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第十九話:作戦前夜と石喰いの苔

その夜、宿屋の一室の空気は、張り詰めた弦のように、静かな緊張に満ちていた。

窓の外には、月明かりにぼんやりと照らされた『黒岩の砦』が、巨大な獣のように闇の中にうずくまっている。無数の窓に灯りはなく、まるで死んだ巨人の骸のようだ。あの場所に父がいる。そう思うだけで、私の心は逸るが、同時に、これから挑む任務の困難さが、ずしりと肩にのしかかる。


「おい、リリアーナ。そんなに窓の外ばかり見てると、体に穴が開くぜ。少しは落ち着け」


ベッドの上で丸くなっていたリヒトが、声をかけてきた。その声には、いつものからかうような響きではなく、確かな気遣いが滲んでいる。


「ごめんなさい、リヒト。少し、考え事をしていたの」

「ふん。考えたって、あの岩山が砂に変わるわけじゃねえだろ。今は、カイの旦那が言った通り、心を平らにしておくんだ。お前の心が乱れると、僕の紅茶の味まで落ちるからな」


彼の不器用な優しさに、私は小さく微笑んだ。左手の人差し指にはめられた『鎮静の指輪』に、そっと触れる。カイさんの想いが込められた指輪が、ひんやりとした感触と共に、私の心の波を穏やかにしてくれる。大丈夫。私は一人ではないのだから。


部屋の隅では、カイさんが、地図を広げるでもなく、静かに目を閉じて瞑想していた。彼は、ただ情報を整理しているのではない。自らの魔力を、精神を、これから始まる戦いのために、研ぎ澄ませているのだ。その姿からは、普段の穏やかな店主とは全く違う、歴戦の呪具師だけが持つ、鋭利な空気が立ち上っていた。


やがて、夜がさらに深まり、村が寝静まった頃。私たちは、宿屋を抜け出し、ゴードンの待つ村はずれの小屋へと向かった。


小屋の中では、すでに全ての準備が整えられていた。壁には、この辺りの地形を詳細に記した、彼自身の手によるであろう獣皮の地図が広げられ、テーブルの上には、頑丈なロープや、携帯用の松明、そして、手入れの行き届いた短剣が置かれている。小屋の中は、木煙と、なめした革の匂いがした。


「来たか、姫様、カイの旦那」


ゴードンは、私たちを出迎えると、早速、地図の前に立つよう促した。その表情は、昼間よりもさらに険しく、百戦錬磨の猟師の顔つきになっている。


「作戦は、今夜決行する。フクロウの旦那からの知らせでは、今夜半、月が厚い雲に覆われる時間帯がある。およそ、鐘二つ分。その闇に紛れて、砦の北側、川が始まる崖下まで移動する」


彼は、節くれだった指で、地図上の一点を指し示した。


「わしが先導し、崖沿いの獣道を行く。道は険しいが、見張り塔からの視線を避けるには、そこしかねえ。見張りは二人一組、鐘一つごとに交代だ。奴らの交代の瞬間が、我々が動ける、僅かな隙になる」


その言葉に、カイさんが静かに口を挟んだ。

「その道は、猟師のあなたから見て安全だとしても、我々にとっては未知の領域です。何か、魔術的な罠が仕掛けられている可能性は?」

「罠だと?」ゴードンは、カイさんを睨むように見た。「わしは、この山の獣道なら、自分の庭と同じだ。魔術なんざ知らねえが、不自然なもんは何一つねえ。そんな場所に、金のかかる仕掛けなんざするかね」


猟師としての経験と自信。呪具師としての論理と警戒心。二人の間の空気が、少しだけ張り詰める。私は、その間に割って入った。


「カイさん、ゴードンさん。私が、道の古石たちに聞いてみます。彼らなら、何か不自然なものが自分たちの上に置かれていないか、教えてくれるかもしれません。ゴードンさんの経験と、カイさんの警戒心、そして私の力。三つを合わせれば、きっと道は開けます」


私の提案に、二人は顔を見合わせ、そして、ゴードンが「……なるほどな。姫様の言う通りだ」と頷き、カイさんも「それが、最も確実なようですね」と同意した。


「よし、計画は決まった」とゴードンは言った。「問題は、目的地だ。地下水路の入り口は、十年以上前に、砦の連中が起こした岩盤崩れで、完全に塞がれてしまっている。ただの岩じゃない。崖の上から落とした、巨大な岩が何重にもなって、入り口を覆い尽くしているんだ。あれをどうにかせねば、我らは中に入ることさえできん」


力ずくで動かすのは、まず不可能だろう。音を立てれば、すぐに警備兵に気づかれてしまう。

私が、岩の「声」を聞くことを提案しようとした時、カイさんが静かに言った。


「そのための、準備はしてあります」


彼は、旅の荷物の中から、一つの、黒いガラスでできた小さな小瓶を取り出した。


「これは**『石喰いの苔』**の濃縮液です。どんなに硬い岩でも、この液体を数滴垂らせば、まるで砂のように、音もなく、その構造を内側から崩壊させることができる。ただし、効果が出るまでには、鐘一つ分ほどの時間がかかる。我らが潜入する頃合いを見計らって、仕掛ける必要があります」


カイさんの用意周到さに、ゴードンも感嘆の息を漏らした。


計画は定まった。私たちは、月が、最も厚い雲にその姿を隠すのを、息を殺して待った。

そして、その時が来る。


「行くぞ」


ゴードンの低い声を合図に、私たちは、闇に紛れて小屋を出た。

ひやりとした夜気が、肌を刺す。ゴードンが先頭に立ち、音もなく、獣のように道なき道を進んでいく。私とカイさんが、その後に続いた。リヒトは、万が一の時に備え、私のマントのフードの中から、猫のように鋭い目で、周囲を警戒している。


遥か頭上には、黒岩の砦の見張り塔の灯りが、悪魔の目のように、ぼんやりと瞬いていた。

崖沿いの道は、人が一人、ようやく通れるほどの幅しかない。一歩、足を踏み外せば、奈落へと落ちていく漆黒の闇。私は、自分の力で、道の石や土に意識を向けた。「大丈夫」「ここは少し緩い」「この先の根は滑る」。声なき声が、私の足元を導いてくれる。


その時だった。

頭上の見張り塔から、松明の光が、さっと崖下を照らした。

「伏せろ!」

ゴードンの囁きと同時に、私たちは咄嗟に岩陰に身を隠した。松明の光が、すぐ近くの岩肌を舐めるように通り過ぎていく。警備兵たちの、退屈そうな話し声さえ聞こえてきそうだ。心臓が、大きく跳ねる。光が遠ざかり、再び闇が訪れるまでの時間は、永遠のようにも感じられた。


息を殺して、さらに進む。すると、不意に、私が前方の岩盤に意識を向けた時、ぞくりとした悪寒が走った。

「待って! この先の岩盤が、"泣いて"います。苦しい、崩れたいって……」

私の囁きに、ゴードンが即座に手を上げて一行を止めた。その直後、パラパラ、という小さな音と共に、私たちの数歩先の道が、小さな岩と共に崩れ落ちていったのだ。もし、そのまま進んでいれば……。


「……姫様。あんたの力、本物だ」


ゴードンが、畏敬の念を込めて呟いた。

その時、カイさんが、ふっと鼻を鳴らした。


「風向きが変わった。松明の煙の匂いが薄れていく。……警備兵の交代の刻限が近い。奴らの気が、最も緩む時です。ゴードンさん、あの崩れた場所を迂回する道は?」

「ある。少し遠回りになるが、安全な道がな」


三人の力が、一つになる。ゴードンの経験、カイの知恵、そして私の力。私たちは、互いを信じ、闇の中を進んだ。


やがて、ごうごうという川の源流の音が聞こえる、崖の下へとたどり着いた。目の前には、ゴードンの言った通り、巨大な岩が、無慈悲に、地下水路の入り口であったであろう場所を塞いでいる。


カイさんは、静かに小瓶を取り出すと、岩の隙間に、黒い液体を数滴、慎重に垂らした。液体は、音もなく、岩の内部へと染み込んでいく。


「……よし。これで、鐘一つ。夜明け前には、道が開けるはずです」


カイさんが囁く。私たちは、近くの、人の目にはつかない岩の窪みに身を寄せ、息を殺して、その時を待つことにした。


冷たい岩肌に背を預け、リリアーナは、仲間たちの息遣いをすぐそばに感じていた。頑固で、頼りになる猟師。博識で、いつも自分を守ってくれる呪具師。そして、小さくても、誰よりも勇ましい相棒。


私は、もう一人ではない。

この温もりがある限り、どんな闇だって、きっと……。


彼女は、静かに、仲間たちと共に、夜明け前の、最も深い闇の中で、道が開かれるのを待つ。

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