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第二話:初めての仕事と静かなる物たち

『月影の道具店』での、初めての朝が来た。

 窓の隙間から差し込む柔らかな光が私の瞼を優しく撫で、鳥のさえずりが微かに耳に届く。昨夜までの嵐が嘘のような、穏やかな朝だった。自分の屋敷の天蓋付きベッドではない、簡素だが清潔なベッドの上で目覚めるのは不思議な感覚だったが、追放されてから初めて、心から「よく眠れた」と思えた。


 身支度を整えて階下へ降りると、昨日と同じように店の主であるカイさんが、カウンターで何かの作業をしていた。彼の隣には、ちょこんとティーカップの姿のままのリヒトが置かれている。


「おはようございます、カイさん。リヒトも」

「……おはようございます、リリアーナさん。よく眠れたようで何よりです」


 カイさんは顔を上げ、静かにそう言った。リヒトは「ふん、泥だらけ嬢ちゃんのくせに寝起きは悪くないんだな!」と相変わらずの憎まれ口を叩いてくる。もう、この程度では驚かない。


「朝食はあちらに。簡単なものですが」


 カイさんが示したテーブルの上には、焼きたてのパンとチーズ、そしてミルクの入ったピッチャーが置かれていた。空腹だった私は、ありがたく席につく。パンをちぎって口に運ぶと、素朴だが小麦の香ばしい味が口の中に広がった。とても美味しい。


「あの……これはカイさんが?」

「ええ。まあ、これくらいは。腹が減っては仕事になりませんから」


 ぶっきらぼうにそう答え、彼は再び手元の作業に戻る。それは古い懐中時計のようで、彼は精密な工具を使い、その内部を慎重に分解していた。その横顔は真剣そのもので、昨日とは違う「呪具師」としての顔を覗かせているようだった。


 ぎこちない沈黙の中、私とリヒトとカイさん、三人(?)での食事が進む。リヒトはミルクを飲んでいるのか、時々ちゃぷん、と音を立てている。奇妙な光景だ。けれど、昨日の絶望が嘘のように、私の心は不思議と凪いでいた。まるで、この店全体が、傷ついた者を守る結界でも張られているかのように。


 朝食を終え、私が食器を片付けようと立ち上がると、カイさんが顔を上げた。


「さて。約束通り、今日から働いてもらいましょうか」

「はい! 何でもお申し付けください」


 私が居住まいを正すと、カイさんは店内をぐるりと見回し、深いため息をついた。


「見ての通り、この店は物で溢れている。そして、そのほとんどが埃を被りやすい代物ばかり。貴女の初仕事は、この店の大掃除です」

「大掃除、ですか」

「ええ。ただし、言っておきますが、ここの掃除は普通の掃除とは少し勝手が違います」


 カイさんはそう言うと、物置の隅から一本の箒とちりとり、そしてバケツと雑巾を持ってきた。一見すると、どこにでもあるただの掃除道具だ。


「まずは、床掃除から。こいつらを使ってください」


 彼が箒を床に置いた瞬間、箒はまるで意思を持ったかのようにしゃんと自立した。そして、私の足元までやってくると、ぺこり、とお辞儀をするように穂先を揺らしたのだ。


「ひゃっ!?」

「ああ、こいつは『お掃除箒』のヘンリー。綺麗好きで、仕事は真面目です。隣のちりとりが奥さんのマリー。夫婦で働いてもらうと、効率がいい」

「め、夫婦……」


 私の驚きをよそに、箒のヘンリーは「さあ、始めましょう!」と言わんばかりに穂先を震わせ、ちりとりのマリーは寄り添うようにその隣にぴたりとくっついた。


「それから、この雑巾は……」

「おっと、こいつは俺が紹介するぜ!」


 リヒトが待ってましたとばかりに声を上げた。


「そいつは『文句たれのゾーキン』だ! 水が冷たいだの、絞り方がきついだの、いちいちうるさいから覚悟しておくんだな!」


 リヒトが言う通り、私がバケツの水を汲んで雑巾を浸そうとすると、「ひゃ、ひゃめたい! もっと優しく扱えってんだ!」とか細い声が聞こえてきて、私は思わず手を止めてしまった。


 次から次へと現れる、個性豊かな(豊かすぎる)道具たち。カイさんは平然とした顔で「まあ、そのうち慣れますよ」と言うだけだ。これが、この店の日常。私は覚悟を決め、改めて雑巾を手に取った。


「よろしくお願いしますね、ゾーキンさん」

「……さん付けなら、まあ、許してやらないこともない」


 こうして、元公爵令嬢の、人生初となる大掃除が始まった。監督役はもちろんリヒトだ。「そこ、もっと隅まで拭け!」「ヘンリーとマリーの邪魔をするな!」と、カウンターの上から甲高い声で指示を飛ばしてくる。


 最初は戸惑いの連続だった。棚を拭こうとすれば、そこに飾られていた木彫りの小鳥が「くすぐったいじゃないか」とさえずり、本棚を整理しようとすれば、一番下の分厚い魔導書が「我輩の上に乗るとは不敬であるぞ」と唸り声を上げる。


 そのたびに私は悲鳴を上げそうになったが、カイさんが「小鳥には挨拶を」「魔導書には敬意を払って。彼はプライドが高いので」と冷静に助言をくれるのだった。一つ一つの物に、魂が、物語がある。それを理解しながら接しなければならない。ここは、そういう場所なのだ。


 半日かけて、ようやく店の一階部分の床と棚の埃を払うことができた。公爵令嬢だった頃には考えられないほどの重労働に、私の体は悲鳴を上げていたが、不思議と心は晴れやかだった。自分の手で、居場所を綺麗にしていく。その単純な事実が、私に確かな充足感を与えてくれていた。


 昼食を挟み、午後からは店の奥、今まで足を踏み入れたことのない倉庫に近い一角の掃除に取り掛かることになった。そこは、カイさんが仕入れてきたばかりの物や、まだ「呪い」が安定していない危険な道具たちが置かれている場所らしかった。


「……リリアーナさん。この先の物は、特に扱いに注意してください。私の許可なく、決して物に触れないように」


 カイさんの声が、いつもより少しだけ低くなる。その真剣な眼差しに、私はごくりと唾をのんだ。


 薄暗いその一角には、家具や骨董品が所狭しと積み上げられている。その中でもひときわ大きく、部屋の隅で異様な存在感を放っているものがあった。


 大きな、人の背丈ほどもあるだろうか。優美な彫刻が施された木枠に収められたそれは、上から下まで分厚いベルベットの布で完全に覆われており、その正体は分からない。ただ、そこだけ空気が違う。静かで、冷たくて、そして、何か巨大な力が眠っているような、張り詰めた気配が漂っていた。


「……カイさん、あれは?」


 私は、恐る恐るそれを指さして尋ねた。カイさんは私の視線の先を追うと、少しだけ眉をひそめた。


「……あれは、姿見です。今は眠っていますが、少々気難しい。機嫌を損ねると、厄介なことになります。今はまだ、近づかない方がいい」

「姿見……」


 ただの鏡だというのに、カイさんの口ぶりはまるで猛獣について語るかのようだ。布の向こう側にある鏡面に、一体何が潜んでいるというのだろう。興味と、それ以上に強い恐怖が湧き上がってくるのを感じた。


 その日は、姿見の周りを避けるようにして、他の家具の埃を払うだけで終わった。仕事が終わる頃には、私は疲労困憊で、夕食もそこそこにベッドに倒れ込んだ。


 その夜、私は夢を見た。

 断罪された、あの王城の大広間の夢だ。クロード殿下の冷たい声。アネットの偽りの涙。貴族たちの嘲笑。何度も何度も、繰り返しその光景が再生される。違う。私はやっていない。そう叫びたいのに、声が出ない。金縛りにあったように体が動かない。


「……悪役令嬢」

「……罪人」

「……汚らわしい」


 責め立てる声が、頭の中に響き渡る。


「……やめてっ!」


 叫んで、私はベッドから跳ね起きた。全身に、じっとりと嫌な汗をかいている。窓の外はまだ暗い。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いていた。


 大丈夫。あれは夢だ。私はもう、あそこにはいない。そう自分に言い聞かせても、一度刻み込まれた恐怖は、そう簡単には消えてくれないらしかった。


 翌日。少し寝不足のまま階下へ降りると、カイさんは私の顔を見て「……悪い夢でも?」と静かに尋ねた。この人は、本当に何でもお見通しなのだ。


「少し……昔のことを」

「そうですか」


 彼はそれ以上は何も聞かず、「今日は倉庫の奥を。昨日触らなかった場所を片付けましょう」とだけ言った。


 私は、再び倉庫の一角へと向かう。ヘンリーとマリー、そして文句たれのゾーキンも一緒だ。

 昨日と同じように掃除を始めるが、どうしても、部屋の隅にある布に覆われた姿見が気になって仕方がなかった。カイさんは「近づくな」と言った。けれど、なぜだろう。その布の向こう側から、誰かが私を呼んでいるような、そんな奇妙な感覚に襲われるのだ。


 夢で見た、過去の断片。心の奥底にしまい込んだはずの、悔しさと憎しみ。それらが、あの姿見に引き寄せられているような……。


 私は、自分の意志とは裏腹に、ゆっくりと、その大きな姿見の前へと歩みを進めていた。

 すぐ側まで来た時、リヒトが「おい、やめとけって! 主に言われてただろ!」と慌てたように叫んだ。


 その声で、私ははっと我に返る。そうだ、近づいてはいけない。

 そう頭では分かっているのに、私の手は、まるで何かに導かれるように、その分厚いベルベットの布に、そっと触れてしまっていた。


 その瞬間、ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け上がった。

 布の向こう側から、確かな意志を持った何者かの気配が、私に応えたような気がしたのだ。

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