よく分からん日本の仏教の在り方 ―― 無宗教人間から見た不可解さ
戯言として聞き流してくれてOK。
仏教が何たるかなんて、分かっちゃいないからね、筆者は。
実によく分からん。
無宗教の人間から見れば、この国の仏教・寺は矛盾に満ちている。
昨日、何年か前に亡くなった叔父の墓の納骨に立ち会った。
叔父も無宗教だったので、親族も宗派は考えず、適当な近場の寺へ。
お経を読んで、焼香フィニッシュ。
時間にすれば、何分だったか。
葬式をする。
四十九日をする。
四十九日は、死後七日ごとに裁きを受け、四十九日後に「転生先」が決まるという中陰と呼ばれる期間。大人になり、色んな葬式に参加してみると分かるわけだが、告別式の当日にショートカットして初七日まで行う葬儀もけっこうある。
まあ、なんだって良いんだが「四十九日という儀式」が済めば、そこで死者の魂は「転生手続き完了」という塩梅となる。―― はずだよな?
しかし、よく分からないのが、墓や法事、供養という概念。
墓や法事が、たまに故人の事を思い出し、人々が集まる装置として、有効なのは理解も出来る。ただ、寺などでの「供養」てやつが、よく意味が分からない。
お盆にしても、そうだ。
先祖の霊が返ってくる?
いやいや、先祖はいつ「輪廻に失敗」したんだ?
じゃあ、「四十九日って何のためにしてるんだ?」となる。
毎年「死者を呼び戻す」たびに「次なる生」へと故人を向かわせない足枷をはめ直す。死んだ後くらい自由にさせてやれよ、というのが、筆者の率直な感想か。
◇
さて、ガチのインド仏教について。
発祥の地であるインドの仏教では「死、即輪廻」という設定。死と生は「連続するもの」であると考えられており、いわゆる四十九日という概念もない。インドにも、仏塔と呼ばれる墓に似たものが存在するが、これは徳の高かった僧などを偲ぶのに建てられる巡礼の塔。供養の儀もするようだが、墓とは少々味わいが違う。
死ぬと即輪廻するという概念でいえば、チベット仏教のダライ・ラマの例が、一番面白い。ダライ・ラマの死の間際から僧侶たちが予兆を探り、占いを行う。そして、ダライ・ラマが死んだ「その日に生まれた子ども」の中から次のダライ・ラマを決める。死と生は連続しており、転生も死と同時に発生するといったところか。
◇
こうやって調べると、いかに日本の仏教が馬鹿らしいかがよく分かる。さすがに「原典を歪め過ぎだろ?」と。それはおそらく「仏教が伝来する過程」にも関係のあることなのだろうが。
確実にいえることとしては、中国の道教、韓国の宗教などの儀式も、仏教が伝来する過程で混ざっているということ。そして、この国に元々あった土着神道とさらに混ぜ合わせる「神仏習合」があり、今の寺の思想、ジャパニーズ仏教の原型みたいなものが産み落とされていく。
うん、いい加減にしろよ。
キリスト教もそうだが、原点から大きく歪め過ぎだろ。
祭事に関わる連中の強欲さに合わせて。
儀式は儲かる。
付け足せば、付け足すほど。
しかし、四十九日後の先祖供養ってのは、さすがに論理破綻が過ぎないか?
故人を偲び、たまにみんなが集まること自体は全然かまわないが、そこに訳の分からない設定を乗せないで欲しい。
「死者との感情の切り離し」には、儀式は確かに有効だ。いつまでも死者のことを引きずって生きていくのは、あまりにもしんどいから。だが、即日お別れでは味気がないから四十九日。これもまあ、分からんでもない。しかし、その後も寺が立ち会って何周忌だの言って、経を読むのは何のジョークだ?
葬式などの儀式は、その性質上、死者のためにではなく「生者のためにある」装置という色合いが濃いわけだが、それにしても、その後にまで当たり前な顔をして、金を求めてくる寺の姿勢には、さすがに呆れが来る。
坊さんの坊主頭は、欲まみれの象徴か?。
先祖や神の祟りを利用し、遺族の「精神的な人質」を取る。
しかし、本来の仏教概念なら、死者はとっくの昔に輪廻転生を完了している。
だから、四十九日が済んでまで、厳かな気持ちで儀式に参加している親戚たちを見ていると、カルトに入信した人間のようにも見えてきて、少し悲しい気持ちにもなった昨日の話。
まあ、そんな顔は微塵も見せず、真面目な顔で参加してきたわけだが。




