第19話 : 決心 [3]
トイレで顔をさっと洗ったあと、キッチンから食パンを取り出してトースターに入れる。部屋に戻って制服を着て、鏡を見ながら着こなしを整える。登校の準備を終えるころには、ちょうど食パンがこんがり焼き上がっている。部屋の中に香ばしいパンの匂いが広がり、お腹がぐうと鳴りそうになる。カバンを持って食卓に向かう。片手でパンを持ち、もう一方の手で携帯を取る。新入部員から連絡が来るのではないかと期待して、電話を手から離せない。パンを口に運びながらも、電話が鳴ればすぐ出られるように気を張っている。
ちょうどそのとき、着信音が鳴り響いた。
番号も確認せず、期待に胸をふくらませて電話に出た。
呼び出し音が途切れると同時に、相手の小さな声が聞こえた。
「本当に早いね」
「もちろん!待っていたよ!」
そんなに喜んでくれるなんて、ちょっとびっくりした。
「ほんとに? 私からの電話なのに? ちょっと意外かも……」
紗耶香はうれしさを隠すことなく、声に出して笑った。
「うん、うん!」と勢いよくうなずく。
まさに「鉄は熱いうちに打て」ってやつだ。
「よかった。それじゃ、今すぐ会おうよ」
紗耶香も、相手が誰なのか早く確かめたくて、そわそわしていた。
「今どこ?」
興奮気味の声をさらりと受け流して、淡々と答えた。
「家の前」
鳥肌が立つ。確かに出発するばかりだという意味だろうが、今家の前にいるという意味ではないだろう。
「君の家の前?」
言いたい気持ちをぐっとこらえ、顔を見るまでは我慢する。
「君の家の前だ」
見たこともない相手が、うちの前にいるなんて信じられない。誰? どうしてうちの場所が分かったの?
「うちの前って?どうして場所が分かったの?」
これ以上ぐずぐずするのも面倒で、とにかく相手を外に引っ張り出すことにした。
「とにかく出てきて」
電話を片手にドアへそっと近づき、半信半疑のまま隙間から外をのぞく。
「あ……分かった」
紗耶香はすぐにドアを大きく開け、眉をひそめる。
「えっ、桃香?なんで?」
「なにそれ、期待してたの私じゃなかったの?そんなにガッカリした顔しないでよ。せっかく来たのに、ちょっと寂しいな」
紗耶香は電話を握ったまま、目の前の相手をまじまじと見つめる。なんて間抜けなんだろう、と自分でも思う。
「じゃあ、この電話の相手って誰なの?」
桃香も眉をひそめて答える。
「もちろん私だよ。見てるのに信じられないの?今、こうして電話で話してるじゃない」
紗耶香はまだ信じきれずに聞き返した。
「本当?」
こんなの、言い合ったって仕方ない。目でちゃんと確かめたほうが早い。
「本当だってば。信じられないなら、番号確認してみなよ」
手に持った携帯をじっと見つめる。
「あ、本当だ」
がっかりした理由は自分でも分からない。でも、これ以上立ち止まっているわけにはいかない。
「そんなにガッカリした顔して、どうしたの?会いたかったんじゃなかったの?」
紗耶香の不安な気持ちが消えないうちに、桃香は急かすように言った。
「うん、準備はできてるよ」
紗耶香は家に駆け戻り、パンをくわえて、カバンを片手に飛び出した。
紗耶香はカバンを持ち直し、ちらっと桃香の表情をうかがう。
「ところで、どうしてここまで来たの?」
「ちょっと、さっきと言ってること全然違うじゃん?あんなに待ってたって言ってたのに、今さら疑うの?」
虚しい期待をしていた自分が恥ずかしくて、紗耶香は何も言い足すことができなかった。
「その時は…」
紗耶香の表情を見れば答えは明らかなのに、それでも言い訳をさせようとするのは酷な話だ。
「いいよ。とりあえず歩きながら話そ。言いたいことがあっても、これ以上もたもたしてたら遅刻しちゃうし」
結局、口火を切ったのはやっぱり紗耶香だった。
紗耶香は、少しでも失望を晴らしたくて、理由をちゃんと知りたいと思った。
「で、何が目的?ただ一緒に登校したくて来たって、信じられないんだけど。朝っぱらからうちまで来た理由、何?」
冷静な口調と早足な歩き方が、桃香の複雑な気持ちを表していた。
「その理由、むしろあなたのほうが分かってるんじゃない?それって、私が言いたいことなんだけど?」
紗耶香は目を丸くして、慌てて桃香のあとを追った。
「どういうこと?」
桃香は、親切とも怒りともつかない微妙な笑みを浮かべながら、はっきりと言った。
「――何が欲しいのか、ってこと」
紗耶香には、桃香が何を言おうとしているのか、まだはっきりとは分からなかった。何が問題なのかも、まるで見当がつかない。ただ、どこか後ろめたさがあって、理由もないのに胸が苦しかった――けれど、それを口にする気にはなれなかった。
「……何が欲しいの?」
紗耶香が本当に分かっていないのか、それとも知らないふりをしているのか。どちらにせよ、その態度が桃香の苛立ちをさらに煽ったのは確かだった。紗耶香がここまでこだわるのには、何か理由がある気がした。
「とぼけないで。新入部員のこと、あれほどしつこく聞いてきたじゃない。私が“君と合いそうな人だよ”って紹介した時、どう思ったの?――本音は、何?」
紗耶香はその言葉に驚いて、思わず問い返した。胸の奥に、不安がひやりと広がる――計画が崩れそうな予感。
「もしかしてあの子と電話したの?」
そのひと言で、桃香の中に昨夜の記憶がありありと蘇る。胸が締めつけられるが、どうにか感情を抑えて、静かに答えた。
「うん。望んでなかったけどね。あの子が突然、夜遅くに電話してきて……どうしてそんなことを言ったのかって、問い詰めてきた」
桃香の言葉に、紗耶香の不安が一気に膨らむ。落ち着いてなんていられない。何を話されたのか、気になって仕方がない。
「それで?私のこと……言ったの?」
怒るべきなのはむしろ自分のはずなのに、答える立場にいるのはいつも自分――そんな理不尽さに、桃香は戸惑っていた。
「いや……呆れて、言葉が出なかったよ。ただ聞いてた。何を話したかちゃんと覚えてないと、君に問いただすこともできないだろ?」
桃香の素直な返答の裏に、何を考えているのか読み取れない。紗耶香の胸には、自分の正体がばれるのではという不安が広がった。
「それで?」
桃香は感情に飲まれまいと、意識して落ち着いた口調を保つ。
「だから来たの。君が何を考えてるのか、ちゃんと聞きたくて」
紗耶香はそれを聞いてやっと胸をなで下ろす。
「あ、よかった」
「何が“よかった”の?」
紗耶香の顔が、ぱっと明るくなる。
「私がやったってこと、祐希には言わなかったんだね。……よかった、ほんと。もう少しでバレるとこだったよ」
紗耶香の不意の笑いが、桃香の胸をざわつかせる。それはまるで「今度は私が問いただす番」と告げる信号のようだった。
「笑ってるけど、どういうつもり?……自分が何したか、わかってる?」
桃香の詰め寄るような声にも、紗耶香は軽く笑って受け流す。
「もちろん分かるよ」
紗耶香のあっけらかんとした返事に、待ってましたとばかりに桃香が詰め寄る。
「じゃあ、それなりの理由があるはずでしょ?」
桃香が明らかに苛立っているのを感じながらも、紗耶香は平然と言った。
「あ……理由? ただ、誰なのか気になっただけ」
その返事はあまりにも単純すぎて、答えになっていないようにも思えた。
桃香はその一言を聞くために、わざわざ家まで来たのかと思うと、やりきれない。
紗耶香は自分のことばかりで、桃香の気持ちに少しの誠意も見せない。――そんな返事、信じたくもなかった。
「そんなバカみたいな嘘、私が信じると思ってるの?一度ならともかく、二度はないよ」
紗耶香は、自分には非がないと言わんばかりの態度を崩さない。
ここで素直に謝ったら、まるで自分が全面的に悪いみたいじゃないか――それが嫌だった。
「ああ」
紗耶香の言葉に、桃香は思わず苦笑した。
「そんなに簡単に諦めるほど大したことないと思っていたら、ここまで来もしなかった」
紗耶香は、そんなふうに責められることが悔しくて、抗議するように言葉を返した。
「でも、これは本当に嘘じゃない。本気だよ」
桃香は耳を疑った。――今の、聞き間違いじゃないの?
「何だって?」
「気にならないの? あの子がどんな子か、一度会ってみたいだけ。本気なんだよ、私は」
信じられない。でも――信じるしかないのかもしれない。
「ところで、どうしてあえてこの方法を選ぶの?ただ直接聞いて解決するだけではだめだということ?理由は何だろう?文芸部員で友人の君がどうして私にこんなことができるの?私を賭けで勝とうと卑劣な手口や使う良心のない奴にしてまで何を得たいの?」
紗耶香も本当は言いたかった。でも今はだめだ。
今話したら、桃香の怒りをさらに煽るだけ。すべてが台無しになる。
――桃香が、自分で気づくまでは。
「本当に、ごめん。でも……理由は今は言えない。絶対、後でちゃんと話すから!」
桃香は首をかしげた。
本当に意味があるのか、それともただ逃げてるだけなのか――どっちなのか、見極められない。
「後で?」
「よし!後で!時がくればすべてを打ち明けると約束するよ。その時まで待ってほしい。君が私の意味を理解できる時に必ず教えてあげる」
自分がそれを、本当に信じたいのかどうか――桃香には、まだ分からなかった。
「それはどういう意味?」
無理なお願いだって、分かってる。
だからこそ、こうやって必死に頼むしかなかった。
「今言っても、君には分からないと思うから」
聞いてるうちに、なんだか呆れてきた。
よく考えてみればみるほど、そんな話が通るとは思えない。
「え?」
紗耶香は両手をぎゅっと握りしめ、哀れそうな目で桃香に顔を近づけた。
「だから……一度だけ助けてくれ」
桃香はその切実な表情にたじろぎ、思わず一歩後ずさる。
「助けてって?どういうこと?」
今、紗耶香には桃香の協力がどうしても必要だった。
でも、変に言い訳して説得するより、こうしてストレートに頼んだ方がいい。
正当化なんてしようとすれば、かえって言い訳ばかりが増えるだけ。
――だったら、最初から単純に。これが一番、分かりやすい。
「そう、一度だけ……知らないふりをしてほしいの」
二人の間に、しばし重たい沈黙が流れた。