第十話:王都からの逃亡者と星詠みの警告
あのお茶会から、季節は初夏へと移り変わろうとしていた。
店の周りの木々は生命力に満ちた深い緑色に染まり、日中の陽射しは日に日に強さを増していく。そんなある日の夜、私たちは、これまで経験したことのないほどの、激しい嵐に見舞われていた。
窓ガラスを叩きつける暴風雨の音。空を引き裂く稲光と、少し遅れて腹の底まで響き渡る雷鳴。店の外の世界は、まるで怒り狂う神々が戦でも繰り広げているかのようだった。
「ひいっ! 今の、近くに落ちなかったか!?」
雷が鳴るたびに、リヒトが私の肩の上で小さな悲鳴を上げる。そんな彼を「大丈夫よ」と宥めながら、私はカイさんと共に、嵐で傷んだ道具がいないか、店の中を見回っていた。
「カイさん、この『雨乞いの壺』が、少し泣いているようです」
「ああ、外の嵐に感応しているんですね。彼が本気で泣き出すと、この辺り一帯が水没しかねない。あとで鎮静効果のあるハーブを焚いておきましょう」
そんな会話を交わしていた、まさにその時だった。
嵐の轟音に混じって、店の重い扉を、誰かが、どんどんと、必死に叩く音が聞こえたのは。
私とカイさんは、顔を見合わせた。こんな嵐の夜に、一体誰が?
カイさんの目が、すっと呪具師のそれへと変わる。彼は私に「下がっていてください」と目配せすると、静かに扉へと近づいた。
「……どなたですかな」
カイさんの問いかけに、扉の向こう側から、雨と風に混じって、男の必死な、途切れ途切れの声が聞こえてきた。
「頼む……! 開けてくれ……! 追われているんだ……! こ、この先の村へ、伝えなければ……!」
その声には、尋常ではない切迫感がこもっていた。カイさんは一瞬逡巡したが、やがて意を決したように、重い閂を外した。
扉が開くと同時に、凄まじい風雨が店の中へと吹き込んできた。そして、一人の男が、まるで転がり込むようにして、床に倒れ込んだ。
男は、全身ずぶ濡れで、泥と、そして血に汚れていた。その身に纏っているのは、ぼろぼろに引き裂かれてはいるが、紛れもない、王都の近衛兵が着る深紅の制服だった。
「近衛兵……!?」
「リリアーナさん、医療箱を。それから、温かいお湯と布を多めに」
カイさんの冷静な指示に、私ははっと我に返り、すぐさま準備に取り掛かった。男の体は冷え切り、肩には矢が掠めたような、深い傷を負っている。意識は朦朧としており、何かを必死に伝えようと、意味をなさない言葉を喘ぐように繰り返していた。
私たちが懸命に手当てをすると、男はしばらくして、かろうじて意識を取り戻した。温かいハーブティーで喉を潤した彼は、震える声で、信じがたい王都の惨状を語り始めた。
「私は……王都から、逃げてきた……。もう、あの国は終わりだ……」
彼の話によると、私が追放された後、正式に王太子妃となったアネットは、その権力を我が物顔で振りかざし、贅沢の限りを尽くしているという。民から重税を搾り取り、夜ごと豪華な舞踏会を開き、逆らう貴族は次々と無実の罪で投獄・処刑。クロード王太子は、そんな彼女に完全に心酔しきっており、意のままに操られているらしかった。
「それだけではない……。今年の春から、王都では奇妙なことが続いている。何日も太陽が昇らず、灰色の霧が都を覆ったかと思えば、今度は何週間も雨が一滴も降らず、畑は干上がってしまった。原因不明の凶作で、民は飢えている。それなのに、王妃は『パンがなければ、お菓子を食べればいい』と、本気でそう言い放ったのだ……!」
男の言葉に、私は息を呑んだ。私が知る、豊かで美しかった王都の姿は、そこにはなかった。民を愛し、国の安寧を誰よりも願っていた国王夫妻は、いったいどうしてしまったというのだろう。
「国王陛下と王妃陛下は、半年ほど前から重い病に倒れ、今は離宮で療養されていると……。だが、それも本当かどうか。我々兵士でさえ、お二人の姿を全く見ていない。全ての権力は、今やアネット妃の手中にある」
男は、悔しそうに拳を握りしめた。
「私は……アネット妃が、隣国の密偵と密会している現場を、偶然見てしまった。問い詰めようとしたが、口封じのために命を狙われ……命からがら、ここまで……。この先の村々に、王都の惨状を、アネット妃の裏切りを、伝えなければ……民が、決起しなければ、もう国は……!」
彼の絶望的な言葉が、店の静寂に重く響き渡る。
私のせいで。私が、アネットの邪悪さを見抜けず、無力に追放されたせいで、国が、民が、こんなにも苦しんでいる。私の中で、悲しみと、申し訳なさと、そしてこれまで感じたことのないほどの、冷たい怒りが、静かに燃え上がり始めていた。
その時だった。
店の奥、カイさんでさえ滅多に立ち入らない、最も古い道具たちが眠る一角から、ゴトン、と何かが落ちるような、重い音が響いたのは。
「なんだ!?」
カイさんと私が同時にそちらを向く。そこには、埃を被った無数の品々が、ただ静かに眠っているはずだった。
カイさんは、警戒しながら、ランプを片手にその一角へと足を踏み入れた。私も、その後ろに続く。
そして、私たちは、信じられない光景を目の当たりにした。
書庫の最も高い棚の上に、まるで店の主のように鎮座していた、一冊の巨大な古書。革の表紙はひび割れ、金の装飾も黒ずんだその本は、少なくとも私がこの店に来てから、一度も動いたことを見たことがなかった。
その**『星詠みの古書』**と呼ばれる本が、ひとりでに棚から滑り落ち、分厚い音を立てて床に転がっていたのだ。
そして。
永い間、固く閉じられていたはずのそのページが、まるで誰かが見えざる手で開いたかのように、開かれていた。
開かれたページの中央には、たった一節だけ、奇妙な古代文字が記されていた。その文字が、まるで呼吸をするかのように、淡い、銀色の光を放っている。
「……読めるのか、カイさん?」
リヒトが、息を呑んで尋ねた。
カイさんは、その光る文字を、厳しい表情で見つめていた。やがて、彼は、絞り出すような声で、そこに書かれた予言を読み上げた。
「……『偽りの月が玉座に座る時、国は癒えぬ病に蝕まれる』……そう、書かれています」
偽りの月が、玉座に座る時。
その言葉が、雷鳴となって私の頭を撃ち抜いた。
私の名前、リリアーナは、古い言葉で「清らかな月」を意味する。母が、そうあってほしいと願ってつけてくれた名前だ。そして、王妃とは、国王という太陽の隣で、国を優しく照らす月のことだと、教えられてきた。
偽りの月――それは、アネットのことだ。彼女が、王太子妃として、事実上の玉座に座った時から、国は、病に蝕まれ始めた。近衛兵の話と、この古書の予言が、恐ろしいほどに一致している。
これは、ただの偶然ではない。私の追放は、私個人の不幸では終わらず、この国そのものの、大きな災厄の始まりだったのだ。
私が、こんなところで、過去を乗り越えたと安堵している間に、私の愛した国と民が、偽りの月に食い物にされている。
その事実が、私の中で燃え始めた怒りの炎に、油を注いだ。
悲しみは、もうない。後悔もない。
あるのは、ただ一つ。
アネットの好きにはさせない。民を苦しめるあの女を、国の未来を担うべき玉座に、これ以上、座らせてはおかない。
私は、顔を上げた。私の瞳に宿る光の色が変わったのを、カイさんは、きっと見抜いたはずだ。
「カイさん」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たく、そして固い決意に満ちていた。
「私は、もう黙って見ていることはできません」
嵐の音に負けない、はっきりとした声で、私は言った。
「私が、この国の本当の月でなければならないのなら……偽りの月を、その座から引きずり下ろすまでです」
それは、元公爵令嬢リリアーナ・フォン・クラウゼルが、自らの運命と、国の未来を取り戻すための戦いを、静かに決意した瞬間だった。
外では、まるで私の決意に応えるかのように、ひときわ大きな雷鳴が、夜の闇を切り裂いていた。




