第9話 : 出会 [2]
もしかすると、祐希が文芸部室ではなく図書館に来たのは、桃香との気まずい再会を避けるためだけでなく、栞奈から連絡が来るかもしれないという期待が、心のどこかにあったからかもしれない。どうせ期待なんて裏切られる──図書館に入った時点で、もうそんな予感がしていた。だからこそ、期待しないよう自分に言い聞かせた。
弘はむしろ、積極的に話を進めようとしていた。さっきのためらいなんて、なかったことにしたいような様子だった。その不安げな態度が、かえって祐希の中に疑念を芽生えさせた。
「今朝電話したんですけど、入るにはどんな条件があるんですか? 試験とか面接とか、そういうのがあるんでしょうか?」
祐希は弘の不安を和らげようと、いつも通りの淡々とした声で答えた。理由もなく二人を比べてしまっているようで、弘に対して申し訳なさが募った。それでも、栞奈への未練は消えなかった。
「心配しなくていいよ。大事なのは、この部活にどれだけ興味を持っているかってことだから」
弘は桃香とは正反対の祐希の態度に引っかかり、思い切って尋ねた。
「ほんとに? 文芸部って、実力のほうが大事って聞いたんですけど」
「部員」という言葉に、祐希の脳裏をある顔がちらりとよぎった。
「部員?」
彼はあっさりと答えた。
「はい」
胸をよぎった不安が当たっているかどうか、彼は尋ねてみた。
「他の部員とはもう連絡を取ったんですか?」
彼は迷いなく、はっきりと答えた。
「はい、偶然です」
祐希は黙って頷いた。弘がなぜそんなことを言ったのか、ようやく腑に落ちた気がした。桃香が弘に何を、どんなふうに話したのか、だいたい見当がついた。
「だいたいのことは理解できましたよ」
まだきちんと話していないのに、先に「わかった」と言われると、どうしても納得がいかなかった。
「あ……本当ですか?」
その断固とした言葉は、まるで祐希の覚悟を試すように響き、思わず意地を張ってしまった。
「そうかもしれません。でも……僕は、そうは思いたくないんです」
何か事情がありそうだったが、言葉にはできなかった。下手に口を出せば、かえって逆効果になる気がした。
「それって、具体的にどういう意味ですか?」
きっと、あきらめさえしなければ、実力なんて後からいくらでもついてくる──その思いを、祐希は最後まで信じ続けたいと願っていた。
「純粋な情熱があれば、いつでも歓迎します。小説に興味を持ったきっかけ、よければ教えてもらえますか?」
特に隠すようなこともない。余計な嘘をつくより、正直に話す方がきっと良い印象を与えられるはずだ。
「ただ……すごく面白かったんです。それで、文芸部に入って、もっと本を読んで、自分でも小説を書いてみたいって思ったんです」
「つまり、今ちょうど興味を持ち始めたところなんですね。でも、自分から動こうとする気持ちがあれば、実力は後からついてくると思いますよ」
「はい、そういうことなんです」
桃香がどうして弘に祐希へ電話をさせたのか──その理由が、ほんの少しだけ見えた気がした。彼女は、その目的にふさわしい人物を見抜いていたのだ。祐希は迷いなくうなずいた。断る理由なんて、最初から考えられなかった。
これは弘だけじゃない。祐希自身にも課された試練だった。もし彼がその試練に応えることができれば、彼女はきっと素直に認めてくれる。そんな確信めいたものが、祐希の胸に芽生えていた。
「今回の試験で、自分の実力を見せればいいんじゃないですか?」
弘の頭には、そのとき桃香の言葉が次々とよみがえっていた。けれど実際に何をすればいいのか分からず、頭の中はぐるぐるとかき回されるばかりだった。
今は、目の前のことに集中するしかない。
「あ……それなら、もう聞きました。勝てば入部できるって、部員の方から」
祐希は、ただうなずくしかなかった。
「それなら話が早いですね。じゃあ、さっそく本題に入りましょう」
彼が特別なことを言ったわけでもないのに、状況は自然に動き出していた。自分はただ、その場の雰囲気に流されていただけだった。
「ああ、はい……」
祐希は約束を再確認し、準備を始めようとした。弘が何か質問する前に、先に動き出すべきだと感じたのだ。
「できるだけ早く会って話したいと思っています。早い方がいいに決まってますよね?」
戸惑いながらも、弘もその提案を受け入れざるを得なかった。ペンと手帳を取り出し、時刻を正確にメモしようとする。
「はい……そうですね。それじゃあ、いつがいいでしょうか?」
桃香がすでに動き始めていることを思うと、焦りが一層強まった。
「明日なんてどうですか? 放課後、会えるといいですね」
「私は大丈夫です」
「じゃあ、時間と場所は後でメールしますね」
短い通話を終えると、祐希は図書館を後にした。やるべきことは、もう決まっている。無駄にしている暇なんてない。
声しか知らない相手に会うと思うと、胸が高鳴った。期待と不安、その両方を抱えながら、祐希は家路についた。
一方、弘は祐希の承諾を得たものの、状況がどう動いているのか、まったく見当がつかずに戸惑っていた。不安もあったが、今は前向きに考えるしかなかった。文芸部に入るチャンスすらなかったこれまでを思えば、これは間違いなく前進だ。
このチャンスを活かして、いい結果さえ出せれば──きっとうまくいく。そう信じるしかなかった。
祐希は失望と期待を胸に校舎を出た。すると、運動場のベンチに座っている二人の姿が目に入った。待ちわびていた栞奈──その隣には、まさか桃香がいた。しかも、文芸部室ではなく、どういうわけかこんな場所で。
信じられない光景が目の前に広がっていた。
見つかるのではないかと身をひそめながら、祐希はベンチの近くに身を隠した。なぜこんなことをしているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、気になって仕方がなかった。
そして、彼はこっそりと二人の会話に耳を傾けることにした。
自尊心なんて、今はどうでもよかった。
「はじめまして、栞奈と申します」
「はじめまして、桃香と申します」
二人は舞い散る桜の下で、初めての挨拶を交わした。
「どうしても入りたいという気持ちは、もう十分に伝わっています。だから今、大事なのは――どうすれば入部できるのか、ちゃんと理解することではないでしょうか?」
栞奈は、迷いなく本題に切り込んだ。
「はい、その通りです。テストは簡単ですよ。小説を一本書くだけです。相手も一本持ってくる予定で、その作品より人気が出れば合格。今回は文化祭で投票を行い、その結果で優劣を決めます。投票者は、うちの学校の生徒たちです」
「あ、はい……」
「ね? 本当に簡単でしょう?」
「ええ、そう……みたいですね」
「もしかして、自信がないんですか?」
「いえ、私――誰にも負けない自信があります」
「あ、本当? それ、すごく嬉しいです」
「でも……ちょっと気になることがあって。実は、私に“文芸部に入ってみたら?”って勧めてくれた男の先輩がいるんですけど、その人って……今、どこにいるんでしょうか?」
文芸部の男子といえば、一人しか思い浮かばないはずなのに。
桃香は、ただ首をかしげた。
「あの、本当にその人から来てほしいって頼まれたんですか?」
「はい」
桃香は、意味深な表情を浮かべた。想像していた以上に、話が進んでいた。
彼女はただ、祐希に弘を紹介しただけのつもりだった。けれど、思いがけず――祐希が会いたがっていたその相手が、いま、栞奈の目の前に現れている。
なんという偶然だろう。
その事実だけで、桃香の胸には、栞奈を文芸部に迎え入れたい衝動が込み上げてきた。
改めてこの“勝負”の意味を考えると、むしろ栞奈に弘を打ち負かしてほしい……そんな気さえしてきた。
「もし彼が、本気であなたに文芸部に入ってほしいと思っているのなら――勝つのは、あなたじゃなきゃいけないはずです。きっと彼も、喜びますよ」
その会話をこっそり聞いていた祐希は、今すぐ飛び出して何か言いたくなったが、必死に気持ちを抑え込んだ。
自分が望んでいた相手を迎えるには、自分がこの勝負に「負けなければならない」なんて――なんて皮肉なんだろう。
まさか、こんなにややこしいことになるとは思っていなかった。今の感情のまま飛び出したら、もっと事態をこじらせるだけだ。
うまく解決できる保証もない。それに、自分が勝つために、栞奈にわざと負けてもらうなんて……それは自分の本心とは、まるで違う。
栞奈の意志をくじくわけにはいかない。まさに、どうしようもない自己矛盾だった。
やはり、競争相手である栞奈が全力を尽くしてくれることを願うしかない。
たとえそれが、桃香に自分の考えを否定する口実を与えてしまうとしても。
勝って栞奈が入れなくなるのも、負けて自分の信念が打ち砕かれるのも――どちらも望んでいない。
まるで、運命の皮肉だ。
祐希はそっとその場を離れ、帰り道を歩きながら、静かに状況を振り返った。
弘は、この状況を知る由もない。
それでも、祐希にはかえって自分の目的がはっきりしたような気がした。
家に帰るとすぐに空のノートを取り出し、ペンを握って頭をひねった。だが、インスピレーションはまったく湧いてこない。
「初めての作品」と思えば思うほど、プレッシャーで頭の中は混乱していった。
ふと、栞奈がくれた小説のことを思い出す。机の上に置いてあったその小説を手に取り、ページをめくり始めた。
小説に没頭しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
最後のページを読み終えたとき、栞奈に「どう思ったか教えてほしい」と頼まれたことを思い出した。
果たして自分に、この小説の何が語れるのだろう。
そう考えているうちに、疲れがどっと押し寄せてきて、祐希はそのままベッドに横になり、眠ってしまった。
そんなふうにして、一日が終わり、朝がやってきた。
栞奈は、いつもより少し早く起きて、学校へ向かうバスに乗り込んだ。
以前は歩いて通っていたから、バスに乗るのがなんだか新鮮だった。
舞い散る桜の香りに包まれながら、学校へとたどり着く。
教室に入ると、かばんを下ろして、ちらりと隣の席を見た。
弘があの小説を読んで、どんな感想を抱くのか――それが気になった。
もしかしたら、何かヒントを得られるかもしれない。
そんな淡い期待に応えるように、まもなく弘が教室へ入ってきた。
いつも通り、どっしりと席に座り、周囲を見回した。
栞奈は、どこか意味ありげな目つきで弘を見つめていた。
弘もその鋭い視線に気づき、首を巡らせると、栞奈と目が合った。
その表情だけで、彼女の期待がひしひしと伝わってきた。
「おはよう!」
彼女は明るい声で先に挨拶をした。
「おはよう……」
彼はまだ眠そうな顔で答えた。
彼女は期待にあふれた視線を向け、そっと聞いた。
「ねえ……あの小説、最後まで読んでくれた?」
「うん、昨夜、ちゃんと最後まで読んだよ」
彼女は小さくうなずいた。
「本当?じゃあ、面白かったってこと?この小説、どう思った?」
彼は少し考えてから、できるだけ簡潔に答えた。彼女が何を本当に聞きたかったのか、いまひとつ掴めなかったが、心のどこかで感謝の気持ちはあった。
「面白い小説だったよ」
期待していた言葉ではなかった。それが分かったからこそ、彼女の肩は小さく沈んだ。
「それだけ? それで終わり?」
彼もまた、自分の言葉がどこか誠意を欠いていたことに気づいていたが、それ以上に何を言えばいいのか分からなかった。
「うーん……そうだね。それで、終わりかな」
彼女はあきらめきれずに、さらに問いかける。
「ねえ、なんで面白いって思ったの? 本気で考えてみた?」
「うーん、それって……どういう意味?」
彼女はこの小説を通じて、本当の気持ちを伝えたかった。けれど、それは届かなかった。
弘の反応はあまりにも淡白で、その会話はそれきりになった。
「……ああ、わかった」
彼女は静かに席に戻った。
弘もまた、どこかやるせない気持ちでその背中を見つめていた。がっかりした彼女の表情を見て、ようやく気づいた。彼女は、何かしら自分の返事に期待していたのだ。
もしかしたら、自分はあの小説をちゃんと読み取れていなかったのかもしれない――。
その理由さえ、うまく言葉にならなかった。
今日は祐希と会う予定だったが、その前に、この話にはきちんと向き合っておくべきだと思った。