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第16話 : 舞台探訪 [6]

 彼らはホテルを出て、みなとみらいへ向かった。

 この旅でいちばん楽しみにしていた花火は、見逃すわけにはいかなかった。

 まだ花火は始まっていなかったが、周囲の屋台街はすでに多くの人で賑わっていた。道の両側に並ぶ屋台からは、香ばしくて食欲をそそる匂いが漂っていた。


 弘は少しでも良い場所を確保しようと急いでいたが、屋台の香ばしい匂いにつられて思わず足を止め、湯気を立てるたこ焼きを一つ買ってしまった。

 海のそばに、花火がよく見える場所を見つけた。視界を遮る建物はなく、街の灯りも気にならない。まさに絶好の観覧スポットだった。


 肌寒い夜風に吹かれながら、アツアツのたこ焼きを口に運んだ。

 やがて、空に大きな音が響き渡り、色とりどりの花火が次々と打ち上がった。

 その美しさに見とれながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。


 「来てよかった」


 「ええ……花火、本当にきれいですね」


 「今日は、どうだった?」


 「……正直に言ってもいいですか?」


 「もちろん」


 「正直に言うと……少しだけ、残念だったかなって」


 「やっぱり、計画通りにいかなかったから?」


 「はい。でも、だからこそ、今こうして花火を見られていることが、すごく嬉しいんです。ようやく、予定していたことのひとつが叶った気がして。だから、せめて、明日くらいは思い通りにいってくれたらいいなって思います」


 花びらのように舞い散った光が空から消えると、再び夜の闇が広がった。

 二人は、それをひとつの合図のようにして、静かに立ち上がった。


 ホテルへ戻る道すがら、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。

 チェックインのときよりも、部屋が少しだけ温かく感じられた。きっと、体だけじゃなく心も疲れきっていたせいだろう。


 疲れた一日が終わり、やがて旅行二日目の朝がやってきた。


 弘は、遅めの朝にカーテンの隙間から差し込む柔らかな日差しに誘われて、自然と目を覚ました。ベッドの上で体を起こし、あくびをしながら大きく伸びをした。


 「おはよう」


 「おはよう」


 まだ夢の名残の中、トーストとコーヒーで軽く空腹を満たしながら、ぼんやりと横浜の朝の街並みを眺めた。穏やかな朝を味わおうとする気持ちとは裏腹に、通りを足早に行き交う人々の姿に、胸がそわそわした。


 あるいは、それは逆なのかもしれない。昨日、計画していたほとんどのことができなかった。その事実を前に、心のどこかで言い訳を探しているだけなのかもしれない。残念ではあるけれど、もうすぐチェックアウトの時間だと思うと、今から出かけるには中途半端な気がした。


 ちょうどそのとき、部屋のドアにノックの音が響き、聞き覚えのある声がした。


 「いらっしゃいますか?」


 祐希が玄関へ向かい、ドアを開けると、昨日会ったホテルの職員が明るい表情で立っていた。どうやら、何か伝えたいことがあるようだった。


 「こんにちは」


 「本日のチェックアウトは、何時ごろを予定されていますか?」


 「えっと、二時ちょうどにしようかと思っています」


 「昨日はチェックインが遅くなってしまい、こちらの対応が不十分だったかもしれません。ささやかですが、お詫びとしてチェックアウトのお時間を延長させていただきます」


 「本当ですか?」


 「はい。本日はお部屋に次のご予約がございませんので、少しゆっくりお過ごしいただけます。ほんの気持ちですが、昨日のお詫びになればと思いまして」


 「それはありがたいです。おかげさまで、行きたかった場所にも立ち寄れそうです」


 二人はもう迷わないと心に決め、すぐにホテルを後にして、まっすぐベイブリッジへと向かった。


 その頃、栞奈は山下公園を静かに歩いていた。


 みなとみらいへ戻ろうとしたとき、昨日の警察官の言葉がふと頭をよぎり、胸に不安が広がった。


 目を向けると、誰かが茫然とした様子で地面に座り込んでいた。そのすぐそばを、一人の男が足早に立ち去っていくのが見えた。あんなに急いでいるなんて――もしかすると、昨日のスリかもしれない。


 栞奈は直感に突き動かされ、男のあとを追いながら、警察から聞いていた番号に急いで電話をかけた。


 しかし、いくら待っても応答はなく、コール音だけが虚しく響いた。焦りが募った。この状況では電話は無理だと判断し、現在地と相手の進行方向を簡潔にメッセージで送り、視線を前方に戻した。


 男との距離はなかなか縮まらない。このままでは追いつけないと感じた彼女は、脇道を使って先回りすることにした。


 夢中で走っていた男は、やがて息を切らしながら足を止め、ふと後ろを振り返る。だが、そこにいたはずの彼女の姿は消えていた。


 辺りを見回すが、どこにもいない。


 「……ふぅ。諦めたか? どうやら撒けたみたいだな」


 安堵の吐息を漏らしたその瞬間、男の目の前に息を切らせた栞奈が現れた。


 「気を抜くには、まだ早いよ。――ゲームは、まだ終わってないから」


 その声に男は目を見開き、思わず正面を見た。


 「なっ……どうしてここに――?」


 男がじりじりと後ずさり、逃げ出そうとした――その瞬間、背後から誰かが近づき、その肩をがっちりと掴んだ。


 ――栞奈の通報を受けて駆けつけた警察官だった。


 「とりあえず、警察署までご同行いただけますか?」


 制服姿の警察官が淡々と告げると、男は観念したように肩を落とした。


 その様子を見届けた栞奈は、にっこり笑って歩み寄った。


 「……ちょっと来るの、遅かったんじゃないですか?」


 「いや、それにしても見事でした。スリを追いかけて捕まえるなんて、なかなかできることじゃありませんよ」


 「まぁ、大したことじゃないですよ。――この辺の道なら、だいたい覚えてますから」


 警察官は深く一礼し、「ご協力、ありがとうございました」と丁寧に礼を述べた。


 そしてその朗報を弘にも伝えようと、すぐに携帯を取り出し、電話をかけた。


 ――その頃。


 この出来事をまだ知らない弘と祐希は、ベイブリッジの上をのんびりと歩いていた。午後の光に包まれ、風に身を預けるようにして、穏やかな時間を味わっていた。


 かねてから訪れたかった場所に立ち、胸の奥に静かに広がる安らぎと満足感を味わっていた。思っていた以上に、穏やかで優しい感動だった。


 海風が頬を撫で、開けた景色を眺めていたそのとき――弘のポケットで携帯がけたたましく鳴った。


 ディスプレイを覗いた瞬間、昨日の警察の番号だとすぐにわかった。


 スリの件かもしれない。

 期待と同時に、嫌な予感も胸をかすめた。


 弘は軽く息を呑み、慎重に通話ボタンを押した。


 「……もしもし?」


 「ご安心ください。スリは無事に確保されました」


 電話口の落ち着いた声に、弘の胸の奥にこわばっていたものが、すっとほどけていく。


 「……本当ですか?」


 「はい。財布は横浜駅前の警察署でお預かりしています。お時間がありましたら、なるべく早めにお越しください。協力してくださった方も、署内でお待ちいただいています」


 もう戻ってこないだろうと、どこかで諦めかけていた弘は、思わず目を見開いた。


 「……はい。もう戻らないものだと思っていました。でも、まだ運が残っていたみたいです」


 嬉しさと驚き、そして安堵。泣きたいような気持ちまで込み上げてきて、自分でも胸のうちをうまく掴みきれなかった。せっかくここまで来たのに、また戻らなければならないという現実が、まだ少し信じられなかった。


 弘は、そっと祐希に視線を向けた。


 「スリを捕まえてくれた方が、署で待ってるそうです。……早めに行って、お礼を伝えたほうがいいと思います」


 「産経園に行けないのは残念だけど……それなら、戻るのが一番かもしれないね」


 「ええ、その方がいいです」


 祐希は少し考えてから、ゆっくりとうなずいた。


 「警察署に寄ったら、そのまま東京に戻ることになるかもしれないけど……」


 「せっかく捕まえてくださったんですし、お礼も言わずに帰るなんてできません。待ってくださっているのに、時間を無駄にさせたくないです。……産経園は、今回は諦めます」


 「それでもいいの?」


 「はい、大丈夫です。少し残念ですけど……でも、十分に楽しめましたから」


 その頃、横浜駅前の警察署では、栞奈が応接室で静かに待っていた。


 「私に、何か他にできることはありますか?」


 そう尋ねると、警察官は穏やかな笑みを浮かべながら首を横に振った。


 「いいえ、とくに今はありません。もうすぐ持ち主の方がいらっしゃると思います。それまでお待ちいただけるとありがたいです。――その方も、お礼を直接伝えたいとおっしゃっていまして。もしかしたら、ちょっとしたお礼の品などもあるかもしれませんよ」


 もちろん、補償を期待してのことではなかった。でも、財布の持ち主がどんな人物なのか――そのことが少し、気になっていた。


 「……その財布、少し見てもいいですか?」


 彼はそっと彼女に財布を手渡した。


 「はい、どうぞ」


 彼女は財布の中を覗き込み、持ち主と思われる写真を見た瞬間、わずかに目を見開いた。だがすぐに、微笑み、財布を警察官に返した。


 まるで何事もなかったかのように、そっと席を立った。


 「申し訳ありませんが、先に失礼いたします」


 警察官は不安そうに首をかしげながら、声をかけた。


 「大丈夫ですか?」


 胸のざわつきを必死に抑え込み、平静を装った。


 「……いえ、大丈夫です。ただ、急に思い出した用事があって、これ以上は待てなさそうで……」


 「何か……大事な用事を思い出されたんですか?」


 確かに、弘が今週末に旅行に行くことは知っていた。けれど、その行き先が横浜だとは――財布の中の写真を見ても、まだ信じられなかった。弘が旅行の誘いを断った理由も、おそらくこれに関係しているのだろう。


 栞奈はそのことに気づいているからこそ、今ここで顔を出すのは、弘の旅に水を差すようなものだと感じていた。


 一見すれば、財布を届けた恩人としての再会は、きっと喜ばしいはずだ。

 けれど、あまりに偶然すぎる。どこかに裏があるのではと疑ってしまい、いい結果にはならない気がした。


 きっと、互いに戸惑い、気まずい空気が流れるだけだろう。


 「はい。たぶん……その人の方が、私に会いたくないのだと思います」


 「それは……どういう意味ですか?」 


 弘がわざわざ横浜まで来た理由を、栞奈は考えずにはいられなかった。


 まさか、あの小説のせい……?


 それとも、ただ海を見たかっただけ……?


 「そうですね……正直、よくわかりません」


 本当に偶然なのだろうか?誰かが仕組んだ出会いなのではないか?


 いや、そんなことは今はどうでもいい――


 このまま時間を引き延ばせば、余計な誤解を招くばかりだ。


 旅行の誘いを断ったことが気まずくて、邪魔をしに来たと思われるかもしれない。


 感謝の言葉も届かず、まともに顔を見られる自信もなかった。


 でも、互いにそれを問いただすつもりはなかった。


 ただ……どうしてあなたが、ここにいて、また私と向き合っているのか。


 それだけが、どうしても頭から離れなかった。


 「偶然に見えて、実は縁だったって気づくのも……やっぱり、その時が来ないと無理なんですね」


 栞奈は笑顔のまま、何か罪でも犯したかのように、そそくさとその場を去ろうとしていた。


 「それでは、失礼します。時間がなくて……もう、長くはいられませんので」


 一方その頃――

 結城と弘は、財布が見つかったと聞いて胸を躍らせながら警察署へ向かっていた。


 しかし、すでに栞奈の姿はどこにもなかった。


 警官は二人に気づくと、穏やかな笑みを浮かべて声をかけた。


 「ああ、来てくれたんですね」


 そう言って、にこやかに二人に歩み寄った。


 「こちらがお預かりしていた財布です。中身をご確認ください」


 祐希は財布の中身が無事であることを確認し、安堵の表情でポケットにしまった。


 「はい」


 「本当によかったですね」


 弘は一息ついてから、気になっていたことを口にした。


 「ところで……あの方は、どこに?」


「それが……急に思い出した用事があるとおっしゃって、先にお帰りになりました。少し慌てていたようにも見えましたが……」


「せっかく遠くから来てくれたのに……お礼も言えず、残念ですね」


「もう少しだけ待ってほしいとお願いしたんですが……それでも先に行ってしまいました」


「ああ……残念ですね」


「実は、スリを見つけたのも、その方のおかげなんです」


 栞奈がなぜ待たずに立ち去ったのか、弘には知る由もなかった。

 助けてくれたその人の顔を、直接見ることができなかった――それが、ただただ悔やまれた。


「はい……だからどうしてもお礼を言いたかったんですけど……」


 警察署を出ると、夕方の風が少しだけ冷たく感じられた。

 弘は失望のあまり、足取りも重く、しばらく立ち止まったままだった。


 わざわざ産経園まで行くのをやめて、ここまで来たのに――

 会いたかった人は、もういなくて。

 手元には、何ひとつ残らなかった。


 胸の奥に虚しさが広がり、ここまで来た意味さえ、霞んでしまった。


 三溪園に寄ってから宿に戻れば、ちょうどよかったのかもしれない。


 思いがけず生まれてしまった空白に、何を詰めたらいいのか――その答えさえ、まだ見つからなかった。


 手持ちぶさたな時間をどうにか過ごそうと、ふらりと歩き出した。


「またベイブリッジまで戻るのもなんだし……この辺りで、まだ行ってない場所、ないかな」


 弘はスマートフォンを取り出し、この辺りで気軽に立ち寄れそうな場所を探し始めた。


「ちょっと調べてみるよ」


「うん、いいよ」


 検索結果には青い海や高層ビルの写真が並ぶ。その中に、色とりどりの花に囲まれた庭園の写真があった。港町だから仕方ないけれど、この旅で見た自然は海だけだった。花に囲まれた場所なんて、ちょっと珍しくていいかもしれない。なんだか楽しみになってきた。


「横浜イングリッシュガーデンっていう場所があるみたい」


「そこ、行ってみたいの?」


 ほんの気まぐれで選んだ場所。でも、そんな即興の選択が、案外一番心に残るのかもしれない――そう思えてきた。最初は予定が狂って落ち込んだけれど、思えば前にも、こうして気まぐれに動いた先で、意外といい思い出ができたことがあった。


 また今回も、同じように何かが残るはず――そんな淡い期待が、心のどこかにあった。


「はい、写真を見たんですけど、すごくきれいなところだと思います」


 少しでも楽しめるなら、それが一番だと思った。

 予定がうまくいかなかったぶん、弘も少なからず落ち込んでいるだろう。

 このままでは、何かを得るどころか、「来なければよかった」と思わせてしまうかもしれない。


「そう、そこに行ってみよう」


 一方、栞奈は警察署を出ると、まっすぐ宿へ戻り、静かにチェックアウトを済ませた。行きたい場所はひと通り回った気がするが、東京行きの列車まではまだ時間がある。


 栞奈は海をぼんやりと眺めた。さっきはスリのことで気が張っていて、このきれいな景色にも気づく余裕がなかった。


 思いがけない出来事が続いた2日目も、ゆっくりと暮れていく。


 果てしなく流れていく時間は、どうしても掌に掴めない。その代わりに、旅の終わりに残された余韻だけを、静かに味わっていた。


 泊まった場所や出来事を振り返る時間も、旅の醍醐味のひとつだと思う。ベイクォーターでの警察官との出会い、ラーメン屋の風景、みなとみらいでのスリの追跡、そして警察署で知った事実――。今こうして一つずつ噛みしめるこの時間も、きっといつか懐かしい思い出になる。昔の記憶をたどるはずの旅だったのに、気づけば、新しい思い出ばかりが増えていた。それは、確かなことだった。


 そんなことを思っていると、この気持ちを何か形に残しておきたくなった。時間が経てば、今の想いもきっと薄れてしまう。それが、ただ寂しくて惜しかった。


 今の気持ちや印象を、何か形のあるものに込めて、未来に残しておきたかった。栞奈はまっすぐ元町へと向かった。まるで、あの二人がどこへ行くのかを知っていたかのように、彼らとは正反対の方角へ。


 にぎやかな通りを歩きながら、両側の商店を眺めていた。ふと目にとまったお土産屋に、自然と足が向いた。


 色とりどりの品が並び、眺めているだけで心が和らいでいく。久しぶりに、余裕を持ってゆっくりと選べそうな気がした。


 彼女が土産を選んでいる頃、彼らは庭に到着していた。


 風に乗って届く、爽やかな草の香り。写真では決して伝わらない空気が、初めて実感として胸に染み込んできた。


 まずは庭を、ゆっくり一周してみよう――そんな気持ちが自然に湧いてきた。


「これが最後の場所ですね」


「そうだね。もう終わりだね」


「昨日の時点じゃ、まさかこんなふうにここに来るとは思いもしなかったよ。いや、そもそも、こんな場所があることすら知らなかった」


「ここでは、どんな思い出が残るんでしょうね? 最後の場所だからこそ、特別な何かがあったらいいなって……思いませんか?」


「思い出?」


「うん。いろんな場所に行ったよね。ここでは、どんな思い出ができるかなって、ちょっと楽しみで」


「そうだね」


「じゃあ、今度は自分たちで何かやってみようよ」


「やってみるの?」


「うん。これまでは、思いがけないことばかりだったけど……今度は、自分のペースで、やりたいことを見つけて楽しもうよ」


 弘は、誰にも邪魔されることなく、気の向くままに歩き出した。

 花の香りに誘われて写真を撮ったり、小道をのんびりと巡ったりする。

 足取りは軽く、心まで晴れやかだった。

 こんなふうに、心から自由を感じたのは、いつ以来だろう。

 歩くことそのものが、こんなに気持ちを軽くするなんて――その意味を、弘は静かに見つめ直した。


 答えは意外と単純だった。

 これまでの旅は、小説の登場人物の足跡を追うことにばかり気を取られていて、自分自身の旅だということを、どこかで忘れてしまっていたのだ。自分の意志で初めて選んだ道を歩いている。どこかへ行かなくてはならないわけでも、何かを成し遂げなければならないわけでもない。ただ、そうした「ねばならない」から自由になって、ようやく気づいた。


 自分の一歩一歩が、新しい物語を紡ぎはじめているということに。


 予定通りに進まないことばかりに失望していた自分が、今は少し恥ずかしい。小説の筋書きをなぞることに夢中だったからこそ、こんな自由に気づけたのが、旅の終わりだったのだ。だからこそ、この遅れて訪れた解放感が、ひときわ鮮やかに胸に残った。それが、どこか自分に対して申し訳なく思えるのだった。


 確かに、この旅で得た経験は、小説の伝えようとしていたテーマとは異なるものだったかもしれない。けれど、もしかしたら——すべての出来事は、この気づきを得るために起こったのではないだろうか。

 これはもう、小説の物語ではなく、自分自身の物語なのだ。


 もしこの旅が、登場人物の心をなぞることだけを目的にしていたのなら、それはきっと「失敗」だっただろう。

 でも、自分なりに歩いて、自分こそがこの旅の主人公なんだと気づけたのなら——それはきっと、静かに心に刻まれる、特別な旅だったのだと思う。

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