第一話:月影の道具店と口の悪いティーカップ
キィ……と、長い間忘れられていた歌のような、どこか物悲しい音を立てて、重厚な木製の扉がゆっくりと開く。中から流れ出してきたのは、古い木とインクの匂い、そして、微かに甘い焼き菓子のような不思議な香りだった。
私が一歩足を踏み入れると、背後の扉がひとりでに、しかし優しい音を立てて閉まった。外の荒れ狂う雨風の音が嘘のように遠ざかり、店内は不思議な静寂に包まれていた。そこは、私の想像をはるかに超えた空間だった。
天井まで届くほどの本棚には、革や羊皮紙で装丁された古書がぎっしりと詰まっている。壁には作者も年代も分からないような絵画や、錆びついた天球儀。ガラスケースの中には、繊細な銀細工や、見たこともない鉱石が鈍い光を放っている。埃っぽさはあるものの、それは単なる汚れではなく、長い年月が積み重ねた歴史の重みのように感じられた。乱雑に置かれているように見えて、全ての物があるべき場所に収まっているような、奇妙な調和がそこにはあった。
「……お客様、でしょうか」
不意に、店の奥のカウンターから声がした。ランプの光が直接届かない影の中から、一人の青年が姿を現す。てっきり、腰の曲がった老人でも出てくるのかと身構えていただけに、私は少しだけ意表を突かれた。
青年は、私よりいくつか年上だろうか。艶のある黒髪を無造作に後ろで束ね、職人のような革のエプロンを身に着けている。歳の頃は若く見えるのに、その佇まいはまるで何百年も生きている古木のように落ち着いていた。何より印象的だったのは、その瞳だ。全てを見透かすような、深い森の湖にも似た静かな瞳で、私を――泥と雨でずぶ濡れの、見るからに哀れな私を、品定めするように、それでいて何の感情も示さずに、じっと見つめている。
「……道を、探しておりました。少し、雨宿りをさせてはいただけないでしょうか」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。公爵令嬢としてのプライドなど、今はもう欠片も残っていない。ただ、この嵐をしのげる場所が欲しかった。
青年は何も答えず、カウンターの向こう側で何か作業を始め、やがてことり、と一つのカップをカウンターに置いた。透き通るような白磁に、繊細な青い薔薇が描かれた美しいティーカップ。そこから、ふわりと湯気と共にハーブの優しい香りが立ち上る。
「……とりあえず、温かいものでも。カモミールと、少しだけ蜂蜜を。落ち着くはずです」
「あ……ありがとうございます」
警戒心よりも、その温かさへの渇望が勝った。震える手でカップに触れると、じんわりとした熱が指先から伝わってくる。泥だらけの自分が、こんなに美しいカップに触れて良いものだろうかと一瞬ためらったが、構わずに一口、その液体を口に含んだ。
優しい花の香りと、ほんのりとした甘さが、冷え切った体に染み渡っていく。緊張でこわばっていた肩の力が、少しだけ抜けていくのが分かった。
「……まったく。こんな泥だらけのお嬢さんを座らせるなんて、主も人が悪いぜ」
その時だった。私の手の中から、甲高い少年の声が聞こえたのは。
「えっ」
思わずカップを取り落としそうになり、慌てて両手で抱え込む。今のは何? 空耳? 疲れ果てて、幻聴まで聞こえ始めたのだろうか。私が混乱していると、青年は悪びれもせずに言った。
「ああ、気にしないでください。この子は少し口が悪いだけで、害はありませんから」
「この子……?」
彼の視線は、明らかに私が持っているティーカップに向けられている。まさか。そんな、おとぎ話のようなことが。私が恐る恐るカップに視線を落とすと、カップに描かれた青い薔薇模様が、まるで口のように動いた気がした。
「なんだよ、じろじろ見て! 僕だって好きでこんな姿になったわけじゃないんだぜ! それにしてもお嬢さん、ひどい有様だな。どっかの駄犬にでも追いかけられたのかい?」
「しゃ、喋った……!」
私は、今度こそ短い悲鳴を上げた。ティーカップが喋っている。紛れもない事実として、私の手の中にあるこの白磁の器が、悪態をついている。
「だから、うるさいと。静かにできないのか、君は」
店の主である青年が、やれやれと首を振りながらカップを軽く指で弾く。カーン、と澄んだ音がして、カップは「いってぇな!」と叫んだ。
「君はリリアーナ・フォン・クラウゼル嬢。そうでしょう?」
「なっ……!?」
ティーカップの衝撃も冷めやらぬうちに投げかけられた言葉に、私は息を呑んだ。なぜ、彼が私の名前を知っている? 追放されたことは、まだ王都の外には伝わっていないはず。目の前の青年は、一体何者なのだろうか。
「……なぜ、私の名を」
「この店には、色々なものが流れ着きますから。人の噂も、忘れられた物語も。貴女が今日ここへたどり着くことも、なんとなくですが、分かっていました」
彼はそう言うと、店の奥へと続く扉を指し示した。
「奥に客間があります。着替えも用意しましょう。今夜はゆっくりお休みになるといい。貴女の事情を聞くのは、それからでも遅くはない」
彼の言葉には、有無を言わせぬ不思議な力があった。私は、まるで魔法にでもかかったかのように、こくりと頷くことしかできなかった。手の中のカップは「せいぜいゆっくりしていくんだな、泥だらけ嬢ちゃん!」と最後まで憎まれ口を叩いていた。
案内された客間は、広くはないが必要なものが全て揃った清潔な部屋だった。ベッドの上には、簡素だが乾いたワンピースが置かれている。温かいシャワーを浴びて着替えると、泥と雨に打たれて重く冷たくなっていた体が、ようやく生き返る心地がした。
ふかふかのベッドに身を横たえる。瞼を閉じれば、今日の出来事が走馬灯のように蘇る。王子の冷たい声、貴族たちの嘲笑、アネットの勝ち誇ったような顔。そして、この不思議な店。喋るティーカップ。私の名を知る、謎めいた店の主。
全てが現実とは思えなかった。もしかしたら、これは追放された私が見ている、長い悪夢なのかもしれない。けれど、先ほど飲んだハーブティーの温かさと、手の中に残るカップの感触は、確かに本物だった。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れて止まらなかった。声を殺して泣き続けた。これまでずっと、公爵令嬢として、王太子妃となるべく、感情を押し殺して生きてきた。その堰が、今、完全に壊れてしまったようだった。
どれくらい泣き続けたのか、分からない。涙が枯れ果て、意識が朦朧としてきた頃、部屋の扉がこん、こんと控えめにノックされた。
「……どなた?」
「僕だよ、僕。さっきのティーカップ様だ」
扉の下の隙間から、するりとティーカップが滑り込んできた。どうやって動いているのか、もはや考える気にもなれない。カップはベッドの脇までやってくると、独り言のようにつぶやいた。
「……主がさ、あんまりにもあんたが泣いてるから、様子を見てこいって。ほらよ、これでも飲んで寝ろ」
カップの中には、先ほどと同じ温かいハーブティーがなみなみと注がれていた。どこから持ってきたというのだろう。
「……ありがとう」
「べ、別に、あんたのためじゃないからな! 主の命令だから仕方なくだ!」
ぶっきらぼうにそう言うと、カップはそっぽを向くようにくるりと向きを変えた。その姿が、なんだか少しだけおかしくて、私の口元から、ふっと小さな笑みが漏れた。今日、初めての笑みだった。
「……あなたにも、名前はあるの?」
「……僕か? 僕は『リヒト』。主がそう呼ぶ」
「リヒト……。素敵な名前ね」
「そ、そうかい? まあ、主のネーミングセンスは悪くないからな!」
リヒトは、どこか嬉しそうにそう言った。温かいハーブティーをゆっくりと飲み干すと、不思議と心が落ち着いていく。リヒトとの他愛のない会話が、ささくれ立っていた私の心を、少しだけ癒してくれた。
その夜は、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。悪夢も見なかった。
*
翌朝、私が目を覚ますと、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。昨日の嵐が嘘のような、穏やかな朝だ。ベッドの脇には、いつの間にかリヒトの姿はなかった。
着替えて階下へ降りると、店の主である青年が、カウンターで木片を削る作業をしていた。その真剣な横顔は、まるで芸術家のように美しかった。
「……おはようございます。昨夜は、ありがとうございました」
私が声をかけると、彼は作業の手を止めて顔を上げた。
「よく眠れたようですね。顔色が少し良くなった」
「はい、おかげさまで」
私は一つ、深呼吸をする。そして、決意を固めて、彼の前に立った。もう、公爵令嬢リリアーナ・フォン・クラウゼルはいない。私はただの、リリアーナだ。
「お願いがあります。私を、この店で働かせてはいただけないでしょうか」
「……ほう」
彼は興味深そうに、片方の眉を上げる。
「公爵令嬢だった貴女に、何ができると?」
「掃除、洗濯、食事の支度。一通りのことはできます。お妃教育は厳しかったですから。それに……私にはもう、行く場所がないのです。ここで追い出されたら、野垂れ死ぬしかありません」
私は、頭を下げた。生まれて初めて、誰かにこれほど深く頭を下げた。プライドも何もかも捨てて、ただ懇願した。
青年はしばらく黙っていた。ナイフで木片を削る、カリ、カリ、という音だけが店内に響く。やがて、彼はふっと息を吐くと、ナイフを置いた。
「……ちょうど、掃除係が一人欲しかったところです。この店は、放っておくとすぐに埃が積もる物ばかりでしてね。給金は出せませんが、寝床と食事は保証しましょう。それでよければ」
顔を上げた私と、彼の視線が交差する。その瞳の奥に、ほんの少しだけ、優しい光が灯ったように見えた。
「よろしいのですか……?」
「ええ。ただし、一つだけ条件があります」
彼は立ち上がると、店内に並ぶ品々をゆっくりと見回した。
「この店にある物は、どれもこれも少々……訳ありでしてね。物に触れる時は、必ず私の許可を得ること。そして、何が起きても、決して驚かないこと。それが約束できますか?」
私は、昨日出会ったおしゃべりなティーカップ、リヒトのことを思い出す。この店にある全ての物が、彼のような存在だというのだろうか。想像するだけで眩暈がしそうだったが、私に断るという選択肢はなかった。
「はい。約束、いたします」
私の答えを聞いて、青年は満足そうに頷いた。
「よろしい。では、改めて自己紹介を。私の名はカイ。この『月影の道具店』の主です」
こうして、元悪役令嬢リリアーナの、不思議なアンティークショップでの奇妙な共同生活が、静かに幕を開けたのだった。