第11話 : 舞台探訪 [1]
祐希には急ぐ用もなく、弘を待ちながら、トイレの前でぼんやりと時間をつぶしていた。
その頃ちょうど、栞奈も同じ駅に着いたところだった。
彼女も電車に乗る前にトイレをすませておこうとしていた。
トイレの前でぼんやりしていた祐希は、栞奈に似た誰かがこちらへ歩いてくるのに気づいた。最初は、ただ似た誰かだと思い、特に気に留めることもなかった。しかし、距離が縮まるにつれて、それが間違いなく栞奈だと確信した。なぜ彼女がこの時間にここにいるのか、見当もつかなかった。でも今は、そんなことを考えている余裕はなかった。急いで栞奈を避けようとあたりを見回したが、隠れられそうな場所はトイレしか残っていなかった。
やがて弘がトイレから出てきて、不安げな祐希に、何事もなかったかのように手招きした。
「済みました。今からゆっくり電車に向かえば大丈夫だと思いますよ」
栞奈と真正面から鉢合わせるわけにはいかなかった。しかも、今は弘と一緒にいる。祐希は栞奈との鉢合わせを避けたい一心で、弘の「今すぐ行こう」という催促にも背を向け、慌ててトイレの個室に駆け込んだ。
「ちょ、ちょっと待って……!」
ついさっきまで落ち着いていたはずの祐希は、予想外の展開に完全にうろたえてしまった。
「どうしましたか?」
祐希は静かにポケットから時計を取り出し、電車が発車する直前までここにこもる覚悟を決めた。こんな子どもじみた意地を張っている自分に、わずかな罪悪感を抱きながらも──今ここで栞奈と気まずく鉢合わせるよりは、まだマシだと思った。
「今、ちょっと急用ができて……待ってて……!」
このままだと電車の発車時刻に遅れるのではないかと不安になり、焦る気持ちを抑えきれず、トイレのドアを叩いてみた。
「ちょっとだけって言ってたけど、もう行かなくちゃいけないみたいだよ」
祐希は、特にトイレに行きたいわけではなかったが、できる限り焦った声を装った。
「十……いや、七分? 八分? 十分もない……」
男子トイレがざわつくなか、栞奈はまるで別世界にいるかのように、洗面台の鏡の前で黙々と身なりを整えていた。
やがて電車の発車時刻が間近に迫る頃、彼女は何事もなかったかのように、静かに身を翻し、トイレを後にした。
祐希もまた、数分の時を個室でやり過ごし、弘の問いかけも耳に入らぬまま、慌てて外へと飛び出した。
二人は言葉ひとつ交わさず、ただ全力で電車へと駆け出した。
何かを振り払うように。あるいは、何かに追われるように。
栞奈は混雑した車内をかき分け、ようやく指定された席にたどり着くと、小さく息を吐いた。新しい学校へ向かう道すがら――見知らぬはずのその土地に、なぜか懐かしさを覚えていた。けれど同時に、それはもう二度と戻れない場所なのだと、彼女は痛いほど感じていた。
「ここにいた」という事実。
それを思い返すたびに、やはり、こうするしかなかったのだと思えた。
心に刻んだはずの覚悟は、拍子抜けするほど簡単に、揺らいでしまう。
懐かしい景色を背に、夢という名の山を越えようとしたその瞬間――最初に思い浮かんだのは、皮肉にも、かつての日々だった。
「小説のインスピレーションを得るため」――そう自分に言い聞かせてきた。
だが本当にそれを求めていたのか、彼女自身にも分からなかった。
インスピレーションどころか、この旅そのものに、思いがけず満足してしまうかもしれない――そんな予感さえあった。
明確な目的を持たないまま出発したこの旅。
その曖昧さこそが、少しずつ、彼女の勇気と自信を削り取っていく。
“夢のため”――その言葉を、彼女は幾度も口にしてきた。
けれど、本当はただ、怖かったのかもしれない。
立ち止まるのが怖くて、見ないふりをして、現実から目を背けたかっただけなのかもしれない。
ただひとつ、確かなこと。
それは、彼女が不安と迷いに突き動かされて、この電車に乗ったという事実だった。
自分で選んだはずの道なのに、意志も確信も心許なく、ただ揺れる車体に身を預けるしかなかった。
本当に望んでいたのかどうか、自分でも分からなかった。
それでも、お金を払ってこの汽車に乗った以上、きっとどこかへは連れていってくれる――
そんなささやかな信頼だけが、今の彼女を支えていた。
少なくとも、この電車に乗っているあいだは、誰もが同じ旅人だ。同じ区間を繰り返し走るこの汽車は、乗客にさまざまな行き先を見せてくれる。そしてその中から、自分だけの目的地を選ぶ自由を与えてくれるのだ。
誰もが明確な目的を胸に、電車へ乗り込むわけではない。
行き先を見失った誰かが、ただ運ばれるままに身を任せることもある。
栞奈もまた、そんな「誰か」と、大きくは変わらないのかもしれなかった。
少なくとも――この電車に揺られているあいだだけは、すべての乗客が同じ「旅人」だ。
同じ区間を律儀に繰り返し走るこの汽車は、乗るたびに異なる風景を見せてくれる。
そしてその中から、自分だけの目的地を選ぶ自由を、そっと与えてくれるのだ。
夢も事情も異なる人々が、乗っては降りていく。
その静かな光景を、栞奈は窓辺から黙って見つめていた。
一方その頃――祐希と弘も、ようやく電車に滑り込んでいた。
あと数秒でも遅れていたら、間に合わなかっただろう。
額に汗をにじませた祐希は、まだ呼吸を整えられずにいた。
「ふぅ……ギリギリだったね」
弘も荒い息を吐きながら、苦笑いを浮かべて言った。
「早く席、探そ。空いてるうちに」
手で顔をあおぎつつ、少しでも熱を逃がそうとしている。
「うん……そうだね」
二人は狭い通路を縫うように進みながら、座席番号を確かめていった。
やがて、目の前に並ぶ空席が見つかる。番号を照らし合わせると、そこがまさしく自分たちの指定席だった。
腰を下ろすとほぼ同時に、車内に発車を知らせるアナウンスが流れた。
ようやく、「旅が始まる」という実感が胸にじんわりと灯った。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとする――が、胸の奥にはまだ、ほんのわずかに焦りが残っていた。
そのかすかな緊張を紛らわせるように、祐希は小さな声で、隣の弘に話しかけた。
「こうして電車で出かけるの、久しぶりだね」
「うん、そうだね。前は……ときどき両親と旅行に行ってたんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、祐希の胸に、いくつもの感情が一気に押し寄せてきた。
けれど、それを無理やり飲み込んで、黙っていた。
口を開けば、きっと長くなる。
思い出に触れれば、せっかくの旅の空気を壊してしまいそうで――。
「ああ……そうなんだ。仲良かったんだね、ご両親と」
弘の言葉に、祐希は小さく頷いた。
たしかに、幼いころはいつも両親と一緒だった。彼らが見せてくれる世界が、自分にとってのすべてだった。
誰から見ても、仲の良い親子に映っていたかもしれない。
けれど、その内側には、言葉にしがたい息苦しさがあった。
「抑圧」と呼ぶにはどこかずれている。ただ、それは間違いなく――彼にとって、受け入れがたい支配だった。
「これって……“親しい”っていうより、なんていうか、依存に近かったのかも」
祐希は、自分でも驚くほど素直に言葉をこぼしていた。
ただ弘の家庭が羨ましくて言ったわけじゃない。それよりも、
言葉ではなく、沈黙で通じ合える時間の方が――ときに、ずっと深く心に残ることがある気がしたのだ。
「でもさ、高校生くらいになると、親より友達と旅行に行きたくならない?」
弘は少しだけ考えてから、静かにうなずいた。
その胸の奥に、ある一冊の小説への感謝が、静かに広がっていた。
そっとカバンを開け、その本を取り出す。
――自分が行きたい場所は、もう決まっている。
今はただ、ページをめくるだけじゃなくて。
主人公の足取りを追いながら、その世界を、自分のものとして体験しようとしていた。
登場人物たちの感情を、自分の心で受け止めてみる。
きっと何かを得られるはずだ。そんな予感を抱きながら、弘はふと、栞奈の言葉を思い出していた。
祐希は、弘がその小説を取り出した瞬間、ふと栞奈のことを思い出していた。
あの日、本屋で彼女が手にしていた一冊――弘がいま持っているのも、まさにそれだった。
理由もなく、胸がきゅっと締めつけられるような気がした。
弘は、その小説のために旅に出ている。では、栞奈は――自分の物語のために、いま何をしているのだろう。
たとえ同じ本を持っていたのが偶然だとしても、ここまで重なると、もはや偶然とは思えなかった。
気づけば、祐希はその本をじっと見つめていた。
そして、弘もまた、その視線に気づいていた。
静かな空気を破るように、弘がぽつりと声を発した。
「この本、もう読んだ?」
祐希にとって、その本には数えきれない思いが詰まっている。
最後に読んでから、もうずいぶん時間が経っていたけれど、何度も繰り返し読んだおかげで、内容は今でも鮮明に思い出せる。
「読んだことあるよ。好きな本なんだ」
弘にとっても、それはただの読み物ではなかった。
退屈な始業式の日にふと開いたその本が、日常を飛び越え、まるでタイムマシンのように彼の心を揺さぶってくれた。
「へえ……そうなんだ。僕もこの本、大好きなんだ」
祐希はふと、かつてその本と過ごした時間を思い返していた。
ページをめくるたびに現れる、夢のかけらのような言葉たちが、今も心に残っていた。
「夢を持つことの大切さを、教えてくれた気がする」
弘にとっても、この本はただの暇つぶしの道具じゃなかった。
むしろ、自分の考えに静かに入り込み、じわじわと形を変えてくれるような、特別な存在だった。
「そうなんですか? 実は、初日に同じクラスになった友達が、これをプレゼントしてくれたんです」
その瞬間、祐希はふと気づいた。
――そういえば、あの日。初日というのは、たしかに自分が書店で栞奈と再会した日だった。
もちろん、これはただの推測に過ぎない。けれど、偶然にしてはできすぎている。
書店で交わした、あの短い会話が、不意に頭をかすめた。
「……あ、本当?」
祐希は少し驚きながらも、栞奈が“誰か”にこの本をプレゼントしたと話していたことを思い出した。
その“誰か”とは、もしかして今、目の前にいる弘ではないか――そんな疑念が、じわじわと湧き上がってきた。
「もしかして……その人、君がこの本をどう感じるか、知りたかったんじゃないかな?」
弘は少し間を置いてから、ゆっくりとうなずいた。
「……はい、そうです。どうして分かったんですか?」
そして、言葉を選ぶように、続けた。
「感想を話したんですが、どうも気に入る答えじゃなかったみたいで……。自分が、ちゃんと理解できていなかったのかなって思って。でも、この小説は、何も考えずに生きてきた私に、“何かを始めたい”って思わせてくれたんです。だから、もしこの小説を本当に理解できたら――自分が書きたい物語や、誰かに伝えたいことが、見えてくるんじゃないかって」
その言葉を聞いて、祐希は確信した。
栞奈がこの小説を渡した相手は、やはり弘だった。
奇妙な必然だった。
彼女が弘にこの本を手渡したからこそ、祐希は本屋で栞奈と再会し、そして彼女に文芸部への参加を促すことができた。
けれど今では、栞奈は競争相手になり、弘は祐希の味方となっている。
この運命のいたずらに、祐希はどう反応すればいいのか、まったく分からなかった。
「……そうなんだ」
ぽつりとこぼれたその言葉に、弘は不思議そうに首をかしげた。
「どうかしたんですか?」
栞奈がその本を手渡した相手が、まさか弘だったとは。
おそらく、彼女自身もまだ気づいていないのだろう。
祐希は、この状況をどう説明すべきか迷っていた。
事実を打ち明けるべきか。それとも、何も言わずにやり過ごすべきか。
いずれにしても、いま口に出してしまえば、余計に混乱を招くだけだ。
――今は、黙っていた方がいい。
それでも、祐希の中の好奇心は静かにざわついていた。
駅で栞奈に会ったのが、ただの偶然だとは思えない。
もちろん、弘がこの場所を選んだ理由とは違うかもしれない。
それでも、どこかで繋がっている気がしてならなかった。
旅の途中で、栞奈について何かが分かるかもしれない――
そんな期待が、祐希の胸を静かに占めていった。
「あ、いや……君は、小説を書くことに集中した方がいいよ」
祐希は唐突にそう口にして、自分の思考を打ち切った。
弘は少し戸惑ったようだったが、それ以上は深く尋ねてこなかった。
「あ……はい」
小さく返事をして、再び沈黙が落ちた。
しばらくして、汽車は目的地に到着した。
駅のホームに降り立つと、澄んだ空から吹き下ろす海風が二人を包み込んだ。
まるで旅の始まりを告げる合図のように。
祐希は、駅での出来事を忘れようとした。
余計な疑念にとらわれて、気分を乱すわけにはいかない。
鉄道駅というのは、どこかへ向かおうとする人々が集まる場所だ。
偶然出会うことだって、十分にありえる。
栞奈も、ただ別の目的地を選んだだけ。
きっと、弘のようにその小説の舞台を訪れに来たわけじゃない。
……けれど、もし横浜でまた彼女に会うことがあれば。
そのときは、もう偶然とは言えないだろう。