頑張る子には
ある日の夕刻、リリィが工房で細工や調合をしていると、カイルが苦い表情を浮かべながらやってきた。
「リリィ、話がある。……夜会に出席してもらう」
「えっ?」
突然の言葉に手が止まり、リリィは驚いて振り返った。
「これまで隠し通そうとしていたが、もう限界だ。お前を婚約者として紹介しなければならない時が来た」
「婚約者として……ですか?」
その言葉の重さに、リリィは不安そうに呟いた。
「お前が公爵家の顔として出る以上、相応の振る舞いが求められる。それに……」
カイルは視線をそらし、皮肉っぽく肩をすくめた。
「このままじゃ、誰かの笑いものにされるだけだ。俺に恥をかかせるなよ」
「そ、そんなこと言われても!」
リリィは思わず反論しようとしたが、カイルの真剣な顔を見て飲み込んだ。
「準備の時間はわずかだ。マナーやダンス、言葉遣いを全て叩き込む。覚悟しておけ」
次の日から、リリィの生活は一変した。
朝から晩までメイド長のエルナが付いて歩き、マナーや礼儀作法を教え込まれる日々が始まった。
「リリィ様、フォークの持ち方が違います!親指と人差し指で軽く持って、ほら、優雅に!」
「う、ううん……こんな細かいことまで気にしなきゃいけないの?」
リリィは戸惑いながらも、必死にエルナの指導に従った。
夜になると、ダンスの練習が待っていた。
「リズムを感じて!もっと軽やかにステップを踏むのです!」
使用人が奏でるヴァイオリンの音色に合わせて、リリィは何度も足を踏み外しながらも踊った。
だが、そのすべてが簡単に身につくはずもなく、毎晩のように疲れ果てて倒れ込んでいた。
そんな過酷な日々の中で、リリィを救ってくれたのは、厨房から漂ってくる甘い香りだった。
「リリィ様、少し休憩なさいませ」
エルナに促されて厨房へ向かうと、シェフのルドルフが満面の笑みで待っていた。
「お嬢さん、これでも食べて元気を出しな」
彼が差し出したのは、小さなガラスの器に盛られたミルクプリン。
その上には、採れたてのフルーツを煮詰めた鮮やかなソースがたっぷりとかかっていた。
「これ、すごくきれい……!」
リリィはスプーンを手に取り、一口食べて目を輝かせた。
「ふわっとした口当たり……甘すぎなくて優しい味!美味しいいいい」
「だろう?頑張ってる人間には、甘いものが一番効くんだよ」
ルドルフが誇らしげに笑う中、リリィは疲れを忘れてもう一口頬張った。
夜会の準備が進む中、ある夜、リリィは遅くまでダンスの練習をしていた。
ふと扉が開き、カイルが現れた。
「……まだやっているのか」
「だって、私が失敗したら、公爵様に迷惑がかかるでしょう?」
リリィが額の汗を拭いながら答えると、カイルは少し驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの冷たい声に戻った。
「お前がどんなに努力しても、完璧にはならない。だが……その姿勢は悪くない」
その言葉に、リリィは少しだけ救われた気がした。
「ありがとう……ございます」
カイルは黙って部屋を出て行ったが、リリィの中には、小さな光がともったようだった。
夜会の本番はもう間近に迫っていた。リリィはまだ不安を抱えながらも、厨房の甘い香りや支えてくれる人々の温かさに励まされ、一歩ずつ成長していった。そしてその裏では、カイルが何かを思い悩むように書類を見つめている姿があった。
嵐の前の静けさ――そんな雰囲気が、屋敷全体を包み始めていた。