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第六話:囁く森と最初の試練

 カイさんに見送られ、私、エミリー、そして私の肩に乗ったリヒトの三人は、深く、静かな森へと足を踏み入れた。エミリーの小さな手に握られた『追跡のコンパス』だけが、薄暗い森の中で希望のありかを示すかのように、静かな青い光を放ち続けていた。


 店の周辺は、カイさんが定期的に手入れをしているのか、下草も刈り払われ、歩きやすい小道が続いていた。だが、コンパスが指し示す方角へ15分も歩いた頃だろうか。森はその穏やかな表情を潜め、私たちに本来の、原始的で、そして少しだけ恐ろしい顔を覗かせ始めた。


 木々の枝は空を覆い隠すように絡み合い、昼間だというのに陽の光はまだらにしか届かない。足元は湿った落ち葉と苔に覆われ、一歩踏み出すごとに、ふか、と柔らかな感触と共に、腐葉土の濃い匂いが立ち上る。時折、名前も知らない鳥の鋭い鳴き声が静寂を破り、そのたびにエミリーの小さな肩がびくりと震えた。


「大丈夫よ、エミリー。私がそばにいるから」


 私は、エミリーの冷たくなった手を、もう一度強く握りしめた。追放されたあの日、たった一人でこの森を彷徨った時の絶望的な心細さが、記憶の底から蘇る。けれど、今は違う。守るべき存在がいて、信じてくれる仲間がいる。その事実が、私自身の恐怖心を打ち消してくれていた。


「ふん、この程度の森で怖気づくんじゃないぜ、エミリー。僕という高貴なティーカップ様がついてるんだ、安心しな!」

「ティーカップ様……?」

「そうだ! まあ、特別にリヒト様と呼ぶことを許可してやろう!」


 リヒトの相変わらずの尊大な口調が、張り詰めた空気を和ませてくれる。エミリーも、くすりと小さく笑みを漏らした。喋るティーカップという非日常にも、少しずつ慣れてきたようだった。


 コンパスの針は、迷うことなく森のさらに奥を指し示している。私たちは、その微かな光だけを頼りに、道なき道を進んでいった。太い木の根を乗り越え、ぬかるみに足を取られそうになりながら、ひたすらに歩く。公爵令嬢だった頃には、考えられないほどの重労働だ。けれど、不思議と辛くはなかった。エミリーの宝物を取り返すという明確な目的が、私の体と心を支えてくれていた。


 しばらく進んだ時だった。

 不意に、周囲の空気の色が変わった。先ほどまでの湿った匂いに混じって、花の蜜のような、甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。そして、どこからともなく、鈴を転がすような、ころころとした笑い声が聞こえてきたのだ。


「……リリアーナ、何か聞こえないか?」

「ええ……。カイさんが言っていた、悪戯好きの妖精かしら」


 私は立ち止まり、警戒して周囲を見回した。カイさんから渡された、魔除けの香草が入った革袋の口を、そっと開く。すん、と鼻を刺すような、しかしどこか清涼感のある独特の香りが漂った。


 すると、私たちの周りの木々の間を、小さな光の粒がいくつも飛び交い始めた。蛍の光によく似ているが、もっと明滅が激しく、赤や緑、黄色と、色とりどりに輝いている。


「わあ……きれい……」


 エミリーが、思わず感嘆の声を上げる。だが、その無邪気な声とは裏腹に、リヒトは「ちっ、面倒なやつらに見つかったな」と苦々しげに呟いた。


「ピクシーだ。光で人を誘って、森の奥で迷わせるのが大好きな、たちの悪い連中だぜ。あいつらの光を見てると、だんだん楽しい気分になって、自分がどこにいるのか分からなくなっちまうんだ」


 リヒトの言葉通り、光の明滅を見ていると、頭が少しぼんやりとして、理由もなく楽しいような、浮き立つような気分になってくる。これが、妖精の惑わしの力。私ははっとして、エミリーの目を手で覆った。


「エミリー、見ちゃだめ。目を閉じて」

「うん……」


 光の粒は、私たちの周りをしつこく飛び回り、耳元で「こっちだよ」「遊ぼうよ」と囁きかけてくる。革袋の香りが効いているのか、直接的な害意はないようだが、このままでは先に進めない。どうすれば……。

 私は、カイさんから教わったことを必死に思い返した。


『妖精の類は、人間とは価値観が全く違います。彼らにとって、善悪の概念はありません。あるのは、面白いか、つまらないか、ただそれだけです。彼らの気を逸らすには、彼らの知らない、もっと面白いものを提示してあげるのが一番です』


 もっと、面白いもの。

 私は自分のポケットを探った。何か、使えるものはないか。指先に触れたのは、朝食の残りのパンを包んできた、小さな布の切れ端。そして、昨日、裁縫の練習で使った、小さな縫い針と糸。これだ。


 私はエミリーの手を引いて近くの岩陰に身を寄せると、素早く作業に取り掛かった。布を二つに折り、中に落ち葉を詰めて、ちくちくと縫い合わせていく。


「リリアーナ、何してるの?」

「見ていて。きっと、うまくいくわ」


 やがて出来上がったのは、いびつな形をした、小さな人形だった。手も足もない、ただの丸い塊だ。私はそれに、木の実で目を、細い木の枝で口をつけた。お世辞にも上手とは言えない、不格好な人形。


「さあ、お願いね」


 私はその人形に、ふっと息を吹きかけた。それは、カイさんから教わった、物に微かな魔力を通わせるための、ごく初歩的なまじないだった。


 そして、その人形を、ピクシーたちが飛び交う広場の真ん中に、ぽとりと置いた。


 光の粒たちの動きが、ぴたりと止まる。全ての光が、地面に置かれた奇妙な人形に注がれていた。


「……なに、あれ?」

「……見たことない」

「……動かないね」


 鈴のような声が、ひそひそと囁き合っている。

 私は、息を殺して人形を見守った。すると、人形は、私の込めた微かな魔力に反応し、ころん、と自ら転がったのだ。


 その瞬間、ピクシーたちの間から、わあっ、と歓声が上がった。


「動いた!」

「面白い!」


 一匹のピクシーが、おそるおそる人形に近づき、つん、と光の指で突く。すると、人形はまた、ころん、と反対側へ転がった。それを見て、他のピクシーたちも一斉に人形へと群がっていく。彼らにとっては、私の作った不格好な人形が、見たこともない新しいおもちゃに見えたらしかった。


「……よし、今のうちよ!」


 私たちは、ピクシーたちがおもちゃに夢中になっている隙に、その場をそっと離れた。振り返ると、ピクシーたちはまだ、人形の周りで楽しそうに飛び回っている。どうやら、彼らの気を逸らすことには成功したようだった。


「すごい、リリアーナ! まるで魔法使いみたい!」

「ただの、付け焼き刃の知識よ。カイさんや、この店の道具たちの力には、遠く及ばないわ」


 エミリーの賞賛に、私は少し照れながら答えた。けれど、自分の力で、知恵で、困難を切り抜けられたという事実は、私の中に確かな自信を芽生えさせてくれていた。公爵令嬢として守られているだけだった頃の私には、決して得られなかった感覚だった。


 ピクシーの森を抜けると、森の雰囲気は再び一変した。

 木々の背はさらに高くなり、中には数人がかりでなければ幹に腕が回らないような巨木も現れ始めた。それらの木々は、まるで賢者のように静かに佇み、私たちを見下ろしている。地面には、苔むした石畳の残骸のようなものや、崩れかけたアーチの跡が散見されるようになった。遥か昔、ここには今とは違う文明が存在していたのかもしれない。


「なんだか、すごい場所ね……」

「ああ、森の"古い"部分に入ってきたってことだな。こういう場所には、強力な力を持つ主みたいなのがいることもある。下手に刺激しないように、静かに進むのが賢明だぜ」


 リヒトの言葉に、私たちは息を潜め、コンパスの示す方角へと慎重に歩みを進めた。


 しばらく歩き続けた私たちは、小さな泉が湧き出る、開けた場所に出た。澄み切った水が、こんこんと湧き出ており、その周りには柔らかな苔が一面に広がっている。ここなら少し休んでも大丈夫だろう。


「少し休みましょうか。お腹も空いたでしょう?」

「うん!」


 私たちは苔の上に腰を下ろし、カイさんが持たせてくれた水筒とビスケットで、ささやかな昼食をとることにした。森の静寂の中で食べるビスケットは、王宮で食べたどんな豪華な菓子よりも美味しく感じられた。


 水を飲みながら、私はエミリーに尋ねた。


「エミリーのお母さんは、どんな人だったの?」


 その問いに、エミリーの顔が、ふわりと綻んだ。それは、大切な宝物を思い出すような、優しい笑顔だった。


「お母さんはね、とっても優しくて、いつも笑ってた。髪が長くて、お日様の匂いがするの。お花を育てるのが上手で、家の庭はいつも綺麗なお花でいっぱいだった。病気で体が弱かったけど、私のために、いつもお話をしてくれたり、歌を歌ってくれたりしたわ」


 エミリーは、胸元をそっと押さえた。ブローチがあった、その場所を。


「あのブローチはね、私がお母さんと同じ7歳になった誕生日にくれたものなの。『これは、ただの飾りじゃないのよ、エミリー。これは、あなたを守るお守り。もし、エミリーが道に迷ったり、悲しいことがあったりしたら、このブローチを握りしめて、お母さんのことを思い出して。そうすれば、きっと勇気が湧いてくるから』って」


 エミリーの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ち、苔の上に小さな染みを作った。


「お母さんが天国へ行ってしまってから、私はずっと、あのブローチをお守りにしてきたの。辛い時も、寂しい時も、ブローチを握れば、お母さんが『大丈夫よ』って言ってくれてる気がして……。だから、あれがないと、私……」


 言葉を詰まらせるエミリーの小さな背中を、私は優しく撫でた。

 彼女の話を聞きながら、私は自身の母親のことを思い出していた。私の母もまた、病弱で、私が物心ついた頃には、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。けれど、限られた時間の中で、母は私にたくさんの愛情を注いでくれた。刺繍の仕方を教えてくれたこと。古い物語を読んでくれたこと。そして、追放される間際に奪われた、あの白鳥のブローチを、私の髪に飾りながら、こう言ってくれたこと。


『リリアーナ。これから先、どんな困難があっても、あなたは白鳥のように、気高く、美しく、自分の力で羽ばたいていくのですよ』


 母の想いも、エミリーの母の想いも、きっと同じだ。子供の幸せを願い、その未来を守りたいと願う、深く、温かい愛情。

 私は、エミリーの母が残した大切な想いを、必ず彼女の元へ返してあげなければならない。その決意を、新たにした。


「大丈夫よ、エミリー。あなたのお母さんの想いは、ブローチがなくても、ちゃんとあなたの中に生きている。そして、ブローチは、私たちが必ず見つけ出すから。約束するわ」

「……うん!」


 私の力強い言葉に、エミリーは涙を拭い、こくりと力強く頷いた。


 休憩を終え、私たちは再び歩き始めた。エミリーの足取りは、先ほどよりも少しだけ、力強くなっているように見えた。


 だが、森の奥へ進むにつれて、新たな異変が私たちを待ち受けていた。


「……リリアーナ、なんだか、コンパスの光が……」


 リヒトの指摘に、私はエミリーの手元を覗き込んだ。確かに、先ほどまで青白く、安定した光を放っていたコンパスの針が、チカ、チカ、と弱々しく点滅を繰り返している。針が示す方向も、定まらないかのように、微かに左右に揺れ動いていた。


「どうして……? ブローチが、近くにあるからじゃないの?」

「いや、これは違うぜ。何か……もっと強い力が、このコンパスの働きを邪魔してるんだ。例えるなら、大声で叫んでるやつの隣で、ひそひそ話をしようとしてるようなもんだ」


 強い力が、邪魔をしている?

 一体、この先に何があるというのだろう。私の胸に、新たな不安が影を落とす。


 それでも、私たちは針が示す、かろうじて光る方角へと進んでいくしかなかった。やがて、木々の切れ間から、ごう、という水の音が聞こえてきた。そして、私たちの目の前に、巨大な渓谷がその口を広げたのだ。


 幅は20メートルほどだろうか。深く切り立った崖の下を、白く泡立つ激流が轟音を立てて流れている。向こう岸へ渡るには、朽ちかけて、いくつかの板が抜け落ちた、一本の古い吊り橋を渡るしかないようだった。


 そして、エミリーが持っていたコンパスの針は、その危険な吊り橋の、ちょうど真ん中あたりを指して、狂ったようにぐるぐると回り始めたのだ。


「そんな……。ブローチは、あの吊り橋の上に……?」


 エミリーが、絶望的な声を上げる。

 コンパスの針が指し示しているのは、吊り橋の上、そのものだった。あるいは、激流が渦巻く、遥か下の谷底か。


 いずれにせよ、私たちには、あの朽ち果てた吊り橋を渡るという、あまりにも危険な試練が突きつけられたのだった。


 ごうごうと鳴り響く水の音は、まるでこの先の困難を嘲笑う、森の咆哮のようにも聞こえた。私たちの小さな冒険は、今、最大の難関を迎えようとしていた。

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