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第九話:午後の陽だまりと、お茶会の約束

エミリーの小さな冒険が幕を閉じてから、数週間が過ぎた。『月影の道具店』には、まるで全ての出来事が夢だったかのように、穏やかで静かな時間が流れていた。私は、すっかりこの店の日常に溶け込んでいた。朝はルクスに挨拶をして身支度を整え、カイさんやリヒトと共に朝食をとり、日中はヘンリーやゾーキンたちと賑やかに店の掃除をする。午後は、カイさんから呪いや魔法に関する初歩的な手解きを受けたり、カウンターでハーブの選別を手伝ったりする。


追放された当初に夢見た「穏やかな暮らし」が、今、確かにここにあった。豪華なドレスも、贅沢な食事も、傅いてくれる侍女もいない。けれど、私の心は、王宮にいた頃よりも遥かに満たされていた。


そんなある日の午後だった。

いつものように、カイさんは「月に一度の仕入れに」と言って、少し離れた街へと出かけていた。私がカウンターで、古書のページに挟まっていた押し花をしおりにする作業をしていると、店の扉がからん、と音を立てて開いた。


「おかえりなさい、カイさん」

「ええ、ただいま戻りました」


帰ってきたカイさんは、いつもより少しだけ、その表情が柔らかいように見えた。彼は大きな革袋を床に置くと、「リリアーナさん、少し」と私を手招きした。


「貴女に、見せたいものがある」


そう言って彼がカウンターの上に置いたのは、二つの、丁寧な装飾が施された包みだった。

一つは、夜空の色を模した深い藍色の紙で包まれ、銀の箔が押された美しい箱。蓋を開けると、ふわりと天上のものとしか思えないような、甘く、かぐわしい香りが立ち上った。中に入っていたのは、銀色にきらめく、産毛のようなものに覆われた茶葉だった。


「これは……! 王都の貴族御用達の、『月のルナ・ティアー』……! なぜ、こんなものがここに?」


それは、月の光を浴びて育つという伝説の茶の木から、新月の夜にしか摘むことができないとされる幻の紅茶。王宮にいた頃でさえ、特別な祝宴の時にしか口にすることができなかった、最高級品だ。


私の驚きをよそに、カイさんはもう一つの包みを開く。そちらは、街で一番と評判のパティスリー『木の実のおとぎ話』の焼き印が押された箱だった。中には、黄金色に輝くバターガレット、宝石のような砂糖漬けが散りばめられたタルトレット、木の実がぎっしりと詰まった香ばしいフロランタンが、行儀よく並んでいる。


「カイさん、これは一体……?」


あまりに突然の贈り物に、私が戸惑っていると、カイさんは少しだけ視線を逸らし、ぽつりと呟いた。


「……貴女への、労いです」

「え……?」

「ルクスの一件も、先日のエミリーさんの一件も、貴女はよくやった。店のために、誰かのために、貴女自身の力で困難に立ち向かった。だから……その、たまには、こういうのもいいでしょう」


少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな言葉で、カイさんはそう言ってくれたのだ。彼が、私のこれまでの働きを認め、感謝してくれている。その事実が、じわりと胸に広がり、私の心を温かく満たした。


「ありがとうございます……! カイさん……!」


感動で胸がいっぱいになる私を前に、カイさんは「さあ、淹れてみてください。貴女なら、この茶葉の価値を最大限に引き出せるでしょう」と、静かに微笑んだ。


最高級の茶葉と、街一番のお菓子。その二つを前に、私の心の中で、何かがきらりと輝いた。それは、公爵令嬢として、妃教育の一環で叩き込まれた、お茶会ソワレに対する情熱と知識の光だった。


「カイさん!」


私は、思わず声を弾ませた。


「こんなに素敵なものを、ただ淹れて飲むだけでは、あまりにもったいないですわ! 茶葉の神様に、そしてこのお菓子を作った職人さんに、失礼というものです!」

「……ほう?」


私のただならぬ気迫に、カイさんが興味深そうに眉を上げる。


「もし、よろしければ……明日の午後、このお店で、本格的なお茶会を開きませんか? 私が、責任をもって、人生で一番美味しい紅茶を、皆様にご馳走いたします!」


私の瞳は、きっと、どんな宝石よりも輝いていたに違いない。かつて、政治的な意味合いや、退屈な義務感の中で開いてきたお茶会とは違う。大切な仲間たちと、最高の時間を分かち合うための、心からのお茶会。その提案に、私の全身が喜びに打ち震えていた。


「けっ、面倒くせえ。紅茶なんて、僕に淹れりゃ、泥水だって極上の味になるってのによ」


カウンターの上で話を聞いていたリヒトが、いつものように憎まれ口を叩く。


「あら、リヒト。あなたにこそ、本物の紅茶の味を教えて差し上げたいわ。明日は、あなたを主賓としてお招きします。世界一のティーカップに、世界一の紅茶を注ぐ。素敵だと思わない?」

「なっ……! ぼ、僕を主賓に……!? ま、まあ、僕を主役にするというなら、その面倒な催しに参加してやらないこともないがな!」


リヒトは、まんざらでもない様子でそっぽを向いた。その姿に、私はくすりと笑う。


カイさんは、そんな私とリヒトのやり取りを、実に楽しそうに眺めていた。


「いいでしょう。そこまで言うのなら、お任せしますよ、リリアーナ嬢。貴女の腕前、見せていただきましょうか」


こうして、次の日の午後、『月影の道具店』史上初となる、本格的なお茶会が開かれることが決まったのだった。



翌日、店は「本日、お茶会のため休業」という札を下げ、朝から準備に取り掛かった。


「さて、まずは食器選びからね!」


私は腕まくりをすると、店の奥にある、大きな食器棚へと向かった。そこには、普段使いの道具たちとは別に、カイさんが客をもてなすために集めた、美しい食器たちが眠っている。もちろん、彼らもまた、意思を持つ「呪われた道具」の一員だ。


私が扉を開けると、中から様々な声が飛び出してきた。


『あら、リリアーナさんじゃありませんか。今日は、わたくしたちにお目通りを?』


気位の高そうな貴婦人の声。声の主は、銀細工の美しい曲線が特徴の、優美なティーポットだった。彼女は、かつて王宮で使われていたが、淹れる紅茶の味が気に入らないと、中身を全てこぼしてしまうという「呪い」のせいで、ここにやってきたらしい。


『僕の出番!? やったあ!』


子供のような元気な声は、ころんとした形のシュガーポットからだ。彼は、角砂糖をつまみ食いしては、中に補充してしまうという、可愛らしい呪いを持っている。


『皆様が、温かい気持ちになれますように……』


穏やかな声は、柔らかな乳白色のミルクピッチャーからだった。


私は、そんな彼ら一人一人に、丁寧に話しかけた。

「ええ、ティーポット夫人。今日は、あなたのその美しい姿に、最高の紅茶を注がせてもらいたいの。あなたの力を貸してくれるかしら?」

『まあ、お上手ですこと! そこまで言われては、協力しないわけにはいきませんわね!』

「ありがとう。シュガーポット坊や、今日はつまみ食いは我慢してね? ミルクピッチャーさんも、よろしくお願いします」


私が柔らかい布で優しく磨き上げると、食器たちは心地よさそうに、きらきらと輝きを増していく。彼らとの対話は、もうすっかり慣れたものだ。


食器の準備を終えると、今度はテーブルセッティングだ。カイさんも、私の指示に従って、甲斐甲斐しく手伝ってくれる。


「カイさん、テーブルクロスをお願いできますか? 確か、一番下の引き出しに……」

「これか?」


カイさんが取り出したのは、美しい刺繍が施された、上質なリネンのテーブルクロスだった。彼がそれを広げると、布は意思を持ったかのように、自らテーブルの上にふわりと広がり、しわ一つない完璧な状態で収まった。


『ふぉっふぉっふぉ。儂の出番は久しぶりじゃのう。儂が広げられし時、そこは食卓という名の舞台となる。さあ、役者は揃ったかな?』


物知りな老人のような、威厳のある声だった。


その後も、カイさんが庭から摘んできた野の花を、小さな一輪挿し(少し気取り屋で、自分より美しい花しか活けたくないと主張する子だった)に活けたり、お菓子を並べるための銀の皿(自分の上に乗るお菓子に点数をつけるのが趣味)を説得したりと、準備は賑やかに、そして楽しく進んでいった。


そして、いよいよ紅茶を淹れる時間。

私は、完璧な手順で湯を沸かし、ティーポット夫人を温め、そして『月の涙』の茶葉を、そっと中へと滑らせた。茶葉が開くのを待つ、数分間の静寂。それは、まるで神聖な儀式のようだった。やがて、ティーポット夫人の中から、かぐわしい香りが立ち上り始める。今だ。


私は、宝石のような琥珀色に輝く液体を、並んだティーカップたちに、一滴もこぼさぬよう、丁寧の注いでいく。もちろん、主賓であるリヒトのカップには、一番最初に。


王宮で学んだ全ての知識と技術。かつては、ただの「義務」であり、退屈な作法の繰り返しでしかなかった。だが今は違う。大切な仲間たちに、最高の瞬間を味わってほしい。その一心で、私の手は、かつてないほどの精度と愛情をもって動いていた。


やがて、テーブルの上には、美しいティーセットと、宝石箱のようにきらめくお菓子、そして、湯気の向こうに幸せの景色が透けて見えるかのような、極上の紅茶が並んだ。


「さあ、皆様。準備が整いましたわ。『月影の道具店』の、ささやかなお茶会の始まりです」


私の言葉に、そこにいた全員(と、全道具)から、わあ、と歓声が上がった。

カイさんも、リヒトも、ルクスも、ヘンリーたちも、皆がテーブルを囲んでいる。小さな道具たちは、クッションを重ねた椅子の上によじ登って、一生懸命テーブルの上を覗き込んでいた。


一口、紅茶を飲む。その瞬間、誰もが言葉を失った。花の蜜のような甘さと、森の夜気のような清涼感が、完璧な調和をもって口の中に広がる。


「……これは……」


カイさんが、感嘆の息を漏らした。


「今まで飲んだ、どんな紅茶よりも美味い」


その素直な言葉が、私にとっては何よりの褒美だった。

リヒトも、「ふ、ふん! 僕という器に淹れたから、100倍は美味しくなってるはずだ! まあ、淹れ方自体も、悪くはなかったがな!」と、最高の賛辞を彼なりの言葉で贈ってくれた。


賑やかで、他愛のない会話。美味しい紅茶と、甘いお菓子。そして、そこにいる全員の、心からの笑顔。

王宮の、豪華だが、どこか張り詰めた空気の中で行われたお茶会とは、全く違う。不格Cっjかもしれない。作法通りではないかもしれない。けれど、ここには、嘘偽りのない、陽だまりのような温かさがあった。


私は、この光景を、この時間を、胸に深く刻みつけた。


「……幸せって、こういう時間のことなのね」


ぽつりと、私の口から言葉が漏れた。

その言葉に、カイさんが、静かに、そして優しく頷く。

リヒトが、「当たり前だろ! この僕がいるんだからな!」と、テーブルの上でふんぞり返る。


窓から差し込む午後の光が、私たちを、そして愛おしい道具たちを、分け隔てなく、優しく包み込んでいた。


これから先に、何が起ころうとも。

この温かな記憶があれば、私はきっと、どんな困難にも立ち向かっていけるだろう。

嵐の前の、あまりにも穏やかで、かけがえのない静かな午後が、ゆっくりと過ぎていく。私の新しい人生の、確かな一ページが、またこうして、幸せなインクで綴られていった。

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