第3話 : 冬休み [3]
桃香はそれを聞くと、即座に答えた。
「私だって、面倒なことは嫌いなんだから!」
桃香の姿が完全に視界から消えたその瞬間、祐希はもはや逃れられないことを悟った。その瞬間、紗耶香が腕にしがみつくように寄ってきた。
「はぁ…」
彼は仕方なく、彼女の行きたいところに付き合うことにした。
「そうだね…行こう」
彼女は腕を組み、目を輝かせながら、祐希の顔をじっと見つめた。
「やっほー!どこ行きたい?」
どうせ逃げられないのだから、そのまま彼女に任せるのが一番楽だと思った。
「どこか行きたいところ、あるの?」
彼女は顔をぐっと近づけ、そっとささやいた。
「うーん…そうだな、まずはホテルの部屋を予約しようか」
その瞬間、彼女がぐっと近づいてきたので、祐希は思わず顔を赤らめ、目を見開いた。
「な、何言ってるんだよ!そんなこと考えるなよ…!」
彼の恥ずかしそうな顔を見ると、彼女はぷいっと顔を背け、吹き出した。
「あははー!」
彼女は祐希の肩をポンと叩きながら、笑い声をあげた。彼が不満そうな顔をしても、気にした様子はまるでなかった。
「だから、あなたと遊ぶのが好きなの。ほんと、その反応が見たくてたまらないんだから!」
彼女はいつものふざけた口調で、笑い飛ばした。
「冗談だよ、冗談!」
祐希は笑いものにされた気がして、思わず言い返した。
「そういうの、やめろよ」
彼女は後ろ手を組み、体をひねりながら、いたずらっぽく笑っていた。
「どうして私がやめられると思うの?こんなに可愛い反応するんだもん〜!」
彼女はぴょんとドアの方へ跳ね、片手で蛍光灯をパチンと消した。
「早く来ないと、またからかうよ?」
彼女は足をバタバタさせながら、祐希を急かした。
「早く来て!行こうよ!」
祐希はひとつため息をつき、彼女の元へと歩き出した。
「はいはい……今すぐ行くよ」
彼女はまるで誰かに追われるように、祐希をひたすら急かしていた。
「遅れたら、またやり直すって言ったでしょ~!」
祐希は彼女の急かしに応じ、冷めた表情のまましぶしぶついていった。ㅓ
彼女は祐希が部屋を出ると同時に電気を消し、ドアを勢いよく閉めた。
「オッケー!」
彼女は顔をぐっと近づけ、茶目っ気たっぷりに笑った。行きたい場所がいくつか浮かんでいたが、あとは祐希がその中から一つを選ぶのを待つばかりだった。
「さて、どこ行こうか?」
祐希は彼女を失望させまいと、素直にうなずいた。どうせ彼女のほうが先に疲れて帰るだろうから、適当に合わせるのも悪くないと思った。
「私はどこでもいいんだってば!」
彼女は祐希が興味を持ちそうな場所を選ぶことにした。きっと、二人で楽しめる場所になるだろう。
「ええと……とりあえず、本屋に行ってみようか」
祐希は興味深げに、彼女をちらりと見た。
「そっか、本が読みたいんだ?」
紗耶香はわずかに眉をひそめ、祐希をちらりと見た。文芸部の一員として、本を愛する気持ちには誰にも負けないという自負があった。だからこそ、その一言に少し気分を害した。
「何だよ! 気に入らないんだ?」
「だって、君なら“何か食べに行こう”って言いそうだったからさ」
彼女が食べるのが好きなことは知っていた。けれど実際、自分もかなりお腹が空いていて、無意識に食べ物のことを考えてしまった。
「い、いや……そういうつもりじゃなくて……」
祐希の胸はざわつき、落ち着きがすっかり消えていた。
「うーん、もちろん食べるのも好きだけどさ、やっぱり文芸部で楽しいことと言えば、本を読むことだろう?」
彼女は明るく、活気のある口調で言った。
「だって、文学で一番大事なのは“面白さ”そのものじゃない? 興味がなければ、人は読みたいと思わないでしょ? 教訓? うーん……まあ、それも悪くないけど! でも、小説って、読んでる“その時間”を楽しむためにあるんじゃないかな?」
心臓の鼓動に合わせるように、足を軽くバタつかせながら、彼女はそう続けた。
「あ~本の世界に早く入りたくて狂いそう!」
──まぁ、興味のない場所に行くよりはマシか……。祐希はそう思いながら、彼女のあとを追った。
「わかった。早く行こう!」
少なくとも、この場面では二人の息はぴったりと合っていた。文芸部の一員という共通の肩書きが、二人を自然に繋げていたのだ。
彼女が本屋の話をしているうちに、祐希はいつの間にか空腹を忘れていた。だが、ふと我に返ったとき、空腹感が急にぶり返し、思わずお腹を押さえてその場にしゃがみ込んでしまった。
「実はちょっとお腹空いてるんだよね。君のその話を聞いてたら、もっと空いてきちゃった! ちょっと本屋に寄った後、ケーキでも食べに行こうか。新しくできた店があって、ずっと行ってみたかったんだ」
祐希は、バスの窓越しにちらりと見えたおしゃれなケーキ屋のことを思い出した。
「そうだね! そこにも一度行ってみよう。駅前に新しくできた店だよね?」
本屋へ向かう道すがら、新刊の話題で二人は盛り上がった。休む間もなく続く会話の中で、自然と心の距離が縮まり、周囲の人々の存在すら気にならなくなっていった。
本屋に到着すると、ずらりと並ぶ本の棚を前にして、祐希は胸が高鳴るのを感じた。限られた時間で、すべての本を読み切れないのが惜しくてたまらなかった。本に没頭していると、周囲の騒音が次第に遠のき、やがて人の気配も消えた。両手に小説を持ち、ページをめくるその瞬間、祐希は幸せを感じずにはいられなかった。
祐希は、活字に視線を固定したまま、すぐそばに誰かがいることすら気づかなかった。ほんのわずかな動きで見知らぬ少女と肩が触れ、その瞬間、祐希はようやく彼女の存在に気づいた。
祐希はそっと首を振り、彼女の顔をじっと見つめた。彼女もまた、本に夢中だったため、祐希が近くにいることには気づいていなかったのだ。
ただ、目の前の相手を見つめることしかできなかった。彼女が何か言おうとするのを見て、祐希は「ああ、こんなにぼんやりしていられない」と、ようやく我に返った。
彼は気まずさに耐えきれず、まずは小さな声で謝罪を口にした。
「すみません、本に集中していたので……」
彼女もまた、どこか気まずさを感じていた。自分にも非があると思っていたから、一方的に謝られると、逆に居心地が悪くなった。
「あ……違います。私も本に夢中で、近づいているのに気づかなかったんです」
彼女の言葉に、祐希は一瞬、ほんのわずかな違和感を覚えた。ふとした好奇心に駆られて、祐希は彼女が持っている本に目をやった。見た目はごく普通の本だったのに、彼女がわざわざ隠そうとした仕草が、妙に心に引っかかった。もしかして、無意識に何か失礼なことをしてしまったのだろうか、と心の中で少し心配になった。
彼女は何事もなかったかのように本を背後に隠そうとしたが、手が滑って本が床に落ちた。
「あっ……これは」
祐希は慌てて軽く頭を下げ、本に手を伸ばした。
「私が拾いますね」
ちょうどその時、彼女はすばやく本を引き寄せ、背後に隠した。瞬間的に彼女は目をそらし、静かに数歩後ずさった。
「それでは、失礼しますね」
祐希が何か声をかけようとしたが、彼女は何も言わず、ただその場を立ち去っていった。
その直後、紗耶香が静かに祐希の背後に近づき、耳元で声をかけた。
紗耶香は目を丸くし、顔をぐっと近づけて、好奇心に満ちた笑みを浮かべた。
「何をそんなに考えてるの?」
祐希は一瞬も目をくれず、ただ少女が去っていった方向をじっと見つめていた。紗耶香は眉をひそめ、その視線の先をちらりと見たが、そこにはすでに誰の姿もなかった。
祐希が無視されたことが面白くなかったのか、紗耶香はいたずらっぽく笑いながら、耳元でささやいた。
「誰? うそ、まさか――隠し彼女、発見?」
「今、初めて会ったばかりだよ。名前すら知らないのに……」
たった一度すれ違っただけで恋人扱いされるなんて、さすがにそんなことはないだろう。こんな荒唐無稽な誤解が他にあるだろうか?
「何を言ってるんだ……?」
戸惑いながらも、祐希は紗耶香が詰め寄ってくるのを感じて、つい語気を強めてしまった。
けれど、彼女はさらに食い下がる。
「へぇ〜、本当? 正直に言ってみなよ。見られたって、別に問題ないでしょ? 私たちの間で、隠しごとなんてあるの?」
祐希は慌てて手を振りながら答えた。
「違うってば!」
紗耶香は彼の焦る様子を楽しむように、にやにやと笑いながら言葉を重ねる。
「じゃあ……あの子に心を奪われちゃった? まさか、一目惚れ? ふーん、意外と単純なんだ。ちょっとがっかり〜」
祐希は慌てて彼女の後を追いかけた。
「ちょ、待ってくれよ! 何度言わせるんだ!」
突然振り向いた紗耶香が、意味深に言った。
「じゃあ、今日のことは……秘密にしておいてあげる」
祐希は、彼女の急な態度の変化に疑念を抱いた。何か狙いがあるに違いない。そうでなければ、こんなふうに急に「秘密にしておいてあげる」とは言わないだろう。
「……ほんとに信じていいのか?」
不安と疑いの入り混じった表情を浮かべた祐希を見て、紗耶香は茶目っ気たっぷりに笑った。彼女は、その反応を待っていたのだ。彼の戸惑いを楽しみながら、望んでいた「ある言葉」を引き出そうとしていた。
「もちろん、相応の代償は必要だ」
彼は紗耶香の本当の目的を探ろうとしたが、とりあえずは乗ってやることにした。
「そのくらい、もうわかってるよ。で、何が欲しいんだ?」
ちょうどお腹が空いていた彼女は、この機会を逃すまいとしっかりおごってもらうつもりだった。まるでそれを待っていたかのように、すぐに要求を突きつけた。
「ケーキ買ってくれたら、黙っててあげる!」
彼女がこんなやり方で来るのは、ある程度予想していた――なのに、やっぱり悔しさがこみ上げてくる。もう慣れたはずの策略なのに、なんだかモヤモヤが残った。
「卑怯だ……」
彼女は余裕を見せながら、彼の表情の変化をじっと見つめた。
「なによ、そんな不満そうな顔して。これくらいで済んだんだから、感謝してよね?」
このへんで手を打っておいたほうがいい。放っておけば、あとでどうせ面倒になる。どうせ約束なんて守るつもりはないのかもしれない。けれど――この程度で済むなら、まあ、安いもんだ。
「あ……まあ、いいよ」
彼女は彼の腕をつかみ、ぐっと引き寄せた。
「よし、今すぐ出発しよう!」
彼女が再び催促すると、祐希は確認の意味で尋ねた。
「今すぐ行くの? まだちょっと、本読みたい気もするんだけど……」
彼女は平気そうに答えた。
「まだ読んでない本、何冊かあるんだけど……大丈夫! 後でまた来ればいいよね?」
その笑顔に、祐希の心はさらにざわめいた。
「ふふ、君もまた来るんでしょ? あの子に会いたくて」
祐希は慌てて答えた。
「えっ? それ、今どういう意味?」
彼が何か言おうとした瞬間、彼女はさっと言葉を遮った。
もう十分引っ張ったと判断したのか、彼女は急に足を踏み出した。いつものように遠慮なく、祐希をケーキ屋へと連れ出す。
「変な言い訳する前に、ちゃんとおごってもらわなきゃね」
引っ張られながら、祐希は面倒くさそうに答えた。気になる本はまだあったけれど、腕を引かれてはもう断れなかった。
「うん……わかったよ。ほんと、君には敵わないな」