第13話 : 舞台探訪 [3]
エレベーターに乗ってしばらくすると、目的の階に到着した。ドアが静かに開く。祐希はそっと顔を出して廊下を見渡し、誰もいないことを確認してから、一歩ずつ慎重に降りた。
その様子を目にしたホテルのスタッフが、やや困惑したように声をかけてきた。
「失礼ですが、何かご事情でもございますか?」
祐希は慌てて両手を振る。挙動不審に見られている自覚はあったが、それ以上に頭を占めていたのは栞奈のことだった。とにかく今は、荷物をさっと部屋に置いて、この場を離れるのが最優先だった。
「い、いえ、大丈夫です」
スタッフが部屋の前で立ち止まると、祐希もその隣に並んだ。
「こちらがお部屋でございます。何かご入用のものなどございましたら、お申しつけくださいませ」
「大丈夫です」
「それでは、どうぞごゆっくりお過ごしください」
祐希は礼を言い、手早く荷物を室内に運び入れた。何か忘れ物はないかと考えていた矢先、スマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、祐希はすぐに通話ボタンを押した。弘だ。やっぱり、ひとりでホテルに向かわせたのが気になっていたのだろう。
「もしもし?」
『あ、祐希さん。チェックイン、無事にできましたか?』
「うん、今ちょうど部屋に入ったとこ。荷物も置いたよ」
『よかったです。あの、レストラン、私が予約しておきましたので……できれば早めに来ていただけると助かります。』
弘が待っていると思うと、祐希はなぜかそわそわしてきた。
「了解。すぐ行くね」
スマホを手に、早足で廊下を進む。ふと、その視界を横切る影に足が止まった。――栞奈だった。あまりの驚きに、祐希はスマートフォンを落としてしまう。落下音に気づいたのか、栞奈がふとこちらを振り返った。祐希は慌ててスマホを拾い、気まずさをごまかすように非常階段へと駆け込んだ。
電話の向こうで、弘の声が鋭く響いた。
『あの……祐希さん? 今、何かありましたか?』
祐希は声をひそめるように言った。
「いや、大丈夫。なんでもないよ」
けれど弘の声は、まだ不安を拭えない様子だった。
『……本当に大丈夫なんですか?』
祐希は、なるべく平静を装って答えた。
「大丈夫」
弘は、電話越しに伝わってくる祐希の動揺を感じ取ったが、それ以上は詮索しなかった。
「……はい、分かりました」
今ここで声を出せば、栞奈に気づかれてしまうかもしれない。祐希は慌てて通話を切った。
「今すぐ行くよ」
エレベーターに足を向けかけたが、頭の片隅に栞奈の姿がちらつく。そのまま、祐希は踵を返し、非常階段を駆け下りて一階まで降りていった。
ホテルのロビーを足早に抜け、職員に軽く会釈を返すと、祐希はまっすぐ弘の待つカフェへと向かった。
焦る気持ちをごまかそうと、平然を装って歩いたが、同じ道を四度も往復すれば、さすがに気持ちがささくれてくる。
「ごめんね、ちょっと遅れた」
弘は祐希の姿を見つけるなり、ぱっと手を振って笑顔で迎えた。
「いえ、お疲れさまでした。チェックイン、問題なかったですか?」
その素直な声に、祐希は胸の奥で何かを押し隠すように頷いた。
「うん。大丈夫」
これは全部、弘の小説のためだ――祐希は心の中でそう言い聞かせる。弘がこの旅を楽しんで、いい作品を書いてくれるのなら、自分にできることは何でもしてやりたかった。
弘はメニューに目をやりながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「私、また象の鼻アイスとロールケーキにしようかなと思ってるんですけど……。あの、私の上着、持ってきてくださいましたか? 財布、中に入ってるんです」
その言葉を聞いた瞬間、祐希の胸に冷たいものが走った。
やばい、と直感が囁く。すべての計画が、一瞬で崩れ去る音がした。まさか、そんな大事なことを忘れるなんて。さっき、確かに確認しようとしていた。けれど、ちょうどそのとき、弘から電話がきて、さらにその直後、栞奈と鉢合わせた――。
あのときはもう、頭の中が真っ白だった。財布のことなんて、気にする余裕なんて、まるでなかった。
「あっ、そうだ。なんか忘れてる気がしてたけど……それだったんだ」
祐希がぼそりと呟いたそのとき、カフェの店員が、会話の内容に気づいたらしく、心配そうに声をかけてきた。
「お客様、お会計の方は……?」
急かされているわけではないのに、胸の奥がざわついた。祐希はひとつ息を吸い込んで、気持ちを整えようとした。
「あ……ちょっと待って」
「かしこまりました」
店員が一歩下がると、弘が静かに祐希の方を見つめた。
「上着の中に……お財布、入ってますよね? 取りに戻ったほうが、いいでしょうか?」
またあそこに戻るのかと思うと、祐希は思わず視線を泳がせた。さっきも弘のために往復したばかりなのに――また? そんな気持ちが胸に渦を巻いた。無駄足にも思えたし、まるで何かを試されているようにも感じた。
「……そうするしかないか」
弘は少し顔をほころばせた。
「それに、レストラン予約してありますから。これ食べたら、すぐ向かいましょう」
その言葉に、祐希は心の中で小さく安堵した。逆に、これでよかったのかもしれない。時間もないし、仕方ないと自分に言い聞かせた。潔く認めたほうが、かえって楽になる――そんな気がした。
「じゃあ、そのまま行こう。財布あるし、レストランは俺が出すよ」
「えっ? 本当ですか? すみません……助かります」
弘は口では遠慮していたが、どこか嬉しそうに見えた。祐希にはわかっていた。弘は、ほんの少しでも“誰かに甘えること”を、うれしいと思えるようになってきたのかもしれない。
けれど祐希には、弘に言えない思いがあった。もしまたホテルに戻って、栞奈と鉢合わせするようなことになったら――そう思うだけで、背中に冷たい汗が流れる気がした。
「いや、忘れたのは俺のミスでもあるし。せっかくの初旅行だしさ、最初からごちそうするつもりだったよ」
「……ありがとうございます」
結局、祐希がアイスクリームとロールケーキの代金を支払い、二人は店のテラス席で落ち着いた。
「なんか、ほんとに色々お世話になっちゃって」
弘の声を聞きながら、祐希はもう、ごちゃごちゃ考えるのをやめようと思った。目の前にある海を眺めて、少しでも心を落ち着かせたかった。
「大丈夫。気にしないで」
弘は、目の前に広がる澄んだ空と海をぼんやりと眺めていたが、ふと祐希の顔色が冴えないことに気づいた。どこか遠くを見るようなその目が、弘には気がかりだった。重くなりかけた空気を少しでも和らげたくて、弘は昼食の提案を切り出す。
「あの小説に出てきたショッピングモール、すぐ近くなんですよ。よかったら、そこで何か食べませんか?」
祐希はその提案に、素直にうなずいた。カフェとホテルを何度も往復して、心も体もぐったりしていた。胃のあたりに、じわじわと空腹が重くのしかかってきた。
「それ、いいね。行こうか」
気まずさの残るテーブルに長くいるのがつらくなって、二人はロールケーキとアイスクリームをほどほどに切り上げて席を立った。景色が変われば、気分もきっと変わる。ここでのことは、この風に置いていけばいい――祐希はそう思うことにした。
一方その頃、栞奈が向かっていたのは、横浜を一望できる高層ビル、「ランドマークタワー」だった。前に訪れたときは展望フロアに上れず、それがずっと心残りだった。今回はちゃんと景色を楽しもうと、迷わず足を運んでいた。
階段に目をやり、「さすがに無理」と心の中で苦笑した。そしてエレベーターへと向かい、汗ひとつかかないまま展望台に到着した。車も、ビルも、人の姿さえも、眼下では豆粒のように見えた。視界いっぱいに広がる光景は、息をのむほどだった。
ビルの合間からのぞく海。その青は、空と溶けあって、どこまでも続いているように見えた。こんなにも高い場所にいるのだと、足元から実感がこみ上げた。
――そのころ、祐希と弘は、「ベイクォーター」に到着していた。船を模した白い建物は、その名のとおり、海と隣り合っていた。どこか潮の匂いが混じる風が、鼻をくすぐった。
弘は、ふと視線を遠くに向けながら言った。
「本当は、もっと早く来たかったんですけどね。ちょっと予定がずれちゃって……」
「そうだね」
祐希が頷くと、弘は少し考え込んでから続けた。
「ここでお腹を満たして、それから船に乗ってウェアハウスの方へ行こうと思うよ。予約は俺がしておくから」
理由がどうであれ、弘の中で目指すべき方向は変わっていなかった。
「うん、好きにしていいよ」
祐希は軽く返し、二人は近くのレストランに入ることに決めた。
席に着くと、祐希がふと口を開いた。
「来てみてどう? 何か、感じるものはあった?」
弘は少しだけ沈黙してから答えた。
「まだ、はっきりとはわからないんです。来るだけで何かひらめくかと思ってたけど、それはちょっと欲張りすぎだったみたいで……。もう少しゆっくり向き合ってみたら、何かが見えてくるかもしれないと思ってます」
祐希は頷きながら、しばらく弘の言葉を考える。
「だよね。せっかく貴重な時間をかけて来たんだから、何かひとつでも得られるといいね」
それから少しの間、二人は黙って食事を進めていたが、やがて弘がふと顔を上げて言った。
「それにしても、本当にここまで奢ってもらっちゃって大丈夫なんですか?」
「大丈夫。俺が財布忘れたせいでもあるしね」
「ありがとうございます」
弘は少し照れくさそうに微笑むと、また外の景色に目を向けた。
「そうだな。いっぱい食べて、思いっきり楽しもう」
その時、弘はふと遠くの景色を見やった。目の前の現実と、頭の中で浮かぶ小説の情景が交錯する。どんな出来事があったのか、どんな言葉が交わされたのか――その一つ一つが生々しく脳裏に浮かび、まるでそこにいるかのように感じる。それでもどこか、他人事のように感じてしまう自分がいた。背景には急に雨が降らなかったせいかもしれない。もしくは、現実ではそんな出来事が起きないだろうという思いが、無意識に重くのしかかっているのかもしれない。
祐希はその微妙な空気を感じ取ると、何とかそれを和らげようと口を開いた。
「なんか、気になることがあったの?」
弘は少し焦ったように見えた。何か言いたげなのに、言葉がなかなか出てこない様子が祐希にはわかる。
「気になること……うーん、何を聞けばいいのか……」
「何でもいいよ。こうして二人きりで、他の人に気を遣わずに話せる時間って貴重でしょ?だから、いろいろ話してみたら?」
弘は少し黙り込んだあと、勇気を出して言った。
「……ひとつ、聞いてもいいですか? 本当に、私を候補にしたかったんですか?」
「それはどういうこと?」
「実は最初に会ったとき、祐希先輩はあまり望んでなかったんじゃないかって思ってて……。私が先に電話して、強くお願いしたから。
> 私も感じてるんですよ、自分がかなり足りないってことを。
> 以前、桃香先輩にちょっと酷いことを言われて、自信もないし。反論できなかったのは、結局、事実を言われたからで……私も、そこは認めてるんです」
祐希は少し驚いた顔をして、声を低くした。
「え、もし僕が“合わないかも”って言ったら、もう諦める気だったの?」
「……いいえ…」
「じゃあ僕が“気に入らない”って言っても、気にせず残るつもりだったの?」
「そうじゃなくて……」 弘は言葉に詰まって、目を伏せた。
その瞬間、祐希は思わず笑ってしまった。
「冗談だよ、冗談」
弘は少し戸惑いながら、笑顔を見せた。
「どうして?もし僕が“やっぱり合わないな”って言ったら、諦めるつもりだったの? 最初はあんなに堂々としてたのに……」
弘は少し照れたように答える。
「自信持たなきゃっていうのは、ちゃんと分かってるんです。でも、ちょっと心配になって……」
「何が?」
弘は顔をあげ、静かに言った。
「もし私が合格して部員になったら、祐希先輩たちと部活やっていくことになるじゃないですか」
「そうだね」
「だったら、桃香先輩だけじゃなくて、他の部員ともちゃんとやっていかないといけないと思うんです。いや、絶対そうしなきゃダメだって……」
祐希は少し真剣に考え込み、弘の目を見ながらゆっくり言った。
「それが心配なの?」
「はい……。たとえ部員になれても、桃香先輩に認めてもらえなかったら、今と何も変わらない気がして。それに、もし私が選ばれて、桃香先輩の推してた子が落ちたら……。関係、もっと悪くなっちゃうかもしれないって、怖いんです」