洗礼
煌びやかな装飾が施された大広間。貴族たちが笑顔を交わしながら談笑し、美しい音楽と香ばしい料理の香りが空間を満たしている。
そんな中、リリィは周囲の視線に耐えながらカイルの隣に立っていた。
「まあ、あれがカイル公爵の婚約者だなんて」
「あら、ずいぶんと平凡な方ね。公爵家には相応しくないわ」
遠慮のない囁き声が背後から聞こえる。リリィは俯きたくなる気持ちを抑え、精一杯背筋を伸ばした。
カイルは一瞥しただけで何も言わない。それが余計にリリィの孤独感を強めた。
ダンスの時間になると、貴族の令嬢たちが次々とカイルに話しかけた。
「カイル様、この後ぜひ私と踊っていただけませんか?」
「ええ、私もお願いしたいですわ!」
リリィの存在を無視するかのような態度に、彼女の胸はちくりと痛んだ。
「婚約者なのに、踊らないのかしら?もしかして踊り方をご存じないのかも?」
近くにいた令嬢が小声で笑う。リリィは拳を握りしめながら耐えるしかなかった。
そんな中、夜会の余興として、歌を披露する時間がやってきた。
「それでは、次はアリア侯爵令嬢の歌をお楽しみください!」
司会者が声を上げると、アリアが優雅な足取りでステージに上がった。
「でも、伴奏が必要ですわね……あら、そういえば」
アリアは舞台からリリィを指差し、にっこりと微笑んだ。
「リリィ様、バイオリンがお得意だと伺いましたわ。ぜひ私の歌に伴奏をつけていただけません?」
会場がざわつく。リリィは驚き、咄嗟に答えられなかった。バイオリンを弾けることなど、誰にも話したことはないはずだ。それでも、アリアの目は確信に満ちている。
「まあ、できないなんてことはないでしょう?公爵家の婚約者たる者、皆様の期待に応えるのは当然ですものね」
リリィは言い返す暇もなく、周囲からの冷たい視線に押されて、ステージに立たざるを得なくなった。
アリアに渡された譜面は、決して簡単なものではなかった。だが、リリィは母との思い出を胸に、覚悟を決めた。
母は身分は低いが、古い貴族の出身で古き良き貴族を体現しており、その教養を余すことなく娘に伝えていた。
バイオリンを構え、音を奏でると、澄んだ旋律が会場に響き渡った。観客たちは息を飲み、静まり返る。
アリアの歌声とリリィのバイオリンが見事に調和し、美しい音楽が生まれる。
曲が終わると、一瞬の静寂の後、拍手が巻き起こった。しかし、その中には冷たい視線も混じっていた。
曲の後、リリィが席に戻ると、一人の貴族の男が声をかけてきた。
「素晴らしい演奏でしたね。さすが公爵様のお気に入りだ」
男の目はどこか品のない光を帯びていた。
「私の屋敷で、楽器を鳴らしていただけませんかね?」
男の言葉には、まるでリリィを愛妾として扱うかのような響きがあった。
そもそも、楽器を弾かせるためだけに貴族を呼ぶなど、無礼だ。普通は茶会を催しゲストとして招待し、歌や演奏を披露してもらうのが一般的である。
「失礼ですが、彼女はそのような暇人ではない」
冷たい声で遮ったのはカイルだった。男は一瞬たじろぎ、苦笑いを浮かべて去っていった。
「……カイル様、ありがとうございます」
リリィが礼を言うと、彼はわずかに眉を寄せて答えた。
「俺の婚約者を軽んじられるのは不愉快だ。それだけだ」
その言葉に、リリィは少しだけ救われた気がしたものの、自分が直面している現実の厳しさを痛感せずにはいられなかった。
夜会が終わり、屋敷に戻る馬車の中。リリィは疲労と緊張でぐったりとしながらも、カイルに小さな声で尋ねた。
「私……どうするのが正解だったんですかね?」
カイルは短く息を吐き、淡々と言った。
「お前が何を感じたかは知らない。ただし、この場に出続ける覚悟があるなら、今日のようなことは何度でも起こる。それに耐えられるのならな」
やはり高位貴族社会は好かないと、リリィはのびのび育った子供時代を思い返していた。