第四話:私のための本当の幸せ
意識がゆっくりと浮上してくる。瞼を開けると、見慣れた自室の天井が目に入った。私は、自分のベッドに寝かされていた。
「……気がついたか、お嬢さん!」
隣から、心底安堵したようなリヒトの声がした。見れば、ベッドの脇のサイドテーブルの上で、彼が心配そうに私を覗き込んでいる。部屋の隅では、カイさんが腕を組んで壁に寄りかかり、静かにこちらを見ていた。
「私……」
「危ういところでした。あと少し遅ければ、貴女の精神は、完全にあの鏡に食われていましたよ」
カイさんの声は静かだったが、その瞳には微かな疲労の色が浮かんでいた。あの後、私が気を失っている間に、カイさんとあの鏡との間で、壮絶な戦いがあったことを物語っていた。
「あの鏡は『真実のルクス』。人の心の奥底にある真実――本音、トラウマ、欲望を映し出し、それを増幅させて持ち主を虜にする。それが、あれの力であり、呪いです」
「……私の、弱さのせいです」
うつむく私に、罪悪感が重くのしかかる。カイさんの警告を無視し、自分の心の弱さから鏡の呪いに囚われた。この店に、とんでもない迷惑をかけてしまった。
「そうですね。貴女の心の傷が、ルクスにとっては何よりの御馳走だった。それは事実です」
カイさんの言葉は、どこまでも率直で、容赦がなかった。けれど、不思議と私を責めているようには聞こえなかった。
「ですが、ルクスが暴走したのは、私の管理不行き届きでもある。謝る必要はありません。それより……これから、どうするかです」
「どう、する……?」
「このままでは、ルクスは貴女を諦めないでしょう。貴女という極上の餌を、再び狙ってくる。あの鏡の呪いを完全に鎮めるには、ただ蓋をするだけではダメです。鏡が見せる幻から逃げるのではなく、貴女自身がそれと向き合い、乗り越えるしかない」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。また、あの鏡の前に立てというのだろうか。断罪の記憶、心の奥底の憎悪と、もう一度向き合えと? 想像しただけで、全身が恐怖に震えた。
私の葛藤を見透かしたように、カイさんは続けた。
「もちろん、無理強いはしません。ですが、このまま過去の悪夢に怯えながら生きていくのか、ここで決着をつけるのか。決めるのは、貴女自身です。もし、貴女が過去と向き合う覚悟を決めるなら……私も、全力で貴女を守ります」
その言葉は、静かだったが、何よりも力強かった。カイさんは、私を信じてくれている。そして、選択を委ねてくれている。
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。怖い。けれど、彼の言う通りだ。このまま、王子やアネットの幻影に怯え、憎しみに心を蝕まれながら生きていくのは、もう嫌だ。
「……やります」
顔を上げ、私はカイさんの目をまっすぐに見つめた。
「私は、もう逃げません。あの鏡と、私自身の心と、向き合います」
「……そうか」
カイさんの口元に、初めてはっきりとした笑みが浮かんだ。それは、とても優しい笑みだった。「お嬢さんならやれるぜ!」と、リヒトも応援するように叫んでいる。
私は、カイさんに支えられながら、再びあの倉庫へと向かった。そこには、先ほどまでの荒々しさが嘘のように、静かに佇む『真実のルクス』があった。
「いいですか、リリアーナ。これから何が映し出されても、それは幻です。私が、貴女の精神が呑み込まれないように、外からしっかりと支えています。貴女は、ただ、貴女の心と対話すればいい」
「はい」
覚悟を決めて、私は再び鏡を覗き込んだ。
途端に、鏡面にはあの断罪の広間が映し出される。鏡の中の私が、嘲るように私を見つめていた。
『また来たのね、愚かな私。何度やっても同じこと。さあ、憎いでしょう? 悔しいでしょう? 復讐なさい』
けれど、今度の私は、ただ怯えるだけではなかった。
「ええ、悔しいわ。心の底から憎い。アネットも、クロード殿下も、私を嘲笑った人たちのことなんて、一生許せないでしょう」
私の言葉に、鏡の中の私が意外そうに目を見開く。
「でも……」私は続けた。「でも、彼らに復讐するためだけに、これからの人生を使うのは、あまりにもったいないじゃない。私の時間は、彼らのためにあるんじゃないわ」
『……何を言っているの。彼らを罰することが、あなたの正義でしょう』
「いいえ」
私は、きっぱりと首を振った。
「私の正義は、私が幸せになること。彼らを許しはしない。彼らのしたことも、決して忘れない。けれど、その憎しみに囚われて、自分の人生を棒に振るのは、もうやめる。私は、私の幸せのために生きたいの」
脳裏に、この店の光景が浮かぶ。ぶっきらぼうだけど優しいカイさん。口は悪いけど心配してくれるリヒト。文句を言いながらも仕事をするゾーキン。静かにお辞儀をするヘンリーとマリー。
「私には、もう新しい居場所がある。大切な人たちがいる。過去に生きるのは、もう終わり。私は、ここで、前を向いて生きていくわ」
私がそう宣言した瞬間、鏡の中の私が、はっとしたように目を見開いた。彼女の嘲るような表情が、ゆっくりと消えていく。そして、その顔は、まるで呪いが解けたかのように、穏やかな、悲しげな、そして最後にはどこか安堵したような、本来の私の表情へと変わっていった。
鏡面から放たれていた冷たく禍々しい光が、ふっと温かく、柔らかな光へと変わる。
『……そう。それが、あなたの本当の答えだったのね』
初めて、鏡の中から、穏やかで優しい声が聞こえた。
『長い間、ありがとう。そして、ごめんなさい。私も、やっと眠りにつける……』
その言葉を最後に、鏡の光はすっと消え、ただ静かに、美しい彫刻を施された普通の姿見が、そこにあるだけだった。
全身の力が抜け、崩れ落ちそうになった私を、背後からカイさんがそっと支えてくれた。
「……よく、頑張ったな、リリアーナ」
初めて名前で呼ばれ、力強く、それでいて優しい手つきで頭を撫でられる。その温かさに、堪えていた涙が、今度は安堵の涙となって溢れ出した。私は、彼の胸の中で、子供のように声を上げて泣いた。
こうして、私と『真実のルクス』との長くて短い戦いは終わった。過去の呪縛から解き放たれ、私は本当の意味で、『月影の道具店』の一員としての、新しい一歩を踏み出したのだ。