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第十一話:嵐の後の作戦会議

 あれほど荒れ狂っていた嵐は、夜明け前には嘘のように過ぎ去っていた。

 空は洗い流されたように澄み渡り、濡れた木々の葉が、昇り始めたばかりの朝日に照らされて、宝石のようにきらきらと輝いている。店の窓から見える景色は、昨日までと何も変わらない、穏やかな森の朝だ。けれど、私の中で、そしてこの店の中を流れる空気は、もう決して昨日までと同じではなかった。


 私は、自室のベッドで目を覚ました。昨夜は、決意を固めてから、不思議と一度も目を覚ますことなく、深く眠ることができた。悪夢は見なかった。過去に苛まれるのではなく、未来を見据えなければならない。その覚悟が、私から恐怖を遠ざけてくれていたのかもしれない。


 身支度を整えて階下へ降りると、カイさんが一人、静かに床を拭いていた。嵐で吹き込んだ雨水を、丁寧に拭き取っているようだった。私の気配に気づくと、彼は顔を上げて、静かに「おはようございます」とだけ言った。その瞳は、いつも以上に深く、そして力強い。私たちの間には、もう言葉は必要なかった。同じ決意を、静かに共有しているのが分かった。


 カウンターの上では、リヒトが腕組み(?)をするように、取っ手をこちらに向けて鎮座している。彼もまた、昨夜の出来事を反芻しているのか、いつものような軽口は叩いてこなかった。


 店の奥の客間に寝かせている、近衛兵の男の様子を見に行く。彼の名はダミアンといい、幸い命に別状はなさそうだった。私が持ってきた温かい薬草のスープを、彼は震える手で、しかし力強く飲み干した。


「……申し訳ありません、リリアーナ様。追放された貴方様を、頼るなど……」

「いいえ、気になさらないで。今は、傷を癒すことだけを考えてください。ダミアン、貴方が命がけで運んでくれた情報は、決して無駄にはしません」


 私の真っ直ぐな視線に、ダミアンは息を呑み、そして、彼の瞳に、かすかな希望の光が宿った。


 朝食を済ませ、私たちは店の大きなテーブルを囲んだ。私、カイさん、私の肩に乗ったリヒト、そして、壁に寄りかかるようにして、かろうじて上体を起こしたダミアン。

『月影の道具店』で開かれた、最初の、そして最も重要な作戦会議だった。


 口火を切ったのは、私だった。かつてのように、誰かの指示を待つのではなく、自ら。


「まず、私たちの現状を整理しましょう。感情的に動いても、何も成し遂げることはできません」


 私は、テーブルの上に一枚の羊皮紙を広げた。


「第一に、情報が圧倒的に足りません。ダミアンの話は貴重ですが、それはあくまで彼が見聞きした断片。王都全体の正確な状況、アネット妃の具体的な動き、味方になりうる貴族たちの動向……知らなければならないことは、山ほどあります」


「第二に、戦力。今の私たちには、アネット妃に対抗できるような力は何もありません。信頼でき、共に戦ってくれる仲間が必要です」


「そして第三に、資金と物資。これから何か行動を起こすにしても、活動するための元手がなければ、何も始められません」


 情報、戦力、資金。何もかもが、ゼロ。いや、マイナスからのスタートだ。並べ立てられた絶望的な現実に、テーブルには重い沈黙が流れた。


 その沈黙を破ったのも、また私だった。


「ですが、希望がないわけではありません」


 私は、羊皮紙の上に、一つの名前を記した。私の父の名前だ。


「まず、私たちが為すべきことは、一つです。政敵の罠にはまり、北の辺境地に追いやられている私の父、クラウゼル公爵を救出すること。それが、全ての始まりになります」


 私の言葉に、ダミアンがはっとしたように顔を上げた。


「父は、不正を嫌い、誰よりも国のこと、民のことを考えてきた人間です。その父を慕う者は、貴族の中にも、騎士団の中にも、まだ数多くいるはず。父を救い出し、私たちの旗印とすることができれば、バラバラになった味方を、一つに束ねることができるかもしれません」


「……その通りです、リリアーナ様」と、ダミアンが力強く同意した。「クラウゼル公爵閣下が生きておられると知れば、今の王都の惨状に心を痛めている者たちは、必ずや立ち上がるでしょう。閣下は、それほどの人望をお持ちです」


「だが、問題はどうやってそれを実行するかだ」と、リヒトが冷静に指摘する。「北の辺境っつっても、だだっ広い。どこにいるかも分からねえし、周りはアネットの息がかかった連中が見張ってるんだろ?」


 リヒトの言う通りだった。目標は定まったが、それを達成するための具体的な手段がない。

 そこで、これまで黙って話を聞いていたカイさんが、静かに口を開いた。


「……素晴らしい第一歩です、リリアーナさん。貴女の言う通り、クラウゼル公爵の救出こそが、現状を打破するための、最も的確な一手でしょう」


 彼は、私の戦略的な思考を評価するように頷くと、ゆっくりと立ち上がった。


「そして、リヒトの懸念ももっともです。通常の手段で、公爵と接触するのは不可能に近い。……ですが」


 カイさんは、店の奥にある彼自身の工房へと歩いていく。そして、小さな桐の箱を手に、戻ってきた。


「私には、私のやり方があります。私には……古い『知人』が、各地に点在していますので」


 彼はそう言うと、桐の箱を開けた。中には、ビロードの布の上に、一対の、鳥の羽をかたどった銀のイヤリングが収められていた。それは、ただの装身具ではなかった。微かな魔力を帯び、まるで生きているかのように、かすかな光を放っている。


「これは、『伝書鳥のイヤリング』。呪われた道具、というよりは、便利な魔法道具の類ですがね」


 カイさんは、その片方を手に取った。


「このイヤリングは、常に対になっています。片方のイヤリングを身につけた者が、もう片方の持ち主を強く念じながら囁くと、その声は、どれほど離れていても、相手の耳にだけ届く。最も安全で、誰にも傍受されることのない、通信手段です」


 その驚くべき能力に、私たちは息を呑んだ。


「北の辺境に近い街に、私の『知人』がいます。腕利きの情報屋です。まずは、このイヤリングの片方を、彼に届ける必要があります。彼に渡すことさえできれば、公爵の正確な居場所や、周辺の警備状況、そして、公爵派の残党たちの情報を、我々は手に入れることができるでしょう」


 カイさんの言葉は、暗闇の中に差し込んだ、一筋の光だった。絶望的な状況を打開するための、具体的で、確実な道筋が、目の前に示されたのだ。


「カイさん……」

「貴女が決意したのですから、私も、腹を括らねばなりません。私の持つ全てを、貴女の戦いのために使いましょう」


 カイさんは、イヤリングの片方を、そっと私の手に乗せた。ひんやりとした金属の感触。それは、反撃の狼煙の重みだった。


 偽りの王妃から国を取り戻す。

 その途方もない計画の、最初の、しかし最も重要な任務。

 それは、この小さなイヤリングを、北の情報屋の元へ届けること。


 私は、銀のイヤリングを強く握りしめた。その瞳には、もはや迷いはない。ただ、為すべきことを見据える、静かで、燃えるような決意の光だけが宿っていた。


 私たちの本当の戦いが、この森の奥の小さな道具店から、今、密かに始まろうとしていた。

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