第五話:初めてのお客様と追跡のコンパス
『真実のルクス』との一件から、季節が一つ巡ろうとしていた。
あの嵐のような出来事は、私の心に深く刻まれた消えない傷跡であると同時に、私を過去という名の牢獄から解き放ってくれた、かけがえのない転機でもあった。鏡が映し出した憎悪も、後悔も、絶望も、その全てが紛れもなく私自身の一部なのだと認めることができた今、私の心は、長い雨が上がった後の空のように、穏やかに澄み渡っていた。
その変化は、日々の暮らしの中に、ささやかな、しかし確かな形で現れていた。
「リリアーナ、おはよう。昨夜はよく眠れたかい?」
「ええ、おはよう、ルクス。あなたのおかげで、もう悪い夢は見なくなったわ」
朝、私が身支度を整えるのは、あの姿見の前だ。呪いが解けたルクスは、今では私の良き相談相手になってくれていた。彼の鏡面は、もはや私の心の闇を映し出すことはない。代わりに、今日の天候に合わせた服装のアドバイスや、「その髪型、なかなか似合っているじゃないか」なんて、少し気障な賛辞をくれるようになった。彼の穏やかな声に送られて部屋を出るのが、私の新しい一日を始めるための、大切な儀式となっていた。
階下へ降りると、すでに店の主であるカイさんが、カウンターで静かにハーブをすり潰していた。その隣には、お気に入りの定位置で朝日を浴びているティーカップ、リヒトの姿がある。
「おはようございます、カイさん。リヒトも、良い朝ね」
「……おはようございます、リリアーナさん。顔色がいい。今日は特に」
「ふん、僕が毎朝淹れてやってる極上のハーブティーのおかげだろうな!」
「あら、淹れているのは私なのだけど?」
「細かいことは気にするな! 僕という最高の器で飲むから、味が格段に上がるんだ!」
そんな憎まれ口にも、もう慣れたものだ。私は微笑みながら自分のカップにハーブティーを注ぎ、焼きたてのパンをテーブルに並べる。カイさんは相変わらず口数が少ないけれど、私が作った朝食を、毎日静かに、そして綺麗に平らげてくれる。その事実が、私に言葉以上の温かい満足感を与えてくれた。
ルクスとの一件以降、カイさんは私に、少しずつ「呪具師」の仕事の初歩を教えてくれるようになった。それは、薬草やハーブの選別であったり、呪いの力が弱い道具たちの簡単な手入れであったりした。
「この『嘆きの月光草』は、強い鎮静作用があるが、扱いを間違えれば人の精神を永遠の眠りにつかせる猛毒にもなる。葉脈の色が、銀色から僅かでも黒ずんでいたら、決して使ってはいけません」
「はい、カイさん」
彼の指導は常に的確で、厳しい。けれど、その根底には、道具たちへの深い愛情と、私への信頼が感じられた。公爵令嬢として受けてきた妃教育とは全く違う、実践的で、神秘的で、そして命の重みに触れるような学び。その一つ一つが、私の心を豊かにし、この店が私の本当の居場所なのだという実感を与えてくれた。
その日の午前中も、私は店の掃除に精を出していた。
「ヘンリー、そっちの隅をお願いね。マリー、集めた埃をお願い」「お任せを、奥様!」「あなた、頑張って!」と、意思疎通もすっかり手慣れたものだ。文句たれのゾーキンで窓を拭けば、「お嬢ちゃん、腕を上げたじゃないか。まあ、俺様を扱えるんだから当然だがな!」と、なぜか彼まで得意げだ。
そんな賑やかで穏やかな日常。追放された当初には、想像もできなかった幸せが、確かにここにはあった。
穏やかな昼下がりのことだった。
その日、カイさんは「月に一度の仕入れと、街の"淀み"の観測に」という、少し意味深な言葉を残して、朝から留守にしていた。店番を任された私は、カウンターでリヒトと他愛のない話をしながら、カイさんが残してくれた課題である「呪いを安定させるためのハーブの調合」に取り組んでいた。
「リリアーナ、その配合じゃ少し『静寂』の力が強すぎるぜ。それだと、道具がおしゃべりじゃなくて、ただの眠りすけになっちまう」
「あら、本当? じゃあ、『陽だまりの花』をもう少し……」
そんなやり取りをしていた時だった。
店の扉についている真鍮のベルが、からん、と控えめで、そしてどこか躊躇いがちな音を立てたのは。
私とリヒトは、顔を見合わせた。普段、この『月影の道具店』に、ふらりと客が訪れることなどない。カイさんを目当てに、特別な事情を抱えた客が稀に訪れることはあるが、それもカイさんが不在の時に来ることはまずなかった。
店の扉が、ぎぃ、と小さな音を立てて、ほんの少しだけ開いた。隙間から、太陽の光と共に、小さな影が覗いている。叩くか、入るか、それとも帰るべきか、迷っているようだった。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
私が優しく声をかけると、影はびくりと震え、そして意を決したように、ゆっくりと扉を開けて中へと入ってきた。
そこに立っていたのは、私よりずっと幼い、10歳くらいの少女だった。日に焼けた健康そうな肌に、そばかすが散ったあどけない顔立ち。けれど、その大きな瞳は不安げに揺れ、今にも零れ落ちそうなほど涙が溜まっていた。着古しているが清潔なワンピースを、小さな手でぎゅっと握りしめている。店の薄暗さと、所狭しと並ぶ不思議な品々に気圧されているようだった。
「い、いらっしゃいませ。ようこそ、『月影の道具店』へ」
私はカウンターから出て、少女の元へ歩み寄った。できるだけ怖がらせないように、ゆっくりと。
「……あの……」
少女は、私と、私の肩に乗って様子を窺っているリヒトの姿を交互に見つめ、ごくりと唾を飲んだ。
「ここには、なくした物を見つけてくれる、魔法使いがいるって……村のおじいちゃんから、聞いて……」
か細い、けれど芯のある声だった。この店に来るまでに、どれほどの勇気を振り絞ったのだろう。その健気な姿を見て、私の胸はきゅっと締め付けられた。
「なくした物、ですって?」
「うん……」
少女の瞳から、堪えきれなかった涙が一粒、頬を伝った。
「森で、お母さんの形見のブローチを落としちゃったの。銀色で、小さな青い石がついた……お母さんが、私と同じ年の誕生日にくれた、世界で一番、大事な宝物なのに……っ」
嗚咽と共に語られる言葉が、私の心の扉を強く叩いた。
母の形見のブローチ。
その言葉は、私の記憶の蓋をこじ開けた。忘れようとしていた、あの日の光景が、鮮やかに蘇る。
追放が決まり、部屋に戻った私を待っていたのは、アネットと、彼女に付き従う侍女たちだった。彼女たちは、私の持ち物を次々と乱暴に検め、高価なドレスや宝石を奪っていった。
『これは、私が殿下からいただいたものよ』
『いいえ、それは私が母から譲り受けた大切な……!』
『まあ、嘘つき。こんな美しいブローチが、あなたのような悪女に似合うはずがないわ』
嘲笑うアネットの手には、私がどれほど大切にしていたか分からない、母の形見のブローチが握られていた。青いサファイアが埋め込まれた、白鳥の形のブローチ。私が何を言っても、誰も信じてはくれなかった。あの時の、胸を引き裂かれるような悔しさと、誰にも助けを求められない孤独感。
目の前の少女が感じている痛みは、きっとこれだ。そう思うと、彼女が他人とは思えなかった。
「おいおい、嬢ちゃん。うちは魔法使いの店じゃないぜ。それに、探し物屋でもない。人違いだ、悪いが帰った、帰りな!」
リヒトが、いつもの調子でぶっきらぼうに言った。だが、その声にはいつものような刺々しさがなく、戸惑う少女を気遣う響きが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。きっと彼も、この少女の必死な想いを感じ取っているのだ。
「待って、リヒト」
私はリヒトを制すると、少女の前にそっとしゃがみこみ、その震える瞳をまっすぐに見つめた。
「大丈夫。きっと見つかるわ。魔法使いじゃないけれど、力になれるかもしれない。私たちが、一緒に探してあげる」
「……ほんと?」
「ええ、本当よ。必ず」
私の力強い頷きに、少女の顔が、曇り空から太陽が差し込んだかのように、ぱっと明るくなった。その純粋な笑顔を見て、私の心は決まった。
この子を助けたい。
これは、誰かに命じられた義務じゃない。公爵令嬢としての責務でもない。店の仕事だからというわけでもない。私が、リリアーナという一人の人間として、この子の力になりたいのだ。
「おい、リリアーナ。本気かよ。主が戻ったら、何て言うか……」
「その時は、私がちゃんと説明して、お願いするわ。絶対に、カイさんを説得してみせる」
私はきっぱりと答えた。リヒトは「やれやれ、ルクスの一件から、妙に頑固になったというか、肝が据わったというか……」と呆れたように言いながらも、それ以上は反対しなかった。
少女はエミリーと名乗った。話を聞けば、彼女は店の麓にある小さな村に住んでいるらしかった。今日は村の子供たちと、少し離れた森まで木の実を採りに行ったのだが、夢中になって駆け回っているうちに、胸につけていたブローチをどこかで落としてしまったという。村の大人たちに相談しても、「日が暮れるから、もう探しに行くのは危ない」「森の奥には変な噂のある店があるから、近づいちゃいけない」と言われるばかり。それでも諦めきれず、物知りの古道具屋の主人に泣きついたところ、「それなら、森の奥の『月影の道具店』を訪ねてみるといい。あそこの主人は、ただの人間じゃない。お前の強い想いが届けば、きっと力を貸してくれるだろう」と、こっそり教えてくれたのだという。
「だから、来たの。お母さんは、もういないから……あのブローチだけが、お母さんが私のそばにいてくれる証だから……!」
エミリーの瞳に、再び涙が浮かぶ。私は、その小さな手を、そっと握りしめた。
ちょうどその時だった。からん、と今度は力強い音を立てて店の扉が開き、仕入れを終えたカイさんが戻ってきた。大きな革袋を肩にかけ、少しだけ疲れたような表情をしている。
「カイさん、おかえりなさい!」
「ただいま戻りまし……。リリアーナさん、その子は?」
店の中の普段とは違う空気と、見知らぬ子供の存在に、カイさんの目がすっと細くなる。呪具師としての警戒心が、一瞬で彼の身を包んだのが分かった。
私は立ち上がると、カイさんにこれまでの経緯を、包み隠さず全て話した。エミリーがどれほどブローチを大切に思っているか。私がどれほど彼女の力になりたいか。そして、私がこの依頼を、自分の意志で受けたいということを。
話し終えた私は、カイさんの前で、深く、深く頭を下げた。
「お願いします、カイさん。この子を助けるために、どうかお店の道具を貸してください。私が、必ず責任をもって、この依頼をやり遂げます。これは……私自身の、試練でもありますから」
ルクスの一件を乗り越えた今、私には道具の持つ力の素晴らしさと、その危うさが分かる。だからこそ、今度は私が、その力を誰かのために、正しく使いたい。その想いを、全て視線に込めて、カイさんを見つめた。
カイさんは、しばらく何も言わなかった。ただ、私の目をじっと見つめ、そしてエミリーへと視線を移し、また私へと戻す。彼の頭の中で、様々な考えが巡っているのが分かった。呪具師としての立場。道具を素人に使わせる危険性。そして、私の覚悟。
長い、長い沈黙の後、カイさんは、ふっと息を吐いた。それは、諦めとも、納得ともつかない、複雑な響きを持っていた。
「……わかりました。貴女の覚悟、伝わりました。貴女を信じましょう」
その言葉に、私は顔を上げた。カイさんの瞳は、どこまでも真剣だった。
彼は私に、そしてエミリーに「こちらへ」と促すと、店の奥にある、普段は鍵がかけられている重厚な木製の引き出しを開けた。
彼がそこから取り出してきたのは、手のひらに収まるほどの、古びた真鍮製の方位磁石だった。ガラスの盤面には、方角を示す文字の代わりに、月と星をかたどったような、見たこともない奇妙な紋様がいくつも刻まれている。針は、だらりと垂れ下がったまま、何の方向も示していない。
「これは『追跡のコンパス』。ただの物を探すための道具ではありません」
カイさんは、コンパスをカウンターの布の上にそっと置くと、静かに説明を始めた。
「このコンパスが感応するのは、物そのものではなく、物に込められた持ち主の『想い』の強さです。想いが強ければ強いほど、針はその在り処を正確に、そして強く指し示す。家族を想う心、故郷を懐かしむ心、あるいは、復讐を誓う憎しみ……どんな想いにも、このコンパスは応えてくれる」
「想いに……」
「ええ。ですが、それ故に扱いが難しい。もし持ち主の心に邪念や迷いが混じれば、コンパスは持ち主を偽りの道へと誘い、森の奥深くで迷わせてしまうこともある。だからこそ、普段は誰にも貸し出すことはないのですが……」
カイさんは言葉を切り、エミリーの前にコンパスをそっと押し出した。
「君の想いは、純粋で、強い。それなら、きっとこのコンパスも応えてくれるはずです。さあ、このコンパスを両手で持って。そして、君がなくしたブローチのこと……それから、お母さんのことを、心を込めて、強く、具体的に思い浮かべてごらん」
カイさんの優しい声に、エミリーはこくりと頷いた。彼女は小さな両手でコンパスを包み込むように握りしめると、ぎゅっと目を閉じた。その口元から、お母さんとの思い出が、祈りのように紡がれる。
「銀色で、ツバメの形をしてるの。お母さんの髪の色と同じ、青い小さな石が目になっているの。私が7歳のお誕生日に、『エミリーが、幸せの青い鳥みたいに、自由に羽ばたけますように』って……。お母さんの優しい声……温かい手……」
エミリーの想いが、祈りとなって店の中を満たしていく。
その瞬間だった。
カタカタカタ……!
コンパスが、まるで生命を宿したかのように、エミリーの手の中で激しく震え始めた。そして、だらりと垂れ下がっていた針がむくりと起き上がり、ぐるん、ぐるん、と猛烈な勢いで盤上を回り始めたのだ。その様は、まるで強い想いに呼応する喜びのダンスのようだった。
やがて、針の回転はゆっくりとなり……ぴたり、と一つの方向を指し示して、静止した。
その針が指し示していたのは、店の扉の向こう――深く、薄暗い森が広がる方角だった。針の先が、仄かな青白い光を帯びている。
「……あった! この先にあるんだわ! お母さんのブローチ、まだ森の中にあるんだ!」
エミリーが、歓喜の声を上げた。その顔は、希望の光に満ち溢れていた。それを見て、私の胸にも、自分のことのように熱いものが込み上げてくる。
「よし、決まりだな! 早速探しに行くぜ、リリアーナ!」
「ええ!」
私とリヒトが意気込むと、カイさんは「待ちなさい」と私たちを制した。彼は店の棚から丈夫そうな革のポシェットを取り出すと、その中に水筒と、紙に包んだビスケット、そして小さな革袋を入れた。
「これを。革袋の中には、魔除けの香草が入っています。気休めですが、低級な魔物や、たちの悪い悪戯好きの妖精くらいなら、近寄りません」
「ありがとうございます、カイさん」
「暗くなる前には、必ず戻ってくること。もしコンパスの光が消えたり、道に迷ったりしたら、決して無理はせず、すぐに引き返しなさい。いいですね?」
その念押しは、まるで娘を心配する父親のようだった。私は力強く頷く。
カイさんに見送られ、私とリヒト、そしてコンパスを大事に抱えたエミリーの三人は、店の扉を開けた。
一歩、外へ踏み出す。
それは、追放された令嬢の、惨めな逃避行ではない。
『月影の道具店』の一員として、初めて自分の意志で、誰かを助けるために踏み出す「仕事」への一歩だった。
店の周りの穏やかな空気とは違い、少し歩を進めると、森は急にその表情を変えた。木々が鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに太陽の光が遮られて薄暗い。湿った土と、苔の匂いが鼻をつく。
不安げなエミリーの手を、私はそっと握った。
「大丈夫。コンパスが、私たちを導いてくれるわ」
私の言葉に、エミリーはこくりと頷く。彼女の胸に抱かれたコンパスの針だけが、薄暗い森の中で、希望のありかを示すかのように、静かな青い光を放ち続けていた。
私たちの小さな冒険が、やがてこの森の奥に眠る、ささやかな奇跡へと繋がっていることを、この時のリリアーナはまだ知らなかった。物語は、まだ始まったばかりだった。