第21話 : 決心 [5]
結局、自分にはこの返事しかできなかった。そのことが、ただただ申し訳なく感じられた。
「これが、今の私にできる精一杯の答えです」
「なるほど」
「では、今度は私の番ですね?」
「はい」
「どうして文芸部に入りたいの?」
「特別に強い理由があるわけじゃないんです。ただ、文芸部でみんなと過ごしてみたいなって。小説が好きな人たちと話したり、何か一緒に作ったりできたら楽しそうだなって思って。正直、今の僕って、何をしていいのかよく分かんなくて…… でも、文芸部で誰かとつながれたら、自分の居場所が見つかる気がしたんです」
「そうなんだ」
「じゃあ、今度は私の番ですね?」
「そうです」
弘にも、文芸部に入りたいと思った理由があるはずだと感じていたが、実際に尋ねる機会はなかった。祐希とは親しい関係だったが、言い出すには少し躊躇していた。
「この賭けって、どうして始まったんですか?」
「それは話すには長すぎる」
「そんなに……いろいろあるんですね」
紗耶香は文芸部の内部事情を思い返すだけで、頭が痛くなりそうだった。
「少し……複雑だけど、それでも、やらなきゃって思ってる。祐希との約束だし。それに、最初の質問にもちゃんと答えられなかったしね」
押し寄せる頭痛をこらえながら、紗耶香は、これまでの経緯を一つずつ弘に説明していった。
弘は呆然とした様子で、まるで小説みたいな話をじっと聞いていた。
紗耶香の話が終わる頃には、弘の中でいくつもの点がつながっていた。桃香があの時言ったことや、その時の態度も――ようやく意味を持ち始めていた。 最初に通話した時、桃香のことを冷たくて、近寄りがたい人だと思っていた。でも、それはきっと自分の勝手な思い込みだったのかもしれない。 一方的に距離を詰めて、彼女を困らせたのが申し訳なかった。 今度桃香に会う機会があれば、正式に謝ろうと心に決めた。
「じゃあ、今度は私が聞いてもいいですか?」
「はい」
「部活でいい思い出を作りたいんだよね?うん、いいと思う!でもさ、いろんな部活がある中で、どうして文芸部を選んだの?」
「目的も希望もなく生きていた僕に、小説は新しい目標をくれたんです。どこに根を下ろせばいいのか分からなかった僕にとって、それは大きな指針になりました」
「たぶん、多くの人にとって、小説って現実から逃げる場所かもしれません。僕も最初はそうでした。でも今は、小説が現実の自分を映す鏡みたいになった気がして。時間をかけても、努力しても、それだけの価値があるって思えるんです。この学校生活っていう、大きな海の中で――小説を信じて、夢を信じて、進んでみたい。面白いって思えることを、本気でやってみたい。夢に変わるかもしれないから」
「そうなんですね!私も、その気持ち、すごく分かります」
「じゃあ、今度は私の番ですね?」
「最後だね」
「はい。お二人とも、新入生にどんな子が来てほしいか、イメージがあるみたいですね。先輩は、どんな子が理想だと思いますか?」
最後まで、難しい質問ばかり投げかけてくる人だな。
「これは後で教えてもいいかな?」
「後で?いつですか?」
「投票の日に!」
「投票の日?」
「そう、今すぐには私、なんとも言えないの。ちょっと……慎重になりたいから。でも、文化祭当日にはちゃんと答える。約束するよ。実はね、私もあなたと似たようなことを考えてるの。小説って虚構だけど、書いた人がどんな人なのかって、やっぱりにじみ出るものだと思うんだ。君なら、きっと私の好きな小説を書く気がする。それが、あなたが私の理想に近い新入生だってことを示してくれるって、信じてる。投票で答えるっていう形でも、いいよね?言葉で言うって、最初から決まってたわけじゃないし」
「はい……分かりました」
「じゃあ、終わり!そろそろ行かなきゃ」
どこか気まずさを残しながらも、二人はその場をきれいに終わらせようとしていた。
弘が立ち去ろうとしたその時、紗耶香が彼を呼び止めた。
「あの……」
声を聞いた弘は、すぐに振り返った。
「はい?」
「文芸部に入って、友達になってくれたら嬉しいな」
彼は笑顔を浮かべて、明るくうなずいた。
「はい!」
彼女は、去っていく彼の背中を静かに見送った。
弘が去ったのを見届けてから、栞奈はにっこり笑い、ゆっくりと紗耶香に近づいた。
「さすがですね、先輩。もしかしたらと思っていましたが」
紗耶香は、その顔に見覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。これはきっと、古い記憶の中に埋もれていた縁なのだろう――そう思った。
「うん?」
「こんにちは。お会いできて嬉しいです。改めてご挨拶させてください、栞奈と申します」
やはり思い出せない。けれど、どこかで会ったことがあるはずだと、記憶を必死にたどった。
「誰…」
思い出せないのは少し残念だったが、それもそのはず。あまりに短い出会いだったのだから、仕方がない。
「あの“鍵の輪”を、今になって返せるなんて。まさか、こんなふうに縁が続いていたなんて、思いもしませんでした」
呆然とする紗耶香を見て、栞奈はそっと続きを話し出した。
「実は、私も“もう一人の部員”が誰なのか、ずっと気になってたんです。こうして会えるとは思っていませんでした。弘くんに感謝しないといけませんね」
「……そうなんだ」
栞奈は声を弾ませ、どこか意味ありげな笑みを浮かべた。
「それに……これって、あの時と同じじゃないですか?」
紗耶香は眉をひそめた。栞奈の言葉は、どれもどこかつかみどころがなかった。
「どういうことですか?」
栞奈は、紗耶香がこの言葉に反応することを、最初からわかっていた。
「私が誰なのか、気になってますよね。否定はできないと思います。だって――桃香先輩が選んだ候補、それが私ですから」
紗耶香の顔に広がっていた戸惑いが、ふっと和らぐ。代わりに、思わずこぼれたような笑みが浮かぶ。
「あ、本当なの?」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間、紗耶香の胸の奥に、かすかな記憶の断片が浮かび上がった。
祐希が「迎え入れたい」と語っていたその子――そうだ、あのとき見たキーホルダー。
あれが、ずっとどこかに引っかかっていたのだ。
紗耶香は、ようやく記憶と気持ちがつながるのを感じていた。
「どこかで見覚えあると思ってた! 実は私も、誰が候補になったのか、ずっと気になってて…… 書店でぶつかったあの子だよね?」
栞奈は軽くうなずくだけにとどめた。
紗耶香の反応は、自分の期待したものとは違っていたが――それも仕方ないと、心の中でそっと納得した。
偶然がこうも重なることに、栞奈は少し不思議さを覚えた。
けれど――こんな些細な出来事に、いちいち意味を求めようとする自分のほうが、むしろ変なのかもしれない。
紗耶香の反応は、きっとごく普通なのだろう。
「こうしてまた会えました。やっぱり、偶然なんてなかったのかもしれません。きっと全部、必然だったんです。縁が縁を呼んで、この瞬間にたどり着いたんですね」
栞奈は、ずっと胸の奥で小さな期待を抱いていた。
けれど、それが本当に現実になった今――かえって、信じられない気持ちだった。
「わあ、じゃあ……やっぱり、うちの部に入るつもりなんだよね? そうなんでしょ?」
「はい」
喜びの波が引いたあと、ふと冷静な自分に気づく。
彼女が味方として現れたのは、まるで運命のいたずらのようだった。
「目の前に二種類のケーキが並んでるみたい……。ほんとに、一つしか選べないの? 両方食べちゃダメ? どっちか残すなんて、すごくもったいない気がするよ」
「ちょっとよく分からないけど……褒め言葉として受け取っておくね?」
「実はね、あなたが文芸部に入れないかもって、祐希がすごく心配してたんだ!」
心配そうな表情の紗耶香に、栞奈はあくまで平然と応じた。
「そこまで心配してもらえるなんて光栄ですけど、私が負けるとは思ってません。絶対、勝ちますから」
栞奈の言葉に、紗耶香は返す言葉を失った。どちらかを選ばなければいけない現実が、少しずつ重くのしかかってくる。
「うーん……でも、そうなると、あの子が落ちるのはやっぱりもったいないよね」
紗耶香の不安を和らげるように、栞奈はできるだけ前向きな言葉を選ぶ。
「それは、きっとあとになれば分かります。もし本当に縁があるなら、二人とも文芸部に入れるかもしれませんしね」
紗耶香も、できるだけ前向きに考えようとした。
まだ何も決まっていない――それなら、悩んでも仕方ないかもしれない。
「そうですね」
栞奈は、さっきまでの活気が薄れたことに気づいた。二人きりのこの時間を、沈んだままで終わらせたくはなかった。
「それでは、私もゲームをしましょう」
紗耶香は小さく首をかしげて問い返した。
「ゲーム?」
この機会を無駄にはしたくない。先輩との距離を縮めるために、できる限り活かしたいと思った。
「さっき弘とやっていたことです。私も候補者なんですから、彼だけがあんな面白いことをしてもらえるのは、ちょっとずるいと思いませんか?」
「えっ……全部、見てたの?」
中途半端にごまかすほうが、きっと先輩をイライラさせてしまう。なら、正直に話したほうがいい。
「はい。今さらごまかしても意味がないので、正直に言います。私は弘を追いかけてきて、二人の会話を全部聞いていました」
「それは…」
栞奈がここまで自信たっぷりに提案できるのは、それが紗耶香にとって断りづらい内容だと確信しているからだ。
「先輩も、私のことをもっと知りたいと思っていませんか?もちろん、すぐに全部を理解する必要はないと思います。でも、ある程度は分かっておいたほうがいいですよね。特に、新しく入る部員の“第一印象”って、大事ですから。先輩には、理想とする新入生像があるはずです。弘を呼んで話したのも、それを確かめたかったからじゃないですか?だったら、私のことも確認してほしいんです。私の第一印象が、先輩の価値観に合っているのかどうか――言葉で教えてください。質問は、三つでいいと思います」