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第十六話:黒岩の砦と月影のマント

 北からの最初の兆しから、さらに二日が過ぎた、よく晴れた日の午後だった。

 私は、リヒトとお茶を飲みながら、庭でハーブを摘んでいた。カイさんは工房で何かの作業に没頭しており、店の中は、いつものように穏やかな時間が流れていた。焦燥感が完全に消えたわけではない。けれど、仲間たちと過ごすこの温かい日常が、私の心を強く支えてくれていた。信じて、待つ。その覚悟は、もう揺るがない。


 その、瞬間だった。


 店の奥、カイさんの工房の入り口近くに置いてある木箱が、前触れもなく、強い光を放ったのだ。それは、もう、チカチカという弱々しい明滅ではない。まるで小さな太陽がそこにあるかのように、はっきりとした、持続的な光だった。


「来たか……!」


 工房からカイさんが飛び出してくるのと、私が庭から店に駆け込むのは、ほぼ同時だった。ダミアンも、リヒトも、店の全ての者たちの意識が、光を放つその一点に集中する。


 私は、木箱の前に膝をつくと、そっと蓋を開けた。中にある『伝書鳥のイヤリング』が、まばゆいばかりに輝いている。私がそれに触れると、すぐに、あの用心深く、剃刀のように鋭い声が、直接、頭の中に響いてきた。


『……"フクロウ"だ。待たせたな、姫君』

「フクロウさん……!」

『調査結果を報告する。心して聞け。カイの旦那の言う通り、あんたの力なら、言葉だけでなく、私が見た"景色"も、朧げながら感じ取れるはずだ』


 フクロウの声と共に、私の脳裏に、言葉だけではない、鮮明なイメージが流れ込んできた。それは、まるで他人の夢を覗き見ているかのような、不思議な感覚だった。


 ――雪を頂いた、険しい北の山脈。その中腹に、まるで巨大な獣が牙を剥くように、一つの古い要塞がそびえ立っている。壁も、塔も、すべてが黒い岩でできており、見る者を威圧するような、重苦しい空気を放っていた。

『あんたの父親、クラウゼル公爵閣下が幽閉されているのは、あそこだ。旧時代の要塞、通称**『黒岩の砦』**』


 ――砦の周囲には、高い城壁と、いくつかの見張り塔。唯一の門は、固く閉ざされている。城壁の上を、アネット妃の紋章をつけた兵士たちが、規則正しく巡回していた。その数、およそ五十。皆、精鋭のようだった。

『警備は、グレイヴス将軍の配下の中でも、特にアネット妃に心酔している連中で固められている。指揮官の名は、ルドルフ大尉。実直だが、融通の利かない石頭だ。アネット妃を「国を救う聖女」だと、本気で信じ込んでいるらしい』


 ――砦の最も高い塔。その最上階の、窓に鉄格子がはめられた一室。そこに、一人の初老の男性が、静かに座っていた。やつれてはいるが、その瞳の光は、決して失われていない。私の父、クラウゼル公爵その人だった。

『閣下の命に別状はない。だが、衰弱しているご様子だ。あまり時間はないと見た方がいい』


 次々と流れ込んでくる情報。言葉と映像が一体となって、私に、父の置かれた絶望的な状況を伝えてくる。

 そして最後に、フクロウは、一つの希望を付け加えた。


『……だが、抜け道は、ある。砦の真下には、旧時代のものと思われる、古い地下水路が走っている。今は入り口が岩で塞がれているがな。そして、麓の村に、腕利きの元猟師がいる。名はゴードン。若い頃、閣下に命を救われた恩があり、今でも密かに忠誠を誓っている男だ。彼なら、その水路の場所を知っているやもしれん。……報告は、以上だ』


 そこで、フクロウからの念話は、すっと途絶えた。

 イヤリングの光も、元の微かな輝きに戻っている。


 店の中には、重い沈黙が落ちていた。私が見た光景は、カイさんたちには見えていない。私は、深呼吸を一つすると、フクロウから得た全ての情報を、皆に正確に伝えた。


「黒岩の砦……。厄介な場所に、囚われたものだ」


 ダミアンが、悔しそうに唸る。元近衛兵である彼も、その砦が難攻不落として知られていることを知っているのだろう。


 カイさんは、店の奥から、一枚の、羊皮紙に描かれた古い軍事用地図を広げた。そこには、北の山脈と、黒岩の砦の位置が、詳細に記されていた。私たちは、その地図を囲み、顔を突き合わせる。二度目の、そして、より具体的な作戦会議の始まりだった。


「ルドルフ大尉は、私がまだ騎士団にいた頃の、先輩でした」と、ダミアンが口を開いた。「彼は、良くも悪くも、規律と命令を絶対とする男。一度信じた正義を、疑うことを知りません。アネット妃に心酔しているとなれば、説得は不可能でしょう。ですが、逆に言えば、彼のその性格は、我々にとっての隙にもなり得ます。警備の交代時間や、巡回のルートは、寸分の狂いもなく、毎日同じはずです」


「ふん、だが、正面から行くのは、どう考えたって馬鹿のやることだ」と、リヒトが地図を覗き込みながら言った。「その"地下水路"ってのを使うしか、道はねえだろ」


 リヒトの言う通りだ。問題は、どうやって、その地下水路の入り口を見つけ出し、潜入するか。


「……私が行きます」


 皆の視線が、私に集まった。


「私が、麓の村へ行き、ゴードンという元猟師の方に会います。そして、協力を取り付ける。父の娘である私が、直接、誠意を尽くしてお願いすれば、きっと、彼は力を貸してくれるはずです。私のこの力で、彼の心に、私たちの真実を伝えることができれば……」


 私の申し出に、カイさんは、黙って私の目を見つめていた。そして、やがて、静かに頷いた。彼は、私の成長と、その決意を、信じてくれている。


 カイさんは、私たちの意見を一つ一つ拾い上げると、地図の上に指を滑らせながら、作戦の骨子を組み立てていった。


「――まず、私とリリアーナさんが、身分を隠して麓の村へ向かいます。リヒトも同行を。ダミアンは、ここで待機し、万が一の際の連絡役と、店の守りをお願いします」

「――次に、リリアーナさんが、元猟師のゴードンと接触。彼から、地下水路の情報を引き出し、協力を得る。これが、この作戦の最大の鍵です」

「――そして、ゴードンの案内で地下水路の入り口から砦に潜入し、父上を救出する」


 そこまで言うと、カイさんは、ふっと顔を上げた。


「……潜入には、特別な道具が必要になるでしょう」


 彼はそう言って、工房の奥へと姿を消した。そして、戻ってきた彼の手には、一枚の、古びたマントが握られていた。それは、一見するとただの黒い布切れだが、よく見ると、闇そのものを織り込んだかのように、光を全く反射していなかった。


「これは**『月影のマント』**。羽織れば、月の光がない場所――つまり、影や闇の中では、完全にその姿を消すことができる道具です。音も、匂いも、気配さえも。地下水路のような、光のない場所を進むには、これ以上ないほど、有効なはずです」


 カイさんは、そのマントを、私の肩に、そっとかけた。

 マントは、驚くほど軽く、まるで私の体に吸い付くように、ぴったりと馴染んだ。


 作戦の骨子は、固まった。

 やるべきことは、あまりにも多く、そして危険だ。

 けれど、もう、私たちの心に迷いはなかった。


 私は、新たな力を与えてくれたマントの感触を確かめながら、窓の外に広がる、遥か北の空を見つめた。

 その空の向こう側に、囚われている父の姿を想う。


「父上……」


 私の唇から、決意のこもった、しかしどこまでも温かい囁きが、静かに漏れた。


「もうすぐ、迎えに行きますから」


 その声は、夜の闇に溶けていく。

 だが、それは、これから始まる、長い夜の終わりを告げる、最初の狼煙でもあった。

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