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第十五話:心の羅針盤と仲間たちの温もり

 北からの本格的な連絡を待つ日々は、静かな緊張感の中で過ぎていった。

 日課となったカイさんとの訓練は、日に日にその深度を増していく。私は、物の記憶の中から特定の情報を「選別」する力を、少しずつ、しかし確実に自分のものにしつつあった。


 その日、カイさんが新たな訓練の題材として持ってきたのは、一振りの、飾り気のない短剣だった。


「これは、かつて王宮の密偵が使っていたものです。この短剣には、多くの秘密が眠っている。今日の課題は、この短剣が"最後に聞いた密談の内容"を、正確に読み解くことです」


 私は、深呼吸をして、短剣の柄を握った。

 意識を集中させると、すぐに情報の奔流が流れ込んでくる。薄暗い廊下、息を殺す緊張感、誰かの囁き声、そして、時折交わされる、金の入った袋の重み。


 以前の私なら、この混沌とした記憶の渦に呑まれていただろう。だが、今の私は違う。私は、記憶の嵐の中心に、静かな一点を見出すことができる。


(最後に聞いた、密談の内容……)


 その一点に意識を集中させると、周りの雑音がすっと消え、一つの鮮明な光景だけが、私の脳裏に浮かび上がった。


 ――王城の一室。二人の貴族が、声を潜めて話している。

『……ヴァルガス様の命令だ。近々、東の穀倉地帯へ向かう輸送隊の荷を、山賊に扮して襲撃させろ、と』

『しかし、それでは民が……』

『案ずるな。全ては、アネット妃殿下のご意向だ。わざと凶作と盗賊の被害を広げ、民の不安を煽る。そして、それを鎮圧する"英雄"として、グレイヴス将軍を祭り上げる。全ては、将軍を、そして騎士団を、完全に掌握するための布石よ』

『……なんと、恐ろしいことを』


 私は、はっと目を開けた。

 ヴァルガス侯爵と、グレイヴス将軍。ダミアンから聞いた、アネットの手足となっている二人の名前だ。彼らは、自作自演の悲劇で、民を欺き、騎士団を掌握しようとしている。


「……カイさん。聞こえました。ヴァルガス侯爵が、東の穀倉地帯を……」


 私が読み取った内容を話すと、カイさんは、私の成長を確かめるように、静かに頷いた。

 訓練の成果は、着実に現れていた。だが、その一方で、私の心は、知れば知るほど重くなっていく王都の闇に、少しずつ疲弊し始めていた。


 その日の午後、私は一人、店のテラスでぼんやりと空を眺めていた。

 次々と明らかになるアネットたちの悪行。私の決意は揺らいでいない。だが、あまりにも巨大な敵を前に、本当に道はあるのだろうか。そんな弱気が、ふと、心をよぎる。


「おい、リリアーナ。難しい顔してんじゃねえよ」


 不意に、隣から声がした。見ると、リヒトが、近くのテーブルの上でふんぞり返っている。


「悩みがあるなら、このティーカップ様が聞いてやるぜ。まあ、お前が淹れる紅茶を一杯、ご馳走してくれるってんならな」

「……リヒト」


 彼の不器用な優しさに、思わず笑みがこぼれる。私は、彼のために、キッチンで一番良い茶葉を使って、一杯の紅茶を淹れてあげた。


「……私、少し、怖くなっているのかもしれないわ」


 湯気の向こう側で、私は、ぽつりと、自分の弱さを吐露した。


「知れば知るほど、アネット妃のやっていることは、私の想像を超えていた。あまりにも、根が深くて、邪悪で……。私のこの小さな力が、本当に届くのかしらって」


 それは、誰にも見せたことのない、私の本音だった。

 リヒトは、黙って私の話を聞いていた。そして、私が話し終えると、ふん、と鼻を鳴らした。


「当たり前だろ。怖くねえわけがねえ。たった一人で国と戦おうなんてな。頭のネジが数本飛んでなきゃ、できねえ相談だ」

「ひどいわね、あなたって子は」

「だがな、リリアーナ」


 リヒトの声が、少しだけ、真剣な響きを帯びる。


「お前は、一人じゃねえだろ」


 彼の言葉に、私は、はっとした。


「ここには、カイの旦那もいる。俺様もいる。あのくそ真面目な騎士の兄ちゃんもいる。お前が『助けたい』って言えば、文句を言いながら手伝ってくれる、おかしな道具たちだっている。それに……」


 リヒトは、北の空の方を、ちらりと見た。


「お前が信じて放った矢は、今も、空を飛んでるはずだ。それを信じなくて、どうするんだよ」


 リヒトの、ストレートな言葉が、私の心の迷いを、すっきりと洗い流してくれた。

 そうだ。私は、一人ではない。

 この店に来てから、私は、たくさんの温かい心に支えられてきたのだ。


「……ありがとう、リヒト。あなたに言われると、なんだか、すごく元気が出るわ」

「ふ、ふん! 僕にかかれば、こんなものよ!」


 照れ隠しのようにそう言う彼の姿が、とても頼もしく見えた。


 その夜、私は、自分の部屋で、改めて『伝書鳥のイヤリング』の片割れを、そっと手に取った。

 フクロウからの、次の連絡はまだない。

 けれど、もう焦りも、不安もなかった。


 私は、イヤリングに、静かに語りかける。それは、報告を催促する言葉ではなかった。


(……北で、私たちのために動いてくれている、名も知らぬあなたへ。私たちは、大丈夫です。あなたからの吉報を、仲間たちと、心を一つにして待っています。どうか、あなたの道行きにも、星の導きがありますように)


 私の祈りに応えるかのように、イヤリングが、一度だけ、温かな光を返してくれた気がした。


 私は、もう、進むべき道に迷わない。

 私の心の羅針盤は、決してぶれることのない仲間たちへの信頼という、確かな北を指し示しているのだから。


 窓の外では、月が、雲間から顔を出していた。

 それは、偽りの月ではない。静かに、しかし力強く、闇夜を照らす、本物の月の光。


 その優しい光に見守られながら、私は、仲間たちの温もりを胸に、静かに、次の朝を待つのだった。

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