甘い匂いで起きるかと思ったんですよ
ライオットが自宅に戻ったのは予想より大幅に遅れてのことだった。
外の門は鍵がかかっている。それに安堵した。なんだかうっかり忘れそうな気がしたのだ。玄関の鍵を開けようとして、呼び鈴を鳴らすことにした。
しかし、反応はなかった。もう一度鳴らしたが家の中は静かなままだった。
そういえば、この間、母たちが訪ねてきたときに呼び鈴の音が小さかった気がした。不具合があるのかもしれない。
古き良き時代のものとは言え、さすがに老朽化は隠せない。修繕するにはちょうどよかったのだろう。
ライオットはそう思いながら鍵を開けることにした。出迎えてもらうということは次の楽しみにしておけばいいだろう。
次がある、ということに少し動揺する。
玄関から奥のキッチンに向かうと案の定、彼女はそこにいた。机に突っ伏して眠っているようだった。
いつもとは違うドレス姿に華やかなエプロンをつけている。髪だけは少しだけ乱れていた。疲れてもいるだろう。
「お疲れ様」
そういって少しだけ頭を撫でた。きっちり結われている髪に触れるのは遠慮があるが、もう乱れているのだからと触れてもいい気がしてくる。
「……」
寝言とも言えない何かを呟いて彼女はまた眠りの中に戻っていった。
ここでこうしていても仕方ないので、部屋に運ぼうかと考えて止まった。女性の部屋に許可なく入るというのは理由があっても罪悪感がある。だからと言って自分の部屋に連れていくのはもっとダメだろう。
しばらく、様子を見よう。ライオットは問題を先送りすることにした。
甘い匂いがしたら、起きるかなと思ったんですよ。
彼女が前にそういって笑っていたから、おいしい匂いがしたら起きてくれる、と思いたい。
遅くなったが、明日の朝食べるものくらいはとパンを買ってきたのは良かった。以前、彼女が作っていたものと同じものを作ろうと思った。
古びたパンなどと俗称されるもの。故郷にも同じようなものがあってと話をしてくれたのはとても遠い日のような気がした。
卵をほぐして牛乳を入れて、砂糖も加える。砂糖が溶け切ってからパンを浸して、しばし置く。
彼女へ視線を向けても少しも動いてなさそうだった。
やはり甘い匂いに期待するしかない。
フライパンにバターを落とし、パンを入れて焼いていく。じゅうと音を立て焼かれるパンは少し焦げた甘い匂いを出す。
「……ん-?」
小さい声は寝ぼけているようだった。
目の前にパンを乗せた皿を置けば、ゆっくりと身を起こして、首を傾げた。
「あれ? ここは天国?」
「現実だから早く認識するように」
「……ライオットさん、いつの間に」
お皿とライオットを見比べて不思議そうに言う。彼女にとっては両方突然現れたように思えるらしい。普通ならそうではないので、ちょっと寝ぼけているようだ。
「半刻くらい前からいた」
「えっ! お、起こしてください」
「気持ちよさそうに寝ていたから起こすのもかわいそうだなと思ってそのままにしていた」
「そ、そうかもしれませんけど……。遅いからいけないんですよ!」
「悪かった。
頼んでいたものを取りに行ったら遅くなった」
なにを? と問われてもライオットはまだ答える気はなかった。場合により数か月先まで使うあてのないものである。
「食べる?」
「食べますけど……」
腑に落ちないという顔の彼女の前にナイフとフォークも用意した。多少の迷いの末に彼女は食べ始めた。
「……おいし」
「それは良かった」
「ライオットさんは、食べないんですか?」
「お茶を用意したらね」
「私が」
「いいよ。疲れてるんだから。朝は頼むよ」
「あさ」
驚愕したと言いたげに彼女は目を見開いていた。
しまったとライオットが思っても遅い。帰るには遅いと泊っていくように言うつもりだった。そういう言いわけだけではなく、本当に疲れていそうだから帰すのもどうかと考えていたところはある。
そして、少しだけ下心もあった。
「いや、帰っても」
「泊めてください。疲れておうち帰れないので!」
慌てたようにさえぎられた。元気そうである。
おかしくなってライオットは吹き出してしまった。そこまで必死に訴える必要はない。
「ほんとに疲れてますからね」
「わかったわかった」
「ほ、ほんとですよ……」
「頑張ったな」
「もっと褒めていいですよ。今日はとっても頑張ったんです」
「褒める語彙が少ない」
「増やして」
「無理言うな。
そういえば、言い忘れていたが」
「なんですか」
「とてもきれいだ」
「…………お湯、沸いてますよ」
真っ赤な顔でうつむいて、彼女はそう指摘した。




