後編
1929(昭和4)年の世界恐慌は、日本にも深刻な不況をもたらした。
軽工業中心の日本では主に生糸を輸出していたのであるが、その最大の輸出先であるアメリカの不況によって日本の生糸産業も大打撃を受けることとなったのである。
1929年には生糸の輸出額は7億8000万円であったのが、翌30(昭和5)年には4億1644万円、31(昭和6)年には3億5539万円へと落ち込んでいく。恐慌前に比べて、生糸の輸出額は半分になってしまったのである。
(以上の数値は、日本銀行統計局『明治以降本邦主要経済統計』日本銀行統計局、1966年、284頁)
また、米価の下落も1925(大正14)年以降続いており、1931年にはドン底にまで落ち込むことになる。
これについては、コトバンク「米価」の項目に『日本大百科全書』出典の米価の変遷を示したグラフが掲載されているので、著作権の都合もあり、以下のURLを参照して頂きたい。
https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E4%BE%A1-128804#:~:text=%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%97%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E8%89%AF,%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82
浜口雄幸内閣による金解禁政策が世界恐慌と重なってしまったこともあり、日本は昭和恐慌と呼ばれる深刻な不況に陥っていくこととなる。
失業者の増大から各地で労働争議が続発し、経営者側も苦境に立たされていたことから、経営者側による首謀者の解雇、労働者側の社長・重役宅への襲撃など、その内容は激しいものとなった。
一方で農村の窮状も深刻であった。折悪しく1930年は豊作であり、それが米価の暴落をもたらし、翌31年には東北・北海道が大凶作となり、それらの地域では恐慌がさらに深刻となった。
全農家の負債額は国家歳出予算やロンドン軍縮条約締結による減税額を上回り、各地で小作争議の件数が増加した。特にこの時期の小作争議は地主から小作人への土地返還要求をめぐるものが多かった。これは、中小地主が自身の耕作地を増加させようとしたり、少しでも有利な条件で小作地を運用しようとしたためである。地主も小作人もぎりぎりの状況で対決を続けていたのである。
さらに政府の恐慌対策は、重要産業統制法などカルテル助長を中心とするものであり、そのしわ寄せは労働者、農民、中小商業者へと向かうことになった。さらに財閥の「ドル買い疑惑」によって、国民の中で政党・財閥への不信感が広がった。
こうした中で発生した満洲事変は、政党の没落と軍部の台頭を加速させていくこととなる。
たとえば、無産政党の一部は満州事変によって軍部への期待感を強めていた。無産政党に分類され、「服務兵士家族の国家保障」を掲げる全国労農大衆党は、出征労働者の解雇を端に発した玉川電車争議に陸軍省が介入し、解雇取り消しの圧力をかけたことを高く評価していた。そして同党は応召小作農の耕地をめぐる地主との争議においても陸軍の介入を期待するようになる。
五・一五事件によって犬養毅内閣が崩壊し斎藤実内閣が成立すると、斎藤内閣は農村問題の解決に取り組んでいこうとする。
その具体的内容は、産業組合への低利資金や負債整理組合を結成させてこれに補助を与えるなどの金融面での措置を行うとともに、他方で時局匡救土木事業を起こして昭和7年度から三年間でおよそ8億円程度の土木事業を行い、農民に現金収入を得させようとするものであった。
この頃、自治農民協議会が4万6千人の署名を集めて請願書を提出するという農民救済請願運動が展開され、大きな社会的反響を呼んでいた。この活動の中には、加藤完治の姿もあった。
こうした中、農林次官となっていた石黒忠篤は、1932(昭和7)年の第62臨時帝国議会(「時局匡救議会」と呼ばれた)を通して農山漁村経済更生運動の実現を図ろうとする。
かつて政党政治によって潰された石黒らの自作農育成政策が、政党の没落によって初めて実行可能となったというのは、皮肉なことであった。
石黒は、農務局長の小平権一らとともに農山漁村経済更生計画を実行しようとしていく。
彼らは農村の経済的な再建と共に、農民たちの精神的指導にも踏み込んでいった。そのための中心的な教育施設として位置付けられたのが、加藤完治が校長を務めていた日本国民高等学校であった。
一方、農林省とは別に、拓務省は経済更生計画の一環としての満州移民政策を実行に移しつつあった。
この当時、関東軍内部でも東宮鉄男(張作霖爆殺事件の実行役と言われる)を中心として、対ソ戦に備えた満洲への武装移民を計画していた。
加藤完治もまた、拓務省からの依頼を受けて渡満して調査に当たっていた。その中で、石原莞爾や東宮鉄男に出会うことになる。
加藤は1920年年代後半から農村人口の増加問題を解決するためには朝鮮や満州への移民しかないと主張しており、こうした主張が軍との関係性を深めていくことに繋がった。
さて、石黒らを中心に経済更生計画を進めていく農林省であったが、ここで多くの課題に直面することとなる。
まず、かつて石黒らが中心となって行った、地主による米価つり上げを阻止するための外米移入政策が、この頃になると逆に米価を下落させ過ぎる要因となっていたのである。
石黒らは外米移入の制限を目指すが、現地の台湾総督府、朝鮮総督府から反発を受け、元朝鮮総督であった斎藤実首相も総督府側を支持したため、これは実現しなかった。
これに失望した石黒は、岡田啓介内閣の成立と共に農林省を去ることになる。石黒の政策を引き継いだのは、小平権一であった。
こうした事情もあり、農林省は当初、拓務省や関東軍が進めようとする満州移民に反対であった。満洲からの米が内地に入ってくれば、さらに米価の暴落を招くと考えられたからである。
しかし、石黒や小平による経済更生運動は、やがて土地所有問題という壁に行き着くこととなった。
地主制を基盤とした土地所有制度が解決されない限り、彼らの目指した自作農育成政策は達成されない。しかし、土地所有を政治権力によって改革するには、これまでの社会のしくみそのものを変えてしまわなければならないという問題を孕んでいた。
結局、その実現は戦後の農地改革を待たなくてはならなかった。
なお、農地改革を行った当時の農相・和田博雄は、石黒の部下の一人であった。彼もまた経済更生運動に携わっていたが、土地所有問題の解決がなければ運動は失敗に終わると見抜いていた人物の一人であった。
こうして、国内では行き詰まりを見せていた農山漁村経済更生運動は、その活路を満州移民政策に見出そうとした。
要するに、満洲国であれば国内のような土地所有に基づくしがらみもなく、自作農育成政策を実現出来ると見込んだのである。もちろん、すでに現地民が土地を所有しているという現実を無視しているわけであるから、満蒙移民団の悲劇は胚胎されていたといえよう(あくまで、後世的な観点であるが)。
満州移民政策を推進した人物は、軍と協力しつつあった加藤完治の他、石黒忠篤、那須皓、小平権一、橋本傳左衛門など農林官僚、農政学者が含まれ、加藤や石黒を始め彼らの多くが農本主義者であった。
彼らは農村問題の解決の糸口を満州移民政策に見出し、こうして農本主義は国家主義と結び付いて対外膨張的な方向へと向かっていくこととなったのである。
結局、明治後期以降から続いた農村問題を解決したのは、敗戦による体制の崩壊というのは皮肉としか言い様がない。
ここからは歴史のIFを論ずるような形になってしまうが、農村問題の解決を第一次産業の中で解決しようとしたことに無理があるのだと思う。
日本の農用地は、1935(昭和10)年時点で5万9430平方キロメートル(台湾、朝鮮も含めた当時の国土面積は約67万5405平方キロメートル)であった。
自作農を育成しようとしても、必然的に土地の限界が生じていくる。結果として、農家一戸一戸の零細化が発生することとなる。実際、経済更生運動でも自作農の零細化は問題視されていた。
小平権一はこうした農家の零細化に対応するため、農業系の産業組合組織の重鎮ともいえる千石興太郎(戦後の農業協同組合の基礎を作った人物)と共に、協同組合化による農業経営の組織化を図っていた。
しかし、所詮は小手先の対応策であり、当初は満州移民に反対の立場であった小平もやがて満州移民政策へと傾倒していったというのは、前述の通りである。
中学の教科書にも日本の農業の特色として、一戸あたりの耕地面積の狭さが挙げられているが、ある意味で当然である。ドラえもんの「ひろびろポンプ」でもない限り、この問題は解決しない。
だから史実では満州移民となってしまったといえるが、第二次産業が発展すれば農村人口がそちらの方に吸収されていくという観点も必要ではなかったかと思う。
陸軍(石原莞爾)の重要産業五ヶ年計画などにより第二次産業が順調に発展していけば、農村人口がそちらに吸収され農村問題は自然解決したのでは、とも考えられる。
実際に、日中戦争に伴う軍需産業の発展は農村人口の都市部への流出、つまり出稼ぎ農民を増大させ、農民たちがあえて満洲への移民を選択する必要性もなくなっていた(それでも政策としての移民送り出しは続けられたが)。
戦争という状況が農村人口の第二次産業への吸収という現象を加速させたと言えるが、かといって戦争特有の現象というわけでもない。
実際、経済更生計画が満洲移民政策へと舵を切りつつあった時期、農林省の中でも若手官僚たちは満州移民よりも国内開発を優先し、農村の過剰人口を都市部の産業に吸収させるべき、と主張していた。
もっとも、その石原莞爾が満洲事変を主導しているわけであるから、重要産業五ヶ年計画などによる第二次産業の発展という仮定にどれほどの意味があるのかは判らない。
陸軍が満蒙領有よりも国内工業の振興に重点を置いていれば、あるいは大日本帝国下での高度経済成長が見られたかもしれないとは思いもするが(とはいえ、史実の1960年代の高度経済成長とは違い、統制経済的な高度経済成長であったろうが)。
若干尻切れトンボな気もいたしますが、「第二次産業の発展により農村問題が深刻化しなかった大日本帝国IF」を構築するのが本項の目的ではありませんから、ここまでといたします。
そういうIFは佐藤大輔『レッドサン・ブラッククロス』などで見られますから、そちらに譲ることにします。
さて、戦前期の農村問題についてざっと見ていきましたが、ひるがえって拙作「秋津皇国興亡記」はどうなのだろう、と考えてしまいます。
こちらは松方デフレ的な現象は発生していませんし、何より産業革命による工業化が進んでいるという世界観ですから、最終的に問題となってくる農村の人口増加問題も自然解決されてしまうのではないかと考えています。
さらに言えば植民地への移民もやっているので、第二次産業の発展と植民地への移民という二要素によって、適度な農村からの人口流出が起こっているはずです。
満蒙移民政策や現地での実態を見てきますと、農業移民というものの難しさを感じさせられます。
私はリアルにおいて戦後の南米移民に関する史料整理に携わった経験がありますが、出発前は農業に適した土地であると宣伝されていたのに実際に現地に到着するととても開墾出来るような土地ではなかった、といった訴えが次々と見つかり、整理していて何ともやるせない気分にさせられたことがあります。
そうした意味では、Web小説で見られる転生者による辺境の地での農業チートという設定はどこまで現実味があるものなのか、考えさせられてしまいます。
それは拙作にも言えることですし、戦前期日本の農村問題は農業の問題、農村の問題を創作で扱うことの難しさを私たちに教えてくれているような気がします。
歴史の教訓というのは学者だけのものではなく、こうした創作活動を行う人たちの間でも広く共有されて欲しいと、多少の傲慢は承知の上で願わずにはいられません。
主要参考文献
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主要参考論文
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