第18話 : 決心 [2]
やはり祐希としては、強く否定するしかなかった。
「絶対違うよ!」
紗耶香からすれば、祐希の言い分は妙な自己正当化に見えた。けれど、目的さえ果たせれば、そんな理屈はどうでもよかった。
「じゃあ見せてよ。どうせあとで知ることになる相手でしょ?隠しても無駄だよ。小説や映画を宣伝する時だって、主人公くらいは教えてくれるでしょ?」
祐希は沈黙で返した。
曖昧な態度を取る祐希に不満を感じた紗耶香は、過去の出来事を持ち出して彼を焦らせようとした。
「最後まで言ってくれないってことだよね? それじゃあ仕方ないね。桃香に、あの女の子のことをまた聞いてみるよ。本屋で会ったときの面白い話もしてくれたしね」
その瞬間、祐希は思わず叫んだ。彼にとって、それは最悪の展開だった。
「あ! 絶対! 絶対だめ。絶対!」
「どうしてそんなに興奮するの?そんな運命みたいな出会いを、私が話すのがそんなに恥ずかしいの?」
紗耶香は、二人の間に何かあると確信していた。話を聞きたい相手は桃香ではなく、今電話している祐希だと分かっていた。だからこそ、本心でもないことをあえて口にしているのだった。
「なんだよ、なんだ……」
栞奈が桃香の味方だったと、紗耶香に知られるのが何より怖かった。挑発だと分かっていても、そこだけは越えてほしくない一線だった。
「ケーキまで買ってあげたのに、こうするの?」
いまの紗耶香には、そんな祐希の愚痴なんて通じるはずがなかった。
「う〜ん……思い出せないなあ。どのケーキのこと?」
祐希はどうにもならない状況に頭を抱えていた。
「こんなの、ずるいよ」
教えてもらえないとなれば、余計に気になってしまうのが人間というものだ。
「その子が、桃香に知られちゃいけない相手だったらどうするの?」
「それまでは秘密にして。投票のときまで」
「やっぱり合ってたんだ? その女の子が?」
紗耶香のしつこさに負けまいと、祐希も意地を張った。
「絶対違う!」
疑いを晴らすには、こうやって直接会わせるのがいちばん確かだ。無理なお願いかもしれない。でも、諦めるわけにはいかない。自分にそう言い聞かせて、「これは正当なお願いなんだ」と無理やり自分を納得させた。
「じゃあ、見せてよ!その子じゃないって、私の勘違いだったって証明して!」
空気が、ひんやりと静まり返った。
まずその沈黙を破ったのは祐希だった。
「はあ…」
祐希がどんな反応をするのか、紗耶香は気になって仕方がなかった。
「ため息?急にそんな……そこにどんな意味があるの?諦め?それとも怒り?」
祐希は、仕方なく口を開いた。
「わかった」
紗耶香は、その人に会えるかもしれないという期待で胸が高鳴った。
「あー、あのため息ってOKって意味だったんだ!よし、楽しみにしてるからね!」
紗耶香は電話を切った。もう、目的は果たしたから。それ以上は何も聞きたくなかったし、何も言わせたくなかった。
紗耶香には堂々たる承諾に見えたかもしれないが、祐希にとって、あのため息は「降参」に近かった。
紗耶香が電話を切ったあと、祐希の胸に残ったのは、ただ気まずい後味だけだった。 もし真実を隠し通せるなら、それが一番いいのかもしれない。弘の連絡先さえ渡せば済むと思っていたけれど、それは大間違いだった。 問題は、連絡先じゃない。紗耶香がなぜ弘に会いたいのかも、二人が何を話すつもりなのかも、祐希には分からなかった。「ただ気になるだけ」と言うけれど、それが本音かどうか——それは彼女しか知らない。
このまま何もしなければ、事態が良くなるはずもない。だからこそ、決断が必要だ。 祐希は今の状況で、自分にできることを考えてみた。でも、結局はふたつしかなかった。桃香に連絡して、どうして紗耶香にこんなことを言ったのかを問いただすか、あるいは弘に連絡して紗耶香との約束を取りつけるか。 どちらも気が進まなかったが、悩んだ末に、祐希は弘と約束を取りつける方を選んだ。
でも、それをどう切り出せばいいのか?
自然に切り出そうと、何度も自分に言い聞かせた。でもダメだ。どう考えても「いきなりすぎるだろ」って、自分でツッコミたくなるような内容だった。
やむを得ない選択だったけれど、祐希は、ただ途方に暮れるしかなかった。
「はぁ……どうやって切り出せばいいんだろう」
一方、弘はこの小説で何を伝えるべきか悩んでいたが、いつの間にか居眠りしていた。騒がしい着信音で目を覚ました弘は、番号も確認せずに電話を取った。
「もしもし」
電話越しに、弘の疲れた声が伝わってくる。
「小説、どう?進んでる?」
弘は顔をしかめ、頭をかきながら答えた。
旅の終わりに祐希に「自分の思いを小説に書きたい」と堂々と言った。だが、いざ書こうとすると、しっくりくる言葉がどうしても見つからなかった。
「それが……うまくいかなくて」
正直、祐希はそうなるんじゃないかと思っていた。あのときの弘の言葉が本気だったとしても、すぐに形にするのは難しいだろうと。
「そう?」
やる気はある。でも、言葉が出てこない。ただ、もどかしさだけが弘の中に募っていた。
「はい……インスピレーションが足りないっていうか、自信がないのかも……いや、才能がないのかもしれません」
弘にはちょうど助けが必要そうだったので、祐希は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「誰か、アドバイスをくれる人がいたほうがいいかも、って思ったりしない?」
原因がよくわからないまま、ただ行き詰まっていた弘にとって、祐希のその言葉は少し気になる響きを持っていた。
「誰か、心当たりがあるんですか?」
弘が好意的に受け取ってくれたのは、ありがたかった。
「ええ、実は……」
ありがたさを感じる一方で、どこか落ち着かなかった。弘がどう受け取るか——その先が読めなかった。
「それって、誰なんですか?」
「文芸部にもうひとり、部員がいるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、弘の目が見開かれた。
「まさか……俺が思ってる……あの部員?」
以前、桃香と交わした会話が頭をよぎり、胸の奥にモヤが広がった。
「正直、あんまり励ましてくれるタイプには見えませんでしたけど」
弘が身構えるのを見て、祐希は慌てて、誤解を解こうとした。
「ああ、あの子じゃないよ。もうひとり、別の子がいてさ」
「あ……そうですか?」
弘の警戒心が少し緩んだその隙を逃さず、祐希は本題に入る。
「うん、本当に別の子。新しく文芸部に入ってくるって言ってて、ちょっと気になってるみたいなんだ。少しだけ会って、話してみるっていうのはどう?」
「別の部員に会える」という言葉に、弘の好奇心はくすぐられた。
「ああ、それはいいかもしれませんね」
弘が余計なことを勘ぐる前に、祐希は一気に話を進めようとした。
「じゃあ、後で連絡先をメッセージで送るね」
思いがけない提案ではあったが、弘はあっさりと頷いた。
「はい。ありがとうございます」
弘は短い通話を終え、胸の奥に残る不安を振り払った。もう、引き返せない。 祐希から届いた番号にすぐ電話しようか迷ったが、疲れすぎていたため、明日にすることにした。
その頃、祐希は携帯をベッドの端に放り出して、暖かい布団に身を沈めていた。
祐希は明かりの落ちた部屋で、目を閉じて眠ろうとした。
布団をかぶって悶々としているうちに、気持ちが抑えきれなくなった祐希は、勢いのまま桃香に電話をかけた。
祐希は、桃香が電話に出るなり食ってかかった。
「そこまでして勝ちたいわけ?」
桃香は、夜中にかかってきた突然の電話にただ戸惑っていた。
「もしもし? 何? どうしたの?」
一瞬、間違い電話かと思って着信を見直すが、そこにはちゃんと祐希の名前があった。
「ちょっと、どうしたの? 何か変なものでも食べた?」
からかうような調子に、祐希の怒りはさらに膨れ上がった。
「何を言ってるか、そっちのほうが分かってるはずだよね?」
桃香には何がなんだか分からず、問い返すしかなかった。こんな時間に電話をかけてくるなんて、ただ事じゃないのは察せられた。でも、その理由がまったく見えてこない。
「いきなりそんなこと言われても、意味わかんないよ」
「まだ知らないふりをする気?」
なぜそんな態度を取るのか、もう我慢ができなかった。できることなら、本音をそのまま覗いてみたかった。
「何の?」
とぼけたままの桃香に、祐希の我慢は限界を超えた。
「わざわざこっちから言わなきゃダメ? あんたが紗耶香に言ったんでしょ。“気になる子が祐希の味方についた”って。あの話」
祐希の言葉は、桃香の混乱にさらに拍車をかけるだけだった。
「……ほんとに、何の話?」
一方で、祐希には、しらばっくれている桃香の態度がどうにも許せなかった。
彼女の口から返ってくるのは、さっきから同じ言葉ばかりだった。
「確かに、“どういう意味?”って聞いたよね?」
桃香の口調は、まるで他人事のように平然としていた。それが祐希の怒りに火を注いだ。
「知らないふりをするな」
「知らないふりをするな」と言われた桃香は、むしろ自分の聞き間違いであってほしいと願った。
「え? ……言葉が出てこないみたいだね」
相手の反応が荒唐無稽なのは祐希も同じだ。
「言うことがないみたいだね? 」
彼女は大きなため息をつきながら心を落ち着かせる。
ここで何を言っても、祐希の怒りをさらに煽るだけだ。桃香は、まず一つひとつ状況を整理する必要があると感じた。
「それであの子が何と言ったの?」
「何て言ったと思う? “誰なのか見せてほしい”ってさ。――君が頼んだんでしょ? あの子に」
桃香は携帯を持つ手に力が入り、知らず爪が背面に食い込んでいた。
「それで? どうなったの?」
桃香には、祐希がどう返答したのか想像したくなかった。
「どうなったと思う?」
今の祐希の声音を聞けば、答えは明らかだった。
「まさか、受け入れたの?」
祐希は、恨みと不満が入り混じった口調で答えた。最初から言いたかったことを口にして、少し胸はすっきりしたものの、どこかで自分が負けたような気もしていた。
「そうだね! 本当にありがとう。新しい友達まで紹介してくれるなんて、君って本当に親切だよね?」
急に刺々しくなった祐希の声にも、桃香は眉一つ動かさなかった。
「まあ……それは個人の選択だし、事情もあるでしょ。人の心なんて、分かっているつもりでも分からないものだから。だから問い詰めるつもりはなかった。でも——そこまで嫌なら、きっぱり断ってもよかったんじゃない? なのに、どうして受け入れたの?」
その問いに、祐希は何も言い返せなかった。喉の奥に引っかかった言葉だけが、胸の中で渦を巻いていた。
「そ…それは…」
祐希の言葉が途中で止まった瞬間、桃香は眉をひそめた。――やっぱり、何かある。
「何か理由でもあるの?」
祐希は黙りこみ、視線をさまよわせた。
「……ああ。理由なんて、ないよ」
「じゃあ、なんでなの?」
祐希はどうしてもその理由を明らかにできない。 これは自分の墓を自分で掘る格好だ。
彼はただその会話から逃げるように電話を切ってしまう。
桃香は通話が切れた画面を見つめ、ふっと鼻で笑った。けれど、内心では複雑な感情が渦を巻いていた。 このまま黙っているつもりはなかった。――紗耶香に聞こう。きっと彼女なら、何があったかを知っている。
「え?」
混乱の夜を越えて、静かな朝がやってきた。
真っ先に目を覚ましたのは紗耶香だ。
昨夜、連絡を待ちながら眠ってしまったことを思い出す。
期待を込めて携帯を開いたが、そこに通知はなかった。 期待が外れて残念そうに眉をひそめ、時計を見る。普段より少し早く目覚めたようだ。そのまま横になろうかとも思ったが、今寝たらきっと起きられない。遅刻はしたくない。重い体を何とか起こして、学校に行く支度を始めた。