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第15話 : 舞台探訪 [5]

 何度も立ち止まりそうになるのをこらえながら、弘は必死にその背中を追い続けた。


 相手がもともと足が速いのか、それとも距離が予想以上に離れていたのか、はっきりしなかった。まるで弘を嘲笑うように遠ざかっていくその背中が、視界の端でちらつき、苛立ちは一層強まった。


 遠くに揺れる信号の灯が、かすかに滲んで見えた。青信号が点滅し、まもなく赤に変わる気配だった。


 まずい――このままだと、彼を見失ってしまう。


 スリが横断歩道を駆け抜けていくのが見え、弘は歯を食いしばってその後を追った。信号は、ほんの一瞬の差で赤に変わり、弘はスリが向こうの路地へ消えていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。焦りが胸を締めつけ、弘は悔しさをぶつけるように地面を強く踏みつけた。もし空を飛べたなら、すぐにでも彼のもとに辿り着けるのに――そんな思いが、胸の奥で疼いていた。


 信号が青に変わるなり、弘は勢いよく路地に走り込んだ。だが、そこにはもう彼の姿はなく、気配すら残っていなかった。


 張り詰めていた全身の力が一気に抜け、重く沈む虚しさだけが胸に残った。祐希のもとへ戻ろうとするも、足が重く、力なくその場に腰を下ろした。


 悔しさと情けなさが胸にこみ上げ、小さく声が漏れたが、状況は何ひとつ変わらなかった。膝の擦り傷の痛みだけが、現実の苦さをいやというほど教えてくれた。


「はぁ……本当に災難だな。横浜でスリに遭うなんて。主人公がスリを追いかけて走り回るなんて、小説でも見たことないよ」


 揺れる視界の中に、こちらへ駆け寄る祐希の姿が映った。


「あれ?どうして分かったんですか?」


 汗まみれで顔を真っ赤にした弘を見た祐希は、思わず目を見張り、緊張した声を上げた。


「ずっと待ってたのに来なかったから、公園で通りかかった人に声をかけてみたんだ。そしたら、『足を引きずりながら走ってた男を見た』って人が何人かいてさ。嫌な予感がして、それが君なんじゃないかって思ったんだ」


 鼓動が収まらず、言葉がうまく出てこない。ただ、荒く息をつくばかりだった。


「それが……大変なことに……スリに遭っちゃって……」


「スリ!?どうなったの?捕まえられたの?」


 あのとき助けが欲しかったのに、終わった今になって慌てて現れるなんて――。


「いいえ、捕まえようとしたんですけど、信号が変わって逃げられました。運が悪かったとしか……」


 弘は無言で祐希に電話を渡した。言いたいことは山ほどあるのに、喉の奥でつかえて、言葉にならなかった。


「とりあえず、警察に連絡してください。詳しいことは後で話します」


 祐希は受け取った電話を手に、警察に電話をかけた。


「……ああ、わかった。すぐにかける」


「実は警察を呼ぼうと思ったんだけど、先輩に電話がつながらなくて……」


「……それは、僕が電源切ってたからだ。ごめん……本当に」


「いえ、それなら仕方ないです。正直、あのとき警察を呼んでも、どうせ逃げられてたと思いますし……先輩を責めても意味ないですから」


「それより……怪我したのか? さっきから足を引きずっているみたいだけど」


「実は、スリに押されて転んでしまって……膝が痛くて、あまり歩けないんです」


「そうか……ちょっとだけ、見せてみて」


 そう言って祐希はそっと弘のズボンの裾をまくり上げ、赤く擦れた膝を見て眉をひそめた。


「これ……けっこう痛そうだね」


 祐希は電話口で、弘がスリに遭ったことを伝えた。


 二人は近くのベンチに座り、しばらくの間、黙ったまま待った。


 やがて、警察が到着した。


「こんにちは。警察です」


「こんにちは。スリに遭われたと伺いました。お怪我はありませんか? 可能な範囲で構いませんので、状況や犯人の特徴について詳しく教えてください」


「はい」


 弘は簡潔に答えた後、事件の経緯とスリ犯の特徴を丁寧に説明した。


「ありがとうございます。断言はできませんが、最善を尽くします」


「はい、よろしくお願いします」


「ところで、どこか怪我をされていませんか?」


「大丈夫です。転んで、膝を少しすりむいただけです」


「それじゃあ、一応交番に行ってみたらどうですか? 救急セットがあるはずですよ」


「それが……そこまで行くのがちょっと大変で。今はこのままで大丈夫です」


「本当に大丈夫ですか?」


「はい。ただ流水で一度洗って、近くの薬局で軟膏を買って塗ればいいと思います」


「そうですか……本当に大丈夫ならいいんですが」


「それより、スリをしっかり捕まえてほしいんです」


「もしかして、大事なものが入っていたんですか?」


 弘はどう答えるべきか、しばらく迷っていた。だがその前に、警察官ではなく祐希が口を開いた。


「それが……」


 少しお金を失ったくらいなら、気持ちの整理はつけられたかもしれない。それなのに、楽しい気分で旅行に来たのにスリに遭い、怪我までして――その上、時間まで無駄にしてしまった。その事実が、どうしても心に暗い影を落としていた。

 

「実は、大事なものは特に入ってなかったんです。少し現金が入っていただけで。でも、スリにとっては、それが一番の“ターゲット”だったんでしょうね」


 祐希は、弘の気持ちを痛いほど理解していた。だからこそ、今言えるのはただひとつ――『残りの時間を楽しもう』ということだけだった。


「残念だけど、今できることは警察に任せるしかないと思う。僕たちも旅行中なんだから、大事な時間をスリ探しに使うわけにはいかないよ」


「悔しいのは当然だと思う。でも、ここに来た目的を大事にして、できるだけ旅行を楽しんでください。スリのことは、僕たちに任せておいてください」


 弘は、どうしようもない気持ちを抱えながら、その言葉を受け入れた。


「はい、分かりました」


 祐希は、罪悪感と申し訳なさを抱えつつも、沈んだ表情を浮かべた弘を元気づけようと必死に言葉をかけた。


「そうだね。僕たち、スリを捕まえるためにここに来たわけじゃないんだし」


「もし近くで同じような事件が起きたり、犯人が捕まったりしたら、すぐに連絡します」


 その後、ふたりの会話はしばらく途切れたが、少しずつお互いに気持ちが落ち着き、静かな時間が流れた。


 一方、別の場所では――栞奈が周囲を気にしながら歩いていた。


「すみません、ちょっとお話してもいいですか?」


 栞奈は戸惑うように問いかけた。


「え?」


「この辺りで、スリの事件があったんです」


「スリ……ですか?」


「はい。このあたりで、怪しい人物を見かけたりしませんでしたか?」


「いいえ、そんな人は見かけていません。実は私も、さっき着いたばかりです」


「そうですか。念のため、気をつけてくださいね。もし近くで怪しい人を見かけたら、ぜひ連絡してください」


「はい、分かりました」


「ご協力ありがとうございました。それでは、失礼します」


 彼女は短い言葉を残し、立ち去る警官の背を、不安げに見つめた。「自分もいつか、同じ目に遭うかもしれない」――そんな不安が、ふいに胸をかすめた。


 一方、みなとみらいにいる祐希と弘も、スリ事件の余韻を心に抱えながら、潮風に当たりつつ気持ちを落ち着けようとしていた。

 

「とりあえず、宿に戻ろう。財布を取りに行かないと。スリに遭って、予定がすっかり狂っちゃった」


「そうだね」


「本当にすみません……こんなこと、全部僕のせいです」


「いや、大丈夫だよ。仕方なかったさ。こんなことになるなんて、誰にも分からなかった」


「はい…」


 結局、二人は宿舎に戻り、弘の財布を取りに行った。祐希にとっては、今日だけで三度目の訪問になる。


「財布、ちゃんと持ってきた?」


「はい」


「これからどこに行こうか?」


「それが……ちょっと迷ってるんです。本当は新横浜のラーメン博物館に行く予定だったんですけど、予定も気分も崩れちゃって……。

 それに、花火大会に間に合わせようと思うと、どうしても慌ただしくなりそうで、落ち着かないんです。焦って回るくらいなら、もう今回は見送ろうかなって」


「それじゃあ、どこに行こうか?」


「チャイナタウンに行くのはどうですか? みなとみらいからそんなに遠くないし、花火大会の前にちょうど見て回れると思います」


 結局、二人はその提案にうなずき、予定を変えてみることにした。


「うん、そうしよう」


 その頃、栞奈はラーメン博物館に到着していた。あらゆるラーメンの香りが、空腹をそっと刺激し、無意識に唾を飲み込んだ。夕焼け色の灯りが照らす昔の街並みが印象的で、訪問客たちの賑やかな声も、この懐かしい風景と自然に溶け合っていた。ざわめく群衆に混じりながら街をひとしきり見渡し、栞奈は気になったラーメン屋に入る。メニューを広げ、並ぶ写真にじっと目を凝らしながら、そっと手を挙げて店員を呼んだ。


 店員は栞奈に軽く微笑みながら注文を取りに来た。


「はい、何になさいますか?」


 栞奈はメニューをめくりながら、目を凝らす。


「ここの一番辛いラーメンは、どれですか?」


 店員はメニューの一枚を指さし、控えめに答えた。

 

「こちらですね。七味がたっぷり入っています」


「それをお願いします」


 栞奈が店内を見回しているうちに、ラーメンが運ばれてきた。清潔な器に、たっぷりのスープとともに麺が盛られており、もやし、チャーシュー、卵が山積みになっているのを見ると、自然に唾が口に溜まる。器に顔を近づけて湯気を大きく吸い込むと、強烈な七味の香りが鼻を刺し、じんわりと痺れるようだった。これが、子どもの頃に感じた、あの懐かしさと似ているのかもしれない。懐かしさに胸が締めつけられ、思わず目に涙が浮かんだ。一口すくって飲む。やはり、鋭い辛さが舌を刺激し、食欲を一層かき立てる。麺をチャーシューと一緒に大きくすくい、口いっぱいに押し込んだ。ひりひりとした痛みが広がるが、それでも箸を止めることはできなかった。


 一方、祐希と弘は日が暮れかけた頃、ラーメン通りとは全く違う雰囲気の街に到着していた。新横浜からかなり離れた場所には、異国情緒あふれる街並みが広がっていた。華やかな中国風の建物が立ち並び、一目でチャイナタウンだとわかる景色だった。


 二人は道をたどって、関帝廟に到着する。三国志の英雄・関羽を祀る、厳かな祠だった。色とりどりの瓦で飾られた正門を通り抜けると、祠堂が迎えてくれた。祠堂の中では、多くの人々が目を閉じ、静かに手を合わせていた。その光景には、不思議な静けさが漂っていた。


「もう子どもでもないし、サンタを信じているわけでもない。こんな年齢になって神頼みなんて、ちょっとバカみたいに思えるけれど……」と弘は心の中で呟く。自分も他の人と同じように祈らなきゃいけないのかな、という不安が胸をかすめた。それでも、真剣に願う人たちの雰囲気に圧倒された。どうしても、一歩踏み出さずにはいられない気がした。自分だけが取り残されているような気がして、無理をしてでもその輪に加わらなければならないように思えた。


 少し戸惑いながら、弘は祐希に尋ねた。「ここで願い事をすればいいんですか?」


 ぐずぐずしている弘を見て、祐希が先に口を開いた。


「何を祈ろうとしてるの?」


 弘は一瞬黙り込み、それからぽつりと口を開いた。


「うん……財布が戻ってきてほしいなって、すごく思ってる。でも、こんなことを願うのって、なんだかちょっと恥ずかしい」


 祐希はそれを受けて、穏やかに答える。「その気持ち、よくわかるよ。でも、祈ってみてもいいんじゃないかな。叶わなくても、損はないし」


 弘は、どうしてもそれを試すべきだと感じた。ここまで来て、何もしない理由なんて思いつかなかった。それに、ほんの数分祈るだけで、何かを失うわけでもない。もし願いが叶うなら、それだけで価値がある。


「願い事って、一つだけじゃなきゃダメなのかな?」


「やっぱり、スリを捕まえてほしいってこと?」


 弘は他の人たちがするように目をぎゅっと閉じ、両手を合わせた。心の中で切実に祈る。財布が戻ってくるように、そしてあのスリ犯が捕まるように。しかし、この場所で願い事をすることが、少しだけ不安に感じられた。願い事を口にすると、それだけで叶わなくなりそうな気がしてしまう。


 弘は、どこかで聞いた言葉を思い出した。「願い事って、口にすると叶わないって言うしな……」


 その思いが引っかかり、弘は目を開けたり閉じたりしながらも、祈りの言葉をなんとか心の中で紡いだ。



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