第二十四話:中央階段の罠と三つの眼
古代の守護結界が、光の粒子となって消え去った後。
私たちの間には、しばし、呆然とした沈黙が流れた。カイさんも、ゴードンも、目の前で起きた奇跡が信じられないといった表情で、ただ、私が立っていた場所と、その先に続く階段を、交互に見つめている。
「……姫様。あんた、一体……」
ゴードンの、かすれた声が、静寂を破った。
私は、彼らに向き直ると、結界が最後に私だけに告げた、不吉な言葉を簡潔に伝えた。
「『この砦に眠るは、汝の父だけにあらず。偽りの月が求める、古の"災厄"もまた、その目覚めを待っている』……と。今はまだ、それが何かは分かりません。ですが、心に留めておく必要があります」
新たな謎の出現に、カイさんの表情が一層厳しくなる。だが、私は、彼の目を真っ直ぐに見つめて続けた。
「ですが、その災厄が何であれ、まずは父上を救い出すことが先決です。進みましょう」
私のその言葉には、もう迷いはなかった。リーダーとして、一行を導かなければならない。その覚悟が、自然と、私を突き動かしていた。
「おいおい、不気味な話は後にしてくれよ。さっさと登っちまおうぜ」
フードの中から聞こえるリヒトの軽口が、張り詰めた空気を少しだけ和ませてくれた。
私たちは、ついに、砦の心臓部である、中央階段へと足を踏み入れた。
そこは、威厳と、そして長い歴史の重みに満ちた空間だった。壁に掛けられた色褪せたタペストリーは、かつての王家の栄光と、数多の戦の記憶を、静かに物語っている。私たちの足音だけが、高い天井に、虚しく響き渡った。
先導するのは、ゴードンだ。彼の歩みは、猟師が獣の縄張りに足を踏み入れる時のように、慎重で、一切の無駄がない。その鋭い眼光は、床の石の一つ、壁の染み一つ、見逃すまいと、絶えず周囲を警戒していた。
階段を十数段、上った時だった。
ゴードンが、すっと、音もなく片手を上げて、私たちを制止した。
「……止まれ」
彼の視線は、私たちの数歩先にある、一枚の石畳に注がれている。私やカイさんには、他の石と何ら変わらないように見えた。
「ゴードンさん、何か?」
「……石の色が、ほんの僅かに違う。それに、この階段の他の石と違って、埃の積もり方が不自然だ。まるで、つい最近、誰かが嵌め直したみてえだ。……重量板だろう」
その言葉に、緊張が走る。
ゴードンは、腰の袋から、拳大の石ころを一つ取り出すと、狙いを定め、問題の石畳へと、ぽとりと投げた。
石は、音もなく着地する。何も起こらない。
「……ちっ、軽いものには反応しねえか」
彼は、今度は、近くの壁から剥がれ落ちていた、より大きな石の破片を拾い上げた。そして、先ほどよりも強い力で、それを石畳へと放る。
カチリ、という、耳障りな金属音が、壁の内部から響いた。
その直後、ヒュン、ヒュン、と風を切る音と共に、数本の毒矢が、階段の左右の壁の隠し穴から飛び出し、反対側の壁へと突き刺さった。もし、何も知らずにあの石を踏んでいれば、私たちは、今頃……。
「……見事なものです」
カイさんが、ゴードンの経験と観察眼に、素直な感嘆の声を漏らした。
私たちは、その危険な罠を、慎重に、大きく迂回して、先へと進んだ。
一つ目の踊り場を抜け、二階へと続く階段に差しかかった時。
今度は、カイさんが、ぴたりと足を止めた。
「ゴードンさん、今度は、上です」
カイさんの視線は、私たちの頭上、次の踊り場の天井に向けられていた。そこには、口を大きく開けた、不気味なガーゴイルの石像が、こちらを睨みつけている。
「あのガーゴイルの口の中が、不自然なほど黒く煤けている。そして、壁のその下…ごく微かに、油のような染みが垂れた跡がある」
「火吹き罠か……!」
ゴードンの声に、険が混じる。
私は、カイさんの言葉を確かめるように、ガーゴイルの石像に、意識を集中させた。
私の心の中に、石像の「心」が流れ込んでくる。それは、何かを溜め込み、そして、それを一気に解放するのを、じっと待ち構えているような、不気味なほどの「緊張感」と「静かな殺意」だった。
「……ええ。カイさんの言う通りです。あの子は、何かを吐き出すのを、待っている。そして、その引き金は、この階段のどこかに……」
私は、今度は、目の前の階段の石たちに、一つ一つ、意識を合わせていく。
「違う」「ここでもない」「いつも通りだ」……ほとんどの石は、ただ、そこにあるだけの、穏やかな声をしていた。
だが、一段だけ。踊り場の三段手前の石だけが、他とは違う、奇妙な「声」を発していた。
(繋がっている……壁と、天井と……重い……早く、この重さから、解放されたい……)
その石は、内部に仕込まれた機械装置によって、他の石にはない「負荷」を感じているのだ。
「……見つけました。あそこです。踊り場の、三段手前の石。あの子だけが、悲鳴を上げています」
私の言葉に、カイさんとゴードンは、顔を見合わせた。そして、ゴードンが、再び、小さな石ころを、私が指し示した石畳へと、正確に投げつけた。
カチ、という、先ほどよりも鈍い音がした。
その瞬間、頭上のガーゴイルの口が、カッと赤く輝き、ゴウッ、という轟音と共に、灼熱の炎が、階段の踊り場一帯を舐め尽くした。もし、あの石を踏んでいれば、私たちは、一瞬で黒焦げになっていただろう。
炎が消え去った後も、石畳は、じゅうじゅうと、不気味な音を立てていた。
「……姫様、カイの旦那。あんたたち、本当に、頼りになるぜ」
ゴードンが、初めて、心からの笑みを見せた。
猟師の、長年の経験。
呪具師の、怜悧な分析眼。
そして、私の、声なき声を聞く力。
三つの異なる「眼」が、一つになることで、私たちは、この砦が仕掛けた、二つの致命的な罠を、乗り越えることができたのだ。
私たちは、互いへの信頼を、より一層、深いものにしながら、ついに、中央階段の最上階へとたどり着いた。
そこは、下層階の無骨な雰囲気とは違い、赤い絨毯が敷かれ、壁には、クラウゼル家の祖先であろう、歴代の当主たちの肖像画が、厳かに並んでいる。
長い階段の試練は、終わった。
だが、その先にある、息を呑むほどの静寂こそが、本当の戦いが近いことを、何よりも雄弁に物語る。
リリアーナは、仲間たちの存在を背に感じながら、その静寂の向こう側へと、静かに視線を向けた。




