第2話 : 冬休み [2]
「おはよう!」という声とともに、誰かが部屋に入ってきた。
紗耶香は明るい表情で挨拶し、張りつめていた空気を一瞬で和らげた。
桃香は、紗耶香が現れたことで雰囲気が変わったのをうれしく思った。
「やっと来たね、遅刻常習犯」
紗耶香は、自分がどれほど重要な場面に現れたのか知らずに、軽くそう言い返した。
「え? 私を待っていたの?」
もちろん、盗聴器を使っていない限り、そんなことを知るわけがない。
祐希もまた、紗耶香の登場で気まずい空気が和らいだことに気づいていた。
「そう、ちょうどいいタイミングで来たね」
桃香は、会話が脱線していくことに我慢できず、雰囲気を引き締めようとした。
「そろそろ本題に入ろうか。もうみんな集まったようだ」
祐希も淡々とした声でそう返した。
「そうだね」
紗耶香は、その気まずさに耐えられず、思わず口を開いた。
「ねえ、こんなつまらない空気、ずっとこのままなの?」
桃香は、紗耶香の表情と話し方が気に入らず、冷たく笑って肩をすくめた。
「こういうときこそ、あなたも真剣に文芸部の未来について考えるべきじゃない?」
紗耶香は桃香の冷淡な返事に気分を害し、眉をひそめたが、それでも表情には茶目っ気が漂っていた。遠い未来をいくら心配しても、何も変わらない。今大事なのは、文芸部の新しい芽が育つための土壌を整えることだ。それは、先輩として果たすべき当然の役割だった。
「うん、文芸部の未来は大丈夫だよ。今やるべきことにちゃんと取り組めば、きっとうまくいく」
紗耶香は両手をそっと上げて、平然とした表情で続けた。今やらなければならないことが山ほどあるのに、なぜそこまでの責任を背負い込む必要があるのか、彼女には理解できなかった。最近、無駄な心配ばかりしている気がする。
「今、目の前にあるものを楽しむことができれば、願っていた未来が近づくんじゃないかな」
祐希は彼女の答えに穏やかにうなずいた。いつも通りの彼女の姿に、ふと親近感を覚えた。
「そう、素直でいいね。それが君らしい答えなのかもしれない」
彼女は首をかしげた。
「私らしい答え?どういう意味?」
祐希はそれ以上何も言わず、静かに話を終えた。教える必要もないと思った。仮に教えても、彼女が変わるわけではないから。
「何もないし、気にすることはないよ」
祐希も、やはり深刻に悩むことはないと感じ、気持ちを和らげようとした。紗耶香の態度の方が、案外正しいのかもしれない。もしかしたら、答えは祐希が思っていたよりずっと単純で明快なのかもしれない。本当にそうなら、問題を複雑にしているのは祐希自身だろう。
「実はさ、ただ新入生の話をしていただけなんだよ」
彼女は期待感に満ちた声で話し始めた。
「ああ、そうそう!二人が卒業したから、新入生が入ってくるんだよね?どんな子たちが入ってくるんだろう?かわいい子がいるといいな〜」
第一印象で判断するのはよくないけど、興味を持つって大事だよね。文芸部に入る理由なんて、そのくらいの方が自然かもしれない。
「小説に関心がある人がいいんじゃないか?」
「それが文芸部を発展させる道だと思う。ただ笑って騒ぐだけじゃなくて、文学を通してもっと深い交流ができる場所にしたいんだ」
「基本的には、小説を書くことが得意な人が理想だと思う」
桃香の言葉は、祐希の価値観とは食い違っていた。そう気づいた祐希は、すぐに反論した。もちろん、小説を書く技術も大切だが、それよりもっと大切な何かを桃香は見落としている気がした。それが、少し寂しかった。
「私も実力の重要性には同意するけど、それが必ずしも最優先であるべきだとは限らないと思う」
桃香は祐希の反論が理解できなかった。文芸部において、小説を上手に書くこと以上に重要なことがあるなんて、全く思いもよらなかった。
「どういう意味?」
祐希は、ただ実力がないという理由だけで、本当に情熱を持っている人を遠ざけたくなかった。表面的な評価で才能を見逃すことが、どうしても許せなかった。彼は、文芸部に明るく前向きな空気を持ち込んでくれる人が心から必要だと思っていた。
「僕は、小説がどれだけ上手く書けるかより、その人が本当に小説を愛しているかどうかを基準にすべきだと思う」
桃香は一瞬、祐希の言葉に自分と共通点があるかもしれないと感じた。桃香にとって、時間をかけて身につけた実力こそが情熱の証だった。しかし、祐希の言葉が少し心に残った。
「あなたの言う“情熱”は、本物なのかしら?」
彼は、磨き上げられた宝石よりも、内に秘めた美しさを持つ原石に惹かれていた。
「私は、新しく咲く桜のような、純粋な情熱を持つ新入生を望んでいる。濁った水よりも、常に流れている澄んだ水のような人がいい」
彼は一歩も引かず、断定的な口調で言い切った。そして、彼女の信念が強いのと同じように、彼もまた自分の信念を譲らなかった。
「新入生にとって重要なのは、今どれだけ大きな花を咲かせるかではなく、将来どれだけ咲かせられるかだ」
目指している未来は同じでも、そこに至るまでの道筋が違う。誰が正しいのか分からないから、こうしてぶつかってしまうんだろう。そもそも、これは正解のない論争なのかもしれない。いくら話し合っても、考えが平行線のままじゃ、もはや“解決”なんて言葉も、どこか空しく思えてくる。
「やっぱり意見が違うみたいだね」
彼の言いたいことは分かっていても、どうしても納得できなかった。結局、無意味な口論で、疲れるだけだ。
「良い技術を得るために積み重ねた努力こそが、本気の証なんじゃないの?何が間違ってるっていうの?言葉だけなら、誰だって“喜んでる”とか“うまい”とか言える。でも、本当に努力した人は、結果でそれを示すものでしょ?だからこそ、その努力が認められるんだよ」
彼は表情を険しくして、即座に反発した。
「そんなふうに、結果だけで人を評価するなんて、僕にはできない」
紗耶香はこの論争が苦手だった。ぶつかり合うような言い合いが続くと、ただ聞いているだけで心底疲れてしまう。
「もう、やめてよ!私はただ、かわいい子たちがいっぱい来てほしいだけなんだからね!」
「誰を迎え入れるかって、それが文芸部の未来を決めるんだよ。それを話すために、僕ら集まってるんじゃない?」
彼女は眉をひそめて、まっすぐに彼を見返した。
「それって、入ろうとする人がいて初めて成り立つ話じゃない?誰も入りたがらない部に、私たちが『選ぶ』権利なんてあるの?そんな堅苦しい雰囲気じゃ、誰も来ようとしないってば」
彼もまた、彼女の言うことに納得せざるを得なかった。
「そうだね。その通りだよ。まず、新入生が入りたくなるような部を作らなきゃ」
「そうそう!それだよ!選ぶとか選ばないとかは、その後で考えればいいだけの話じゃん?」
祐希の反論にも、桃香は一歩も引かなかった。それは、意地とプライドのぶつかり合い――まるで薄氷の上を歩くような緊張感だった。
「とにかく私は、実力を重視して選びたい。実力って、努力の証だから。本気で頑張ってきた人じゃなきゃ、信じられない。“頑張ります”なんて、口で言うだけなら誰でもできるよ?少なくとも私は、そんな言葉だけの決意は受け入れられない」
祐希も一歩も譲れなかった。少しでも折れたら、負けを認めたみたいで嫌だった。
「ああ、そう?私は、純粋な夢を持つ新入生たちに、文芸部を盛り上げてもらいたい」
桃香も、同じような言葉の応酬にはもううんざりしていた。ただの意見の違いなら、とっくに終わっていたはずなのに。お互いの考えはもう理解しているのに、どう終わらせたらいいのか分からず、ただ言い合いを引きずっているだけだった。お互いを受け入れられないからこそ、終わる気配のない争いが続いていた。
「夢や希望を持った新入生に、余計な疑いをかけるなんて……澄んだ水を濁そうとしてるのは、むしろ祐希のほうじゃない?卒業した先輩たちだって、こんな形で文芸部を託したわけじゃないはずだよ。私は、この文芸部がそんなふうに変わってしまうのを、どうしても許せない」
「こんな部に入りたい人なんて、いるわけないじゃん……」
紗耶香は首を横に振り、ふたりを交互に見た。深く息を吐き、顔を曇らせながら視線を落とした。
「今日はこのへんでやめようか。これ以上話しても、気分悪くなりそうだし」
祐希も、もう言葉を交わす気にはなれなかった。
紗耶香は、もうこんな退屈な話を続ける意味なんてないと思っていた。二人の表情を見れば、どれだけくだらないことでイライラしているか、すぐにわかった。
「そうだね~、やめて、気分転換しようよ!ここでこうしていても、何かが解決されるわけじゃないでしょ?」
桃香は相変わらず皮肉っぽい口調で言い返し、視線を逸らして勢いよく立ち上がった。怒りを押し殺すように、一度も振り返らずにドアへと歩き出した。
「いや、私は先に行くね。遊びたいなら、二人でどうぞ」
紗耶香は桃香をちらっと見た後、笑顔で祐希にぴったりくっついた。
「じゃあ……私たち、デートってことになるの?」
祐希は慌てた顔で、紗耶香をじっと見つめた。
「ちょ、待って!勝手に決めないでよ!誰が行くって言ったの?」
「じゃあ、決まり~!」
紗耶香はにこにこしながら、祐希の腕にしっかりと絡みついた。祐希が観念するまで、絶対に離してあげないつもりだった。
「それでは、二人で楽しい時間を過ごしましょう!邪魔者はここで退場したほうがいいわね」
桃香もそう言い残し、そのまま立ち去った。
祐希は紗耶香につかまれたまま、もがいた。桃香がああやって逃げるのは、なんだかズルいと思った。
「おい!なんで行っちゃうの?」
桃香はため息混じりに手をひらひら振り、「あとはよろしく」とでも言いたげに背を向けた。
「ああ、面倒くさいなあ!」