぐしゃぐしゃになったエミリーの顔と、安堵の声を上げるリヒトだった。


 私は、エミリーの前にそっと膝をつくと、泥を軽く拭ったブローチを、彼女の小さな手のひらに乗せてあげた。


「……おかえり、あなたのお母さんのところへ」


「……あ……ああ……!」


 エミリーは、ブローチを両手で包み込むように握りしめると、声を上げて泣き始めた。それは、先ほどまでの絶望の涙ではなかった。失われたはずの宝物が、大切な想いが、今再び、自分の元へと還ってきたことへの、歓喜の涙だった。


 その涙が、ブローチに付着した最後の泥を洗い流していく。やがて現れた銀色のツバメは、まるで長い眠りから覚めたかのように、その青い瞳を、きらりと輝かせたように見えた。

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