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第二十六話:最後の番人と真の正義

「――お待ちしておりました、リリアーナ様」


 その声は、静かだったが、この荘厳な回廊の空気を支配するには、十分すぎるほどの重みを持っていた。

 私の名が、敬称と共に、この砦の指揮官の口から発せられた。その事実に、ゴードンの息を呑む気配と、カイさんの警戒心が、一瞬にして最大にまで高まったのが分かった。


「おい、リリアーナ、どうなってやがる……!?」

 フードの中から、リヒトが混乱した声を上げる。


 だが、私は、恐怖よりも、強い意志を持って、一歩前に進み出た。目の前の男は、ただ者ではない。小手先の嘘や、恐怖心は、一切通用しない相手だ。


「なぜ、私の名を。そして、なぜ、待っていたと?」


 私の問いに、ルドルフ大尉は、兜の奥から、静かな、そしてどこか物悲しい瞳を私に向けたまま、ゆっくりと口を開いた。


「北の情報屋『フクロウ』殿が動き出した時、我々もその動きを察知しておりました。彼が接触したのが、クラウゼル公爵閣下のご息女、リリアーナ様であると知った時から、私は、ずっと考えていたのです。貴方様が、ここへ現れる、その時を」


 彼は、全てを知っていた。フクロウのことも、私たちがここに来ることも。私たちは、彼の掌の上で泳がされていたに過ぎなかったというのか。その事実に、背筋が凍る思いがした。


「ならば、なぜ、罠を? なぜ、私たちをここまで?」

 カイさんが、低い、鋭い声で問う。


「確かめたかったのです」と、ルドルフは答えた。「貴方様方が、どのような覚悟で、ここへ来たのかを。そして……リリアーナ様が、どのような御方なのかを」


 彼は、傍らに置いていた長剣を、鞘ごと手に取った。だが、それを抜く気配はない。彼は、その剣を杖のようにして、自らの前に立てると、まるで告解するかのように、静かに語り始めた。


「私は、アネット妃殿下こそ、腐敗した貴族社会を正す、天が遣わした聖女だと信じておりました。故に、いかなる命令にも、疑いを抱くことはなかった。この身も、この剣も、ただ、正義のためにあるのだと……そう、信じて疑わなかったのです」


 彼の声には、かつての自分を語る、深い自嘲の色が滲んでいた。


「だが、聞こえてくるのは、民の嘆きばかり。ヴァルガス侯爵のような、私腹を肥やすだけの佞臣が重用され、グレイヴス将軍のような、高潔だったはずの騎士が、心を殺して悪事に手を染めていく。私の信じる『正義』が、国を、民を、苦しめている。この矛盾に、私は、答えを見つけられずにいたのです」


 ルドルフの瞳が、真っ直ぐに、私の心を射抜く。


「だからこそ、お聞きしたい。リリアーナ様、貴方様は、何のためにここへ? 失われた地位を取り戻し、アネット妃に復讐するためですか? それとも、その先にある、何か別のもののために?」


 それは、私の覚悟を、私の魂そのものを、天秤にかけるような問いだった。

 私は、彼の視線から、決して目を逸らさなかった。そして、これまでの旅路で得た、全ての想いを込めて、答えた。


「復讐心がない、と言えば嘘になります。私から全てを奪い、民を欺いたあの人を、この手で裁きたいと願う気持ちが、私の中にないわけではありません」


 私は、まず、自らの人間的な弱さを、正直に認めた。その上で、言葉を続ける。私の声は、いつしか、揺るぎない力強さを帯びていた。


「ですが、それ以上に、私は、私の無力さ故に苦しんでいる民を見過ごすことはできません。父を救うのは、私の家族としての、捨てられぬ想い。そして、この歪んでしまった国を、人々が笑顔で暮らせる、本来あるべき正しい姿に戻すのは、この国に生を受け、クラウゼル家の娘として生きてきた、私の責務です」


 私の答えに、しかし、ルドルフはすぐには膝を折らなかった。彼は、さらに鋭く、私の覚悟の真贋を確かめるように、問いを重ねてきた。


「『責務』、ですか。その言葉は、アネット妃殿下も、かつて口にしておられました。『国を思うが故の、責務』だと。言葉だけなら、何とでも言える。リリアーナ様、貴方様のその責務は、妃殿下のそれと、何が違うのです?」


 その問いは、私の心の最も深い部分を、抉り出すような問いだった。私は、一瞬、言葉に詰まる。だが、私は、アネットの顔を、そして、苦しむ民の顔を思い浮かべ、静かに、しかしはっきりと答えた。


「妃殿下の責務は、民から奪い、民を支配することで成り立っています。彼女の見る先には、彼女自身の栄光しかない。ですが、私の責務は、民に与え、民と共に歩むこと。その始まりが、たとえ父一人の救出だとしても、その先に見ているものが、全く違います。私は、頂点に立ちたいのではない。国を支える、礎の一つになりたいのです」


 ルドルフは、黙って私の言葉を聞いていた。彼の兜の奥の瞳が、微かに揺れる。彼は、最後の問いを、投げかけてきた。


「国を正す、と。それは、血が流れるということです。貴方様には、その覚悟がおありか? 貴方様を信じて立ち上がった兵士たちが、たとえ無駄死にすることになったとしても、その全てを背負う覚悟が」


 その言葉は、あまりにも重く、私の肩にのしかかるようだった。私は、目を閉じ、王都で出会った兵士たちの、幸せそうな夢の断片を思い出す。そして、目を開けた。私の瞳に、もはや迷いはなかった。


「私は、無駄な血は、一滴たりとも流したくありません。だからこそ、私はここにいる。力で全てをねじ伏せるのではなく、心に語りかけ、道を拓く。私のこの力は、そのためにあるのです。それでも、避けられぬ戦いがあるのなら……その全ての痛みと悲しみは、私が、先頭に立って、背負います」


 私の、揺るぎない答え。

 それを聞いた瞬間、ルドルフの全身から、ふっと、力が抜けたのが分かった。彼を縛り付けていた、永い間の葛藤と、疑念の鎖が、断ち切れたのだ。


 彼は、その場に、ゆっくりと、しかし、一切の迷いのない動きで、片膝をついた。そして、右手の拳を、左胸の紋章の上に置き、深く、深く、頭を垂れた。それは、騎士が、自らの生涯を捧げる主君にだけ見せる、絶対的な忠誠の誓いの形だった。


「……見つけ、申した……。我が、真に仕えるべき、主君を」


 その声は、震えていた。だが、それは、もはや迷いの震えではなかった。確信と、歓喜の震えだった。


 彼は顔を上げ、その瞳から、全ての迷いを振り払った、澄み切った忠誠の光を、私に向けた。


「我が剣、これまで偽りの主に捧げておりました。リリアーナ様。今この時より、このルドルフの剣と命、貴方様と、貴方様の掲げる真の正義のために捧げることを、ここにお誓いいたします」


 最強の敵と思われた番人が、今、最も頼もしい、最初の騎士となった瞬間だった。


 ルドルフは、静かに立ち上がると、その表情から、先ほどまでの苦悩の色は消え去っていた。彼は、忠実なる騎士の顔で、重い鉄格子の扉へと向かう。そして、腰の鍵束から、一本の、巨大な鍵を取り出すと、その錠前へと差し込んだ。


 ガチャン、と、重々しい金属音が響き渡る。

 父を、そして、私を、永い間、隔てていた扉が、今、開かれようとしている。


「さあ、お進みください。閣下は、この先でお待ちです」


 その言葉は、もはや番人としてのものではない。

 忠実なる騎士が、自らの主君を、その父君の元へと導く、確かな一声。


 リリアーナは、力強く頷くと、ついに、父の元へと続く、最後の扉をくぐる。

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