第20話 : 決心 [4]
紗耶香は、何か得体の知れないものに惹かれていた。そして、その曖昧な雰囲気を、桃香は「要求を受け入れてくれた」と思い込んでいた――だが、それはただの錯覚にすぎなかった。
桃香は、その要求が理不尽だと感じているだけだった。紗耶香の計画が何であれ、自分が操り人形のように扱われることには耐えられなかった。
「ああ……私だけ悪者にして、あんたは逃げるつもりなんでしょ?」
桃香は、小説のために積み上げてきた信念を賭けてこの場に臨んでいた。だが――その真剣さをあざ笑うかのように、紗耶香はまるで悪ふざけをしているように見えた。
「そもそも、この喧嘩を始めたきっかけ、覚えてる? 誰が仲裁に入ったの? これは仲直りするための賭けだったんじゃないの? それなのに、私たちの間にさらに火をつけようとしてるようにしか見えない。……結局、何が欲しいの?」
紗耶香は、言葉に詰まった。
「それは……」
桃香は、今こそ言うべきだと感じて、続けて言った。
「最初に電話してきて、『そっちに入ろうとしてる新入部員って誰?』って聞いてきたの、あんたでしょ? だから教えてあげたんでしょ? ……それとも私が、何も聞かれてないのに、わざわざ電話して教えたって言いたいの?」
紗耶香は声を荒げて、強く否定した。
「そんな意味じゃないって!」
紗耶香を信じたい気持ちはあった。けれど、祐希との関係がこれ以上こじれることだけは、どうしても避けたかった。どんな理由があろうと、こんな形で終わるなら、すべてが無意味だ。残るのは、ただ――取り返しのつかない後悔だけ。
「じゃあ、そういう意味じゃなかったら何なの? こんな陰湿な揉め事に巻き込まれて、しかも犯人扱いされて――理由も知らされないまま受け入れろって言うの? 一生関わらない人ならまだしも、同じ部の仲間でしょ? 後になって私に文句を言いに来たら、どう説明すればいいのよ?」
「あとでちゃんと話す。でも今は無理。先に、どうしても確かめたいことがあるの」
ここまで話しても桃香が納得してくれないなら――もう、祈るしかない。紗耶香は、自分にできることはすべてやったと思った。
「今回だけでいい。知らないふりをしてほしいの。私、約束する。あとで必ず説明するから。きっと、あなたにも私の気持ちが分かる日が来ると思う。私、本気であなたを信じてる。そうじゃなきゃ、こんな決断、怖くてできなかったと思う」
二人は、無言のまま見つめ合った。
沈黙を破ったのは、桃香のため息だった。
桃香は、しぶしぶ受け入れることにした。ただし、一度だけという条件つきで。
「……わかった。でも、約束は絶対に守って」
紗耶香は、少し戸惑いながら首をかしげた。
「約束?」
桃香は、まだ完全には信じていないという気持ちを込めて、念を押すように言った。
「うん。あとでちゃんと説明するって、約束だからね」
必死の思いが通じたと感じて、紗耶香の表情がぱっと明るくなった。彼女は桃香の手をぎゅっと握り、上下に振った。感謝の気持ちがあふれていた。
「うん!誓うよ!」
紗耶香は、もう一度真剣な目で桃香を見つめ、その表情には揺るぎない決意がにじんでいた。
「それと……もう一つ。もし、その時が来ても納得できなかったら、何を言われても構わない。ちゃんと受け止めるから」
桃香もまた、短く答えた。
「そうだね」
二人が会話を終えると、ちょうどバス停に着いた。
やがてバスが到着し、二人は同じバスに乗り込んだ。
その頃、学校に着いた弘は、小説のテーマが決まらず、ひとり悩んでいた。
そこへ、栞奈がふたたび声をかけてきた。
彼女は、弘がノートの片隅にびっしりと何かを書き込んでいるのを目にした。
「何をそんなに熱心に考えているの?」
弘は頭をかきながら、気まずそうに答えた。
「小説の構想を練ってるんだけど……うまくあらすじが浮かばなくて……」
気になった栞奈は、弘の後ろから顔をのぞき込むようにして尋ねた。
「あらすじ? 何の小説?」
「実は、この学校の文芸部に入ろうと思ってるんだけど……ちょっと変わった入部条件があってさ。文化祭で小説を出して、生徒の投票で勝てば、入部できるんだ」
彼女はそれを聞いて驚き、大声を上げた。こんな重大なことを、どうしてこんなに平然と言えるのかと、思わず声が出てしまった。
「なにそれ!」
教室中に彼女の声が響き、周囲の視線が一斉にこちらを向いた。
彼も耳元での突然の叫びに驚き、唇に指を当てて『静かに』と促した。
「静かに……」
栞奈は教室中の視線に気づき、恥ずかしそうに声をひそめた。 弘は、自分の対戦相手が目の前にいるとは思っていないだろう。でも栞奈にとっては、もう自分が相手だってバレたようなものだった。
「あ、ごめんね……興奮して……」
数週間前まで小説に興味すらなかった弘が、突然こんなことを始めたのだから、栞奈が驚くのも無理はなかった。けれど、弘自身は、それをたいしたことだとは思っていなかった。
「なぜ?」
栞奈は対戦相手が誰なのか気になってはいたが、まさかこんなかたちで知ることになるとは思いもしなかった。
「いや……ただ……」
彼は首をかしげながら言った。
「これって、そんなに驚くようなことかな?」
栞奈は、なるべく平静を装って応じた。
「それで、いいアイデアは見つかったの?」
彼は、まるで何も知らないかのように淡々と答えた。
「いや……それで悩んでる」
自分が同じ立場だったら、きっと同じ反応をしただろう――栞奈はそう思った。
「そうなの?」
「うん。だから今日、その文芸部の人に会ってみようと思ってて。僕を推薦した人が、インスピレーションをくれるかもしれないって言ってたんだ。まあ、そんなに期待してるわけじゃないけど……ちょっと気になってさ」
また別の部員だなんて…… 栞奈の動揺をよそに、弘はさらりと言葉を続けた。 本当はすぐにでも、それが誰なのか確かめたかった。でも彼女は、できるだけ冷静を装って答えた。
「あ……本当? また別の部員なの?」
「うん」
これ以上彼と話していると、自分が相手だと気づかれてしまいそうで、栞奈はそれが怖くなり、そっと自分の席に戻った。
「うん!」
いつもと変わらない一日が過ぎ、やがて約束の時刻がやってきた。
弘は手早く荷物をまとめて、待ち合わせ場所へ向かおうとした。
栞奈もこっそりと教室を出て、距離を保ちながら彼のあとをつけた。
思ったよりも遠くまで歩いていく彼に、栞奈が少し焦りはじめた頃、公園の前で彼の足が止まった。
栞奈も、ここが待ち合わせの場所だとすぐに察した。
そこでは、同じ制服を着た少女が誰かを待っていた。
初対面で自分から声をかけるのは苦手だったけれど、その子が文芸部の部員で、自分を待っているのだとすぐに分かった。
彼がそっと先に話しかけた。
「あの、もしかして… 文芸部員?」
彼女はぱっと表情を明るくし、まるで旧知のように親しげに近づいてきた。
「あ! 君が、あの子が言っていた新入生?」
「ええ……まあ、その通りです」
「そうだね! 会えてうれしいよ。私は紗耶香」
「弘です。お会いできて嬉しいです。小説のインスピレーションをくれる人って聞いたんですけど……」
紗耶香は、祐希が弘を呼び出すためにどんなことを言ったのか気になっていたが、いざ聞いてみると、自然とうなずける気がした。
「ああ、そんなふうに誘ったんだ」
彼は首をかしげる。
「どういう意味?」
彼女はにっこり笑った。
「たいしたことじゃないから。気にしないで」
紗耶香自身がそう約束したわけではない。けれど祐希がそう言った以上、自分が弘の役に立たなければ――そんな漠然とした責任感が、心の奥に芽生えていた。
「とにかく、何かヒントをもらえるかもって思って来たの?」
彼もまた、自分の存在が相手に余計な気を遣わせてしまうことに、うすうす気づいていた。
「実は僕も、そんなに期待してたわけじゃないんです。ただ、文芸部の人って聞いて、気になって……」
「そう?」
「はい」
ほんの短い時間なのに、紗耶香は、自分が無駄に悩んでいたような気がしてきた。
「それなら、ちょっと気が楽だよ。お互い、同じような気持ちで来たってことだね。僕も、誰かにインスピレーションを与えるとかじゃなくて、ただ誰なのか知りたかっただけだから」
弘は、前から気になっていたことを確かめる絶好の機会だと思い、見逃すまいとしていた。
「ちょっと、聞いてみたいことがいくつかあって……」
すると彼女は、突然片手を上げて弘の言葉をさえぎった。
「ちょっと待って!」
「私たち、お互いに初めて会った仲じゃない?」
「はい」
「私たちはお互いをゆっくり知っていく必要があると思う」
「はい」
「いきなり質問攻めにしたら、気まずくならない?」
「はい」
「よし、よし! じゃあ、お互いに質問は3つまで! 第一印象を知るにはそれで十分でしょ? もし縁があってまた会えるなら、その時のために話すことを残しておこうよ!」
「はい」
「それじゃ……先に一つ、質問して。思いやりのしるしってことで!」
いざ質問しようとすると、すぐに一つ、気になっていたことが頭に浮かんだ。
「うーん……僕、誰かと競争して勝たないと文芸部に入れないってことになってるんですよね?」
「そうだよ」
「でも、僕…その相手が誰なのか、まだ知らなくて」
最初から、ちょっと困る質問だな……
「あ…それが最初の質問?」
「はい」
先に提案したのに、いきなり答えられないなんて……ちょっと申し訳ないな。
「それがね、私もまだ聞いてなくて答えられないんだ。ごめん。もともと桃香に伝えてってお願いしてたんだけど、ちょっと無愛想な人でさ……タイミングが合わなかったの。悪い人じゃないんだけどね」
その話を聞いた瞬間、弘の脳裏にある一人の顔が浮かんだ。もしかすると、それは――彼女しかいないのかもしれない。
「あ、そうですか?」
「そうなんだ……そっか、じゃあ、桃香が誰かって、まだ知らないんだね」
弘が知らないはずがない人。彼が文芸部に関わると決めた、その理由のひとつ――きっと、そういう存在だ。
「いいえ、なんとなく……分かる気がするんです」
「分かると思う?」
弘に今はっきりしているのは、それだけだった。
「はい。とにかく、彼女が指名した候補が……僕の相手ってことなんですよね?」
「そうだ!そうだ!」