第三話:鏡が映すは心の牢獄
短めです
私の指先が、ひんやりとしたベルベットの布に触れた、その瞬間だった。
ぞくり、と背筋を駆け上がったのは、単なる冷気ではなかった。布の向こう側から、確かな意志が、まるで永い眠りから目覚めた捕食者のように、私という獲物に応えたのだ。
「おい、リリアーナ! やめろって言ってるだろ!」
リヒトの切羽詰まった声が背後で響く。カイさんの「近づくな」という警告も脳裏をよぎる。ダメだ、触れてはいけない。そう理性が叫んでいるのに、私の体は自分の意志に反して動いていた。まるで、見えざる糸に引かれる操り人形のように。
ゆっくりと、しかし抗いがたい力で、私の手は布の端を掴んでいた。
そして、一気にそれを引き剥がす。
分厚いベルベットの布が、音もなく床に滑り落ちた。現れたのは、優美な彫刻が施された木枠に収められた、巨大な姿見だった。鏡面は、長い間拭かれていなかったかのように埃を被り、ぼんやりと曇っている。何も映らない。ただの、古い鏡。そう思ったのも束の間だった。
私が鏡を覗き込んだ瞬間、その表面が、静かな水面に石を投げ込んだかのように、ゆっくりと波立ったのだ。
「……!」
息を呑む私の前で、鏡面の曇りが内側から晴れていく。そして映し出されたのは、泥のついた旅人服を着た今の私ではなかった。
そこにいたのは、豪奢な夜会用のドレスを身に纏い、完璧に結い上げた髪に宝石をきらめかせた、公爵令嬢リリアーナ・フォン・クラウゼル。かつての、私の姿だった。懐かしさと、突き刺すような痛みが同時に胸を締め付ける。
『……久しぶりね、私』
鏡の中の私が、ゆっくりと唇を開いた。声は、私のものなのに、どこか違う。蜜のように甘く、それでいて刃物のように冷たい響きをしていた。
『本当に、それで満足しているの? 何もかも奪われて、こんな薄汚い場所で、毎日埃まみれになって。悔しくないの? 憎くないの?』
「あなた、は……」
『私は、あなたよ。あなたが心の奥底に閉じ込めて、見ないふりをしている、本当のあなた』
鏡の中の光景が、ゆらりと歪む。そこに映し出されたのは、王城の美しい庭園。隣には、優しく微笑むクロード殿下がいた。彼の差し出した薔薇を、嬉しそうに受け取る私。幸せだった日々。だが、その光景はすぐに引き裂かれる。木の陰から、アネットが嫉妬に満ちた目で見つめている。次の瞬間、クロード殿下の表情が能面のように消え、彼はアネットの元へと歩み寄ってしまう。
次々と、光景は変わっていく。アネットにドレスを汚され、それを私のせいにされる場面。友人だと思っていた令嬢たちに、陰で悪口を言われている場面。私が大切にしていた母の形見のブローチが、アネットの腕に巻かれている場面。
鏡は、私の記憶を勝手に覗き、最も辛く、心を抉る場面ばかりを、悪意を持って増幅させ、見せつけてきた。
「やめて……」
『なぜ? これは全て、あなたが見てきた真実でしょう?』
そして、光景はあの断罪の広間へと至る。冷酷な王子、勝ち誇る男爵令嬢、嘲笑う貴族たち。あの日の絶望が、現実よりも鮮明に、私の心を苛む。
『思い出したでしょう? あなたがどれだけ理不尽に、無慈悲に、全てを奪われたのかを』
鏡の中の私が、うっとりと囁く。
『復讐しなさい、リリアーナ。彼らに、あなたと同じ絶望を味わわせてあげるの。あなたは悪役令嬢。それが、あなたの本当の役目なのだから』
「ちがう……私は……」
『違わないわ。あなたは、ただ力がなかっただけ。でも、今の私とならできる。さあ、私を受け入れて。私と一つになれば、クロードも、アネットも、あなたを陥れた全ての人間に、惨めな結末を与えてあげられる』
その言葉は、恐ろしい毒のように、私の心に染み込んでいく。そうだ、悔しい。憎い。許せない。私が何をしたというの。封じ込めていたはずの、黒く、どろりとした感情が、堰を切ったように溢れ出し、私の思考を塗りつぶしていく。
カイさんのことも、リヒトのことも、この店の穏やかな日々のことも、全てが遠い世界の出来事のように感じられた。目の前の鏡の中にこそ、私の真実がある。この憎しみを晴らすことこそが、私の唯一の救いなのだと、そう思えてならなかった。
「リリアーナ! 目を覚ませ! そいつの言葉を聞くな!」
「お嬢さん! しっかりしろ!」
カイさんとリヒトの声が聞こえる。けれど、その声は分厚いガラスの向こう側から聞こえてくるようで、私の心には届かない。
『さあ、おいで。もう苦しまなくていいのよ』
鏡の中の私が、私に向かって手を差し伸べる。その手を取れば、きっと楽になれる。私は、まるで吸い寄せられるかのように、鏡面に向かって、ふらふらと手を伸ばした。
指先が、ひやりとした鏡面に触れるか、触れないか。
私の意識が、完全に鏡の中の闇に呑み込まれようとした、その瞬間だった。
ガシッ、と力強い力で、私の肩が強く掴まれた。
「リリアーナ、戻ってこい!」
耳元で響いたのは、これまで聞いたこともないほど、厳しく、そして必死なカイさんの声だった。その声が、呪縛に風穴を開けた。私は、はっと息を呑む。
カイさんは、私を背後にかばうようにして、鏡の前に立ちはだかった。
「お前の遊びは、そこまでだ、ルクス」
カイさんが静かに、しかし腹の底から響くような声で言い放つ。その声には、ただの店主ではない、絶対的な支配者のような威圧感が込められていた。
鏡面が、びりびりと激しく振動する。そして、鏡の中から、キィィィ、と耳を劈くような甲高い音が響き渡った。それは、まるで嘲笑のようでもあり、怒りの叫びのようでもあった。
『邪魔、を……するな……呪具師……!』
鏡の中から、女とも男ともつかない、歪んだ声が響く。カイさんは一歩も引かず、その冷たい鏡面を睨みつけた。
「この子は、お前の玩具じゃない」
カイさんと鏡――ルクスと呼ばれたそれとの間で、見えない力が激しくぶつかり合うのが分かった。空気が張り詰め、店内の他の道具たちが、息を潜めて恐怖に震えている気配が伝わってくる。
その凄まじい攻防を最後に、私の意識は、ぷつりと糸が切れるように、深い闇の中へと落ちていった。