第二十八話:静寂の心臓と夜明けへの脱出
カイさんの口から放たれた『精神の枷』という言葉は、冷たい刃となって、再会の喜びで温まっていた私の心を、根元から断ち切った。
血の気が引いていくのが、自分でも分かった。視界が白く点滅し、父の姿が、一瞬、遠くなる。
「呪い……。そんな……。では、父上を、救う手立てはないのですか!?」
私は、カイさんに、必死に食い下がった。彼の冷静な表情が、今は、無慈悲な宣告者のように見えてしまう。
「何か方法があるはずです! どんなに珍しい薬草でも、どんなに危険な場所へでも、私が取りに行きます! だから……!」
「リリアーナさん、落ち着いてください」
カイさんの静かな声が、パニックに陥りかけていた私の心を、強く引き戻す。彼は、私の肩にそっと手を置くと、厳しい、しかし、絶望だけではない色の瞳で、私を見つめた。
「『精神の枷』は、術者であるアネット妃自身か、あるいは、それと同等以上の力を持つ術者でなければ、完全な解呪は難しい。今の私では、不可能です」
その言葉に、目の前が、真っ暗になる。だが、カイさんは続けた。
「……ですが、希望が全くないわけではない。呪いの進行を大幅に抑え、閣下の意識を保つための薬なら、調合できます。ただし、そのためには、いくつか、おとぎ話の中にしか出てこないような、伝説級の希少な材料が必要です」
彼は、まるで古い書物のページをめくるかのように、その名を、一つ、一つ、告げていった。
「まず、真の月食の夜にのみ、涙を流すという『月詠み草の雫』。次に、世界樹の若木からしか採れぬという、千年分の一の心材。そして、最後に、高山の頂に巣食うという、伝説の聖獣『グリフォンの風切り羽』を焼いた、その灰……」
一つ、また一つと、その名が告げられるたびに、私の心臓は、冷たい水に沈んでいくようだった。あまりにも、非現実的な材料。それは、呪いを解く方法がある、という希望と、ほとんど不可能だという絶望を、同時に突きつけてくるものだった。
だが、私の瞳に、諦めの色はなかった。
「……たとえ、地の果てにあろうとも」
私は、父の、細くなった手を、両手で、ぎゅっと握りしめた。
「私が、必ず、全て、手に入れてみせます」
その時だった。
「リリアーナ」
父が、私の腕を、弱々しいが、しかし強い力で掴んだ。彼は、呪いによるものか、額に脂汗を浮かべながらも、その瞳には、鋭い光を宿していた。
「私のことは、後だ! 感傷に浸っている時間はない! それよりも、聞かねばならぬことがある。お前たちが通ってきた、あの階段の守護結界は……どうしたのだ? あの結界は、王家の血に連なる者でなければ、決して通れぬはず……」
「……はい。結界は、私を認め、道を開けてくれました。そして、最後に、こう警告を……。『この砦に眠るは、汝の父だけにあらず。偽りの月が求める、古の"災厄"もまた、その目覚めを待っている』と」
私の言葉を聞いた瞬間、父の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「やはりか……。そうか、アネットの狙いは、儂ではなかったのだな……。ならば、一刻の猶予もない!」
父は、私たちを順に見回すと、絞り出すような声で、この砦に隠された、恐るべき秘密を語り始めた。
「お前たちが知る通り、この国を建国した初代国王は、比類なき魔力の持ち主だった。だが、彼の時代は、同時に、強力な魔法が、兵器として、無数に生み出された、忌まわしい魔法戦争の時代でもあったのだ。空は、稲妻ではなく、黄昏色の魔力の槍によって引き裂かれ、大地は、呪詛の炎によって、涙も枯れ果てるほどに、焼かれたという」
父の言葉は、まるで、古い伝説を語る吟遊詩人のように、重々しく響いた。
「そして、その中でも、最も恐れられ、禁忌とされたのが、この砦の最深部に、国王自らの手で封印された『古の災厄』……『静寂の心臓』と呼ばれる、呪われた魔道具よ」
『静寂の心臓』。その名を聞いただけで、私は、背筋が凍るような悪寒を感じた。
「その力は、あまりにも、絶対的だ。発動すれば、その地は、草木も、獣も、人も、そして魔法さえも存在できぬ、完全なる無音の死の世界と化す。祈りは神に届かず、歌は誰の耳にも響かず、愛の囁きさえも、虚空に消える。抵抗する者は、声も出せずに、ただ、その生命活動を停止させられていくのだ」
カイさんが、息を呑むのが分かった。呪具師である彼にとって、それがどれほど恐ろしく、冒涜的な力か、痛いほど理解できるのだろう。ゴードンも、ルドルフも、戦士であるからこそ、声も出せずに死んでいくというその異常さに、顔を青ざめさせている。
「アネットという女は、それを手に入れ、王都の上で発動させるつもりなのだ。魔法の力を封じ、自らに逆らう者を、赤子のように無力化し、死に至らしめることで、絶対的な恐怖による支配を完成させようとしている。……予言にあった『癒えぬ病』とは、国中に広がる、この魔法の『死』のことだったのだ」
「では、父上が、ここに……」
「儂がここに囚われたのは、この砦の最後の封印を解く鍵が、『王家の血に連なる者の魔力』であると、あの女が、どこかで知ったからだろう。儂を利用して、災厄をその手にしようとしていたのだ。……アネットという女、あれは、ただの成り上がりの男爵令嬢ではない。その知識は、我が国に古くから巣食う、王家そのものを憎む、もっと暗い影から与えられたものやもしれん」
全ての点が、線で繋がった。
アネットの、狂気ともいえる野望。それは、ただの王位簒奪ではなかった。国そのものを、自らの意のままになる、静寂の墓場へと、作り変えようとしていたのだ。
その恐るべき真実に、私たちが言葉を失っていると、ルドルフが、冷静に、しかし力強く進言した。
「お話は、後ほど。今は、ここから脱出することが最優先です。閣下、リリアーナ様。私が、道を用意しております」
彼は、指揮官としての冷静さを取り戻すと、地図を広げ、計画を説明し始めた。
「私が、西の城壁の警備部隊に、『東の森で不審な動きあり』との偽情報を流し、彼らを陽動にかけております。警備が手薄になるのは、今から、鐘が一つ鳴るまでの間。その隙に、西の通用門から脱出します。麓の森には、馬を三頭、隠してあります」
「よし、行こう」
カイさんの決断で、私たちは、行動を開始した。ゴードンと私が、父の両脇を支える。ルドルフが先頭に立ち、カイさんが、最後尾で周囲を警戒する。
砦の暗く、長い通路を、急ぎ足で進んでいく。
一度だけ、角の向こうから、兵士たちの巡回部隊がやってくる気配があった。その時、ルドルフは、私たちを咄嗟に物陰に隠すと、自らは、堂々とその部隊の前に立ち塞がった。
「大尉殿! 何事ですか!」
「機密任務だ。国王陛下直属の『影』の方々をお連れしている。お前たちの知るところではない。持ち場に戻り、今宵のことは一切口外するな。これは、命令だ」
ルドルフの、威厳に満ちた、しかし、どこか切羽詰まったような迫真の演技に、兵士たちは、何一つ疑うことなく、敬礼して去っていった。
やがて、私たちは、小さな、錆びついた通用門の前にたどり着いた。
ルドルフが、その鍵を開ける。
扉の向こうから、ひやりとした、森の匂いを運ぶ、夜風が吹き込んできた。
冷たい夜風が、リリアーナの頬を撫でる。
それは、牢獄からの解放を告げる、自由の風。
だが、彼女は知っている。
砦の外に出た今、自分たちが、国そのものを救うための、時間との戦いという、もっと巨大な牢獄に足を踏み入れたのだということを。
父の呪いを解くために。
そして、あの『静寂の心臓』を、アネットより先に、見つけ出すために。
彼女は、決意を新たに、眼下に広がる闇の中へと、その一歩を踏み出す。




