大人の事情
執務室のランプの灯りがゆらめく中、カイルは机に広げられた報告書の数々を静かに見つめていた。その手元にあるのは、リリィの工房についての詳細な調査結果だ。
リリィが手がけた精緻な工芸品や特徴的な茶葉や菓子は、一部の上流階級の間で密かに評判となっていた。だが、彼女の工房はなぜか突然資金難に陥り、事業が立ち行かなくなっていた。その背景には、ある有力貴族が経営する商会の策略があった。
カイルの家族が殺害された事件を調べ続けている過程で、引っかかった情報だった。あんな小さな工房に、なぜそこまで執着を見せるのか。ビジネス契約を結べば良いだけではないのか、その違和感がリリィを浮かび上がらせた。
商会は、リリィの才能に目を付け、彼女の品物を買い叩き囲い込んだ。しかし実際には販売ルートを意図的に封じ、リリィの製品を世に出さないようにしていた。彼らの目的は、リリィの工房を完全に潰し、彼女の才能を商会に取り込むことにあった。
だが、その計画が完了する寸前、カイルが動いた。
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「あの工房主を飼い殺しにするなど……実にくだらん真似をする」
カイルは書類を一瞥し、冷たく呟いた。
その後の調査で、彼女の工房を取り巻く状況が明らかになると同時に、さらに驚くべき事実が判明した。リリィはかつて先々代皇帝の溺愛していた側室の孫娘――つまり、皇室の血を引く可能性がある人物だった。
「なるほど。側室が暗殺未遂で恐怖に駆られて皇室を去った後、地方でひっそりと出産されたという話は聞いたことがあるが……その子がリリィの母というわけか」
その情報が確かならば、リリィの存在は単なる地方の工房主に留まるものではなかった。そしてそれを知る者が他にもいる可能性――その一つが、彼女の工房を囲い込もうとしていた商会だった。
「工房主をこの家に迎え入れる、表向き言い訳が立てばなんでもいい‥いっそ婚約者にでもするか。」
「珍しく冗談を言ったかと思いましたが、そうしましょう。」
乳兄弟の部下がそういうと、普段表情に乏しいカイルが驚いた顔をした。
「確かに色々と都合がいいな。急に見知らぬ人間の婚約者になれと言っても、難しい気もするが。」
「資金援助と商品開発を持ちかけて、期限付きの契約婚約くらいならOKするでしょう。その後はお若い2人の気持ちと関係性の発展次第ですね。‥媚薬でも頼んで本人に盛りますか。」
少々物騒なことを言いながら、部下はリリィを婚約者にする手配を始めた。
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「彼らはただの金儲けのためではなく、リリィの血筋に気付いていたのかもしれない」
だからこそ、カイルはその商会の鼻先からリリィを掠め取る形で、彼女を婚約者として公爵家に迎えたのだ。表向きには婚約だが、実際にはリリィを保護するための手段――そして、彼女が皇室の血筋であることが確定した場合、自分の立場を強化するための打算も含まれていた。
だが、昨夜の夜会で、リリィが母の形見のバイオリンを手にした瞬間、状況はさらに複雑化した。
あのバイオリンは、先々代皇帝が側室に贈ったものだという記録をカイルは掴んだ。王宮の財産目録を管理する役人に口止めをしたが、どこまで止められるか。
過去の側室を知る者が今の貴族社会にどれほどいるか分からないが、少なくとも気付き始めている貴族は居るはずだった。リリィの演奏が貴族令嬢の嗜みの域を超えていたのも、また拍車をかけている。
「バイオリンの存在で、相手に確信を与えてしまった可能性がある……」
カイルは深く息をつき、眉間に手を当てた。
リリィを利用しようとする勢力、そしてその力を公爵家に向けようとする者たち――この先、嵐が待ち受けているのは明らかだった。
カイルは信頼する副官ライナスを呼び寄せた。
「ライナス。リリィに目を付けている貴族たちの動きを徹底的に調べ上げろ。特に、彼女の工房を囲い込もうとしていた商会の背後関係もだ」
「かしこまりました。しかし、カイル様……」
ライナスは一瞬、言葉を濁した。
「リリィ様を婚約者として迎えたのが結果的に相手に挑発と取られている可能性もあります」
「挑発だろうと何だろうと関係ない」
カイルは冷たく言い放つ。
「リリィは俺のものだ。この公爵家に迎え入れた以上、誰にも指一本触れさせない」
その声には、保護者としての決意と、彼自身がまだ自覚しきれていない感情が滲んでいた。
カイルは机に置かれたリリィのバイオリンに目をやった。これから先、彼女の過去と工房をめぐる陰謀が、さらに大きな波乱を引き起こすだろう。その中心にリリィを巻き込むことになると分かりながらも、彼はその嵐を迎え撃つ覚悟を固めていた。
「どんな策を練ってこようが、公爵家は決して揺るがない。そして、リリィを必ず守り抜く」
その言葉は、自分自身への誓いのようでもあった。