小さな工房の朝(続き)
リリィは慌ててお客様を案内し、カウンター越しの椅子に座らせた。ローブを纏った女性は落ち着いた仕草で席につき、リリィを静かに見つめる。気品ある佇まいに、一目でただ者ではないと分かる。
「リリィさんですね?エルディン公爵家から参りました、エリナと申します。」
「えっ、公爵家から?」
リリィは思わず目を見開いたが、すぐに慌てて姿勢を正した。
「失礼しました!ようこそいらっしゃいました!」
慌ただしく動きながら、リリィはいつものおもてなしセットを用意する。作りたてのいちごクッキーを皿に盛り、特製の「気分茶」を淹れるために魔法ポットを火にかけた。
「どうぞ、今のお気持ちに合ったお茶をどうぞ。甘い香りか、少しスパイシーか……何が出るかはお楽しみです。」
エリナは興味深そうにカップを手に取り、静かに一口含む。
「不思議ですね。ほんのり甘く、でも心が引き締まるような後味……心の内を覗かれたような気分です。」
「それが気分茶のいいところなんです!」
リリィの目が嬉しそうに輝く。自分の作った道具が人の心に響く瞬間――それは彼女が細工師として何よりも喜びを感じる瞬間だった。
「さて、本題に入らせていただきます。」
エリナはそう言って、小さな封筒をリリィに差し出した。その封筒には、魔力の痕跡がうっすらと浮かんでいる。
「これ……転送封筒ですね?」
「ええ、封を開けると、依頼主が直接現れます。」
リリィが慎重に封を開くと、ぽうっと柔らかな青い光が工房を包み込んだ。光は天井へと昇り、小さな光の粒を散らしながら人の姿を描き出す。現れたのは、黒髪の青年だった。
端整な顔立ちを持つ彼は、どこか冷たく、感情の欠片もない眼差しをリリィに向けている。
「彼はエルディン公爵家の次期当主、カイル様です。」
エリナの声が響く中、リリィは青年の無表情な姿に、思わず息を呑んだ。
「……とても素敵な方ですね。でも、なんだか……少し寂しそう。」
「ご明察です。カイル様は幼い頃より感情表現が乏しく、あなたのような感情を扱う細工師師にとっては難題とも言える存在です。」
「感情表現が……」
「はい。そのために人との繋がりを持つことが難しく、周囲から誤解されることも多いのです。ですが、カイル様の本当の心を解きほぐせる道具があれば――」
エリナは視線を落としながら続けた。
「きっと彼も孤独から解放されるでしょう。リリィさん、あなたの感情細工の力を貸していただけませんか?」
リリィは、しばらく言葉を失ったまま考え込む。自分の技術で、彼の心を変えられるだろうか。道具一つで、そんな大きな役割を果たせるのだろうか。
だが、彼女の中でふつふつと湧き上がる感情があった。誰かを笑顔にするために道具を作る――それは彼女が細工師を目指した理由そのものだ。
リリィは顔を上げて微笑んだ。
「もちろん、お受けします!全力で取り組みますので、どうぞよろしくお願いします!」
「ありがとうございます。それと……」
エリナが一呼吸置いて、真剣な表情でリリィを見つめる。
「カイル様の元にしばらく滞在していただきます。その間、あなたには――彼の婚約者として振る舞っていただく必要があります。」
「えっ!? も、婚約者ですか!?」
思わず声を上げたリリィ。その反応に、エリナは小さく笑みを浮かべた。
「もちろん形だけです。ただ、それが彼の環境に溶け込み、道具を完成させるためには最適な方法かと。」
リリィは困惑しつつも、どこか不思議な期待感が胸に膨らんでいくのを感じた。こうして、彼女の平穏だった日常は少しずつ非日常に飲み込まれていく――。