第5話 : 始業 [1]
あの日を境に、数週間が水のように流れ去っていった。
春の気配が街を包み込み、景色はゆっくりと若葉の黄緑に染まりはじめていた。
そんな春の気配に包まれながら、祐希は新たな始業の日を迎えた。
この時期になると、どの部活動も一斉に新入生の勧誘を始める。この学校に初めて来たときに見た、あの光景が、再び目の前に広がっていた。春風に乗って漂う桜の香りが、彼らの高揚感をさらに煽っている。浮かれて騒ぐ新入生たちを見ていると、まるで自分だけが輪の外に弾かれているような気がした。文芸部のことを思い出すと、漠然とした責任感に押しつぶされそうになった。
登校する生徒の波に押されるようにして、祐希は学校の正門をくぐった。校舎に足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が遠のいていき、まるで別の時間が流れ始めたような気がした。胸いっぱいに春の空気を吸い込みながら、なんとか心を落ち着けようとした。
学期が本当に始まったのだと、祐希は実感した。
あの日、文芸部室で意見が衝突して以来、祐希はほとんど桃香と連絡を取っていなかった。桃香に対して申し訳ない気持ちがあるのは確かだった。彼女の言葉に、もっと耳を傾けるべきだったと、何度も思い返した。でも、何ひとつ解決には至っていなかった。
――もう、これで終わりなのかもしれない。
どれだけ気にしたところで、何も変わらない。そう思うと、ますます無力感に襲われた。彼女に直接電話をかけようと思ったが、指が動かなかった。自尊心なのか、意地なのか――とにかく、自分の中の何かが、それを許さなかった。
祐希は、紗耶香に桃香の気持ちを聞いてほしいと頼んだ。けれど彼女は、「それは自分で直接話すべきことだ」と言った。その言葉は少し冷たく感じたが、どこか納得せざるを得ない正しさがあった。紗耶香にそんなお願いをするだけの理由が、自分にはなかった。自分が卑怯だという自覚があったから、これ以上無理を言うことはできなかった。
無理に前に進もうとしたって、結局は自分の非を認めざるを得なくなり、かえって惨めな気持ちになる――そのことを、祐希はよく知っていた。
どんな結果になろうと、もう……向き合うしかなかった。
祐希は無言のまま、靴をそっと下駄箱へと収めた。
始業日を迎え、どうにか登校こそしたものの、あのときの言い争いは今も胸の底に沈んでいた。校舎の空気に身を浸すと、「彼女と向き合わなければならない」という思いが、よりいっそうの重みをもってのしかかってきた。
まだ、彼女に向き合う覚悟が整っていない――そう思った矢先、背後から気配が近づくのを感じた。
「……久しぶりだね」
ためらいがちに、桃香が声をかけてきた。
祐希のなかには、心から謝りたいという気持ちが確かにあった。しかし、いざその瞬間が訪れると、たった一言すら口に出せなかった。正門の前で新入生勧誘の光景を目にしたとき、桃香の心にも、あの部室での激しい言葉の応酬がふいに甦ってきたのだろう。
感情に流され、自分の思いをうまく伝えることができなかったこと。文芸部を心から案じていたということ。それらを伝えたかったはずなのに、対話の空気を壊してしまった――その後悔が、いまも尾を引いていた。
「うん、本当に……久しぶりだね」
彼女の声に、祐希は思わず息をのんだ。その顔を見た途端、あのときの記憶が鮮やかに甦り、ぎこちなく返事を返すのが精いっぱいだった。その先の言葉が見つからない。視線を合わせることすら、ためらわれた。
時間が経とうと、このわだかまりは消えない――そんな思いが、胸の奥でしんしんと疼いていた。
「元気だった?」
自尊心が邪魔をして、素直な言葉がどうしても出てこない。和解を望んでいないわけではなかった。けれど、言葉を交わすこと自体が苦痛に感じるほど、心にはまだ刺が残っていた。
「まあ……なんとか……」
桃香もまた、かつての確執に終止符を打ちたくて、勇気をふりしぼったのだろう。けれど、二人のあいだに流れるぎこちなさが、彼女の表情をどこか冷たく見せていた。
祐希は、自分が意地を張っていることに気づいていた。それでも、素直になることができず、ただ曖昧な言葉で場をしのぐことしかできなかった。
「まあ……ここでゆっくり話すわけにもいかないね。始業日から遅刻はまずいし……」
人波がせわしなく行き交う玄関先では、落ち着いて言葉を交わせるような雰囲気ではなかった。
――いまは、これが最善だ。
祐希はそう自分に言い聞かせ、先送りにするしかなかった。不安も迷いもあった。しかし、まだ心の準備が整っていない以上、それが唯一の選択肢のように思えた。
彼は新しい教室へ足を踏み入れると、空いた席のひとつにそっと鞄を置いた。けれど、空間に漂う雰囲気に馴染めず、どこか所在なさげに立ち尽くしていた。胸の内には、言葉にしがたい不安が、うっすらと影を落としていた。
教室を見渡すと、同じように緊張した面持ちで周囲をうかがっている者が何人もいた。希望に満ちた新生活の始まりであるはずなのに、生徒たちの奥底には、それぞれの不安が静かに息をひそめていた。
緊張と期待とがないまぜになった、春の朝。
今年この学校に入学した新入生――弘もまた、そんな曖昧な気持ちを胸に抱えていた。退屈に耐えきれず、ふいに顔を上げると、軽くあくびが漏れた。休みの気だるさがまだ体に残っており、早起きの生活リズムにはなかなか馴染めていなかった。
教室内は、自己紹介の準備や旧友との再会に沸く生徒たちの声で騒がしかったが、弘は人いきれから離れるように、ひとり静かに窓の外に目をやった。
春風に乗って舞い上がる桜の花びらが、彼の視線をさらっていった。その儚さに、思わず心を奪われる。淡く甘い桜の香りが、そっと彼の感覚を満たしていた。
時が静かに流れ、時計の針が「始まり」の時刻へと近づいてゆく。通学路を急ぐ生徒たちの足音が、次第にせわしさを増していくのが、遠くからでも伝わってきた。
さらに強い風が吹いた。無数の花びらが空中で乱舞し、桜の香りがいっそう濃くなる。弘はただ、魅せられたように窓辺からその光景を見つめていた。
やがて、学校の始まりを告げる鐘が鳴った。生徒たちは一斉に自分の席に戻り、教室のざわめきが波が引くように静まっていった。その沈黙は、担任がもうすぐ教室に姿を現すだろうという、無言の合図でもあった。
教室の視線が、自然とドアの方へと集まる。
「全員、そろっているな?」
姿を現した担任の女性教師は、生徒たちを一瞥してから静かに口を開いた。無数の視線が彼女に注がれていた。警戒と好奇心、そのどちらもが入り混じった、若く未成熟な目線。それを全身に浴びるのは、彼女にとっても毎年のことだった。
それでも、毎回どこか違って感じられるのは、おそらく――別れと出会いが交錯するこの“季節”ならではの感傷ゆえなのだろうと、彼女は思っていた。
「まだお互いに気まずくて、うまく話せないかもしれないね。誰が誰なのか、まだわからないだろうし」
教室いっぱいに詰め込まれた生徒たちのあいだに広がる静寂。それは、春のうちに過ぎ去るものだと、彼女は知っていた。桜が散り、木々の緑が深まるころには、きっとこの空気もやわらいでいるだろうと。
「一年間を一緒に過ごす“友だち”の声を、まずは聞いてみなくてはね。名前を呼ぶから、大きな声で返事をしてください!」
彼女は、その気まずい沈黙を破りたかった。
「さあ……ちょっと待って……」
ちょうどその時、一人の少女が、教室のドアをガラガラと開けた。
教室にいる全員の視線が、一斉に彼女へと注がれる。
「遅刻した子か?」
担任の先生が出席を確認しようとしたその瞬間、
静寂を破るような切羽詰まった声に、動きを止められた。
「すみません……朝、遅く起きて……」
好奇の視線が、痛いほどに肌を刺す。
呼吸を整えようとするが、羞恥が言葉を奪ってゆく。
「新学期の初日に遅刻なんて、みんなに強烈な印象を与えるわね。
忘れられない友達になれるかもしれないわよ」
彼女が笑いながらそう言うと、少女の頬はさらに赤く染まった。
「立っていると、もっと恥ずかしいでしょ。早く座りなさい」
彼女は、教室の隅にある空席を指差した。
「はい……はい……わかりました……」
少女は、自分の言い訳が通じないことを、もう十分に理解していた。
――顔が赤くなったのは、恥ずかしさのせいじゃない。走ってきたからだ。
そう自分に言い聞かせながら、空席へと向かう。
弘は、頬を赤らめ、汗をにじませたまま近づいてくる少女に気づいた。
思わず、彼女をじっと見つめてしまった。
ふとした瞬間、二人の視線が交差した。
少女の顔には、朝の疲れがかすかに浮かんでいた。
弘は、何を言えばいいのか分からず、ぎこちなく挨拶した。
「ああ……こんにちは」
彼女もそっと頭を下げ、席についた。
「寝坊した友達が来たから、もう一度やり直してみようか?」
彼女は、ざわめいた空気を少しでも和らげようとしていた。
出席簿の名前を順に呼んだ。みんなが、大きな声で答えた。
弘は、まだ窓の外をぼんやりと眺めていた。
しばらくして、彼の番が来た。
「弘!」
担任がもう一度、彼の名前を呼んだ。
けれど彼は、依然として窓の外に視線を向けたままだった。
教室には、ひとときの静寂が漂った。
返事がないことに気づくと、担任はクラス全体を見渡し、再び声を張り上げた。
「まだ来てない生徒が、他にもいるのかしら?」
彼女は、名前と顔がまだ一致しておらず、少し困惑した様子だった。
そのとき、担任の視線が窓際の一角に留まった。
「そこの、窓の外をぼーっと見てるお友達?」
指さして呼びかけると、教室中の視線が一気に弘へと集まった。
それでも弘は、窓の向こうに広がる春の景色にすっかり心を奪われていて、まるで気づいていなかった。
すぐ隣の席の少女が、その様子に苦笑しながら彼の机を軽く叩いた。
ようやく弘は我に返った。
「ああ……」
どうにかこの場を取り繕おうとしたが、何をどう言えばいいのか分からず、言葉に詰まってしまった。
「どうしたの?」
担任が首をかしげて尋ねた。
「すみません……ちょっと別のことを考えていて、集中できてませんでした」
弘は恥ずかしそうに、彼女と視線を合わせるのを避けた。
「まあ、そんなこともあるよ。始業したばかりの頃は、家が恋しくなって落ち着かない子も多いしね」
それは“始業病”と呼ばれることもある、新学期によく見られる一幕だった。
けれど、繰り返される学校生活の中で、そんな不安もやがて輪郭を失い、むしろ安らぎへと変わっていった。
「そうそう、弘。返事は大きな声でしようね。
その方が、一緒に一年間を過ごす教室の仲間にも、君の名前と顔をしっかり覚えてもらえると思うよ?」
学校生活に慣れるまでは、少しだけ勇気が要った。
けれど、それも皆が一度は通る道だった。
ここは、きっと君にとって“第2の家”になるから。
「はい!」
弘は気が進まなかったが、この状況を切り抜けるために、大きな声で返事をした。
「集中してね」
担任は、弘の眉間に寄った皺に目を留め、まだどこか不満の気配を抱えていることを察した。
その後も彼女は淡々と名前を呼び、生徒たちは次々に大きな声で答えていった。
出席確認が終わり、先生が教室を後にすると、クラスの空気は一気に緩んだ。
生徒たちはほぼ同時に椅子を引いて立ち上がり、ざわめきが教室を満たした。だが、弘だけは額を机につけたまま、微動だにしなかった。
その様子を気にかけるように、一人の少女がそっと彼に近づいた。
「ねえ?」
控えめながらもはっきりとした声が、弘の耳に届いた。
「え……さっき遅れてきた子?」
顔を上げると、そこには、どこか照れくさそうな笑みを浮かべた少女が立っていた。
「会えてうれしいな! 私、栞奈っていいます」
にこにこと微笑む彼女に、弘も戸惑いながら応じた。
「あ……そうだね。お会いできて嬉しいよ。僕は弘」
ぎこちないながらも、彼は落ち着いて挨拶を返した。
けれど、彼女がなぜ自分に声をかけてきたのか、その理由までは分からなかった。
「気になることが一つあるの」
「……何だ?」
戸惑いがほんの少し残る中で、弘はどこか面倒に感じはじめてもいた。
けれどその気持ちは、彼女の真剣なまなざしに、やがてかき消されていった。
「さっき、何を考えてたの?」
不意に問われ、弘は目を瞬かせた。
「え、僕の顔……そんなに変に見えた?」
思いがけない質問に戸惑い、彼は心の中で自分の表情をなぞった。
一人で考え込んでいたせいで、誰かの視線などまるで気にしていなかったことに、今さらながら気づいた。
「あ……いや、そういう意味じゃなくて」
栞奈はすぐに否定した。からかうつもりなど、毛頭なかった。
その視線は真っ直ぐで、柔らかく、どこか遠慮がちだった。
出席を取っていたときの彼の沈んだ横顔が、今も彼女の胸に残っていた。
だからこそ、彼が何を考えていたのか、ますます気になってしまった。