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中編

 社会問題を解決しようとする様々な運動が日本に出現し始めるのは、日清戦争後であった。

 資本主義経済の進展による貧富の格差などが著しくなり、それが人々が社会問題に注目していく要因となった。

 1897(明治30)年4月、社会問題研究会が組織され、7月には高野房太郎、(じょう)常太郎、沢田半之助、片山潜による労働組合期成会が結成されている。

 資本主義への懐疑は社会主義の受容を生み、1901(明治34)年、片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水、河上清、西川光二郎の6名によって日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成された。


 一方、官製運動である地方改良運動では、推奨すべき事績を挙げた村を「模範村」として官報に掲載するなどして周知を図っていた。こうした「模範村」とされた村の中には、信用組合の貸付により村外地主から土地の買い戻しを進めた、滋賀県愛知(えち)郡稲枝村などが含まれている。

 また、戊申詔書より以前の1899(明治32)年には農会法、翌1900(明治33)年には農会令が公布され、府県―郡―町村という縦に組織された系統農会が成立した。

 農会の会員資格は所有地の面積や地租納税額による制限は設けられておらず、自作・自小作・小作を含む直接生産者農民の農事改良を促す小作保護政策として機能した。


 こうした地方改良運動の流れの中で、1910(明治43)年、帝国在郷軍人会が設立されて町村ごとの在郷軍人会がその下部組織に組み込まれている。

 拙作「秋津皇国興亡記」幕間「北国の姫と封建制の桎梏」第2話あとがきでも書いたが、こうした在郷軍人会の存在は「軍隊に入ることで社会的身分の流動化が起こる」要因の一つともなった。

 極端な話ではあるが、小作人の子供が先に徴兵されれば、後から入ってきた地主の子供よりも先任となる。そして徴兵期間満了後も、在郷軍人会などを通して軍隊の階級による上下関係は持続していく。

 在郷軍人会は行政の下部組織だったため、農民が「徴兵→在郷軍人会→地方名望家」と社会的身分が上がっていくような現象も発生していく。


 当時の日本は国民皆兵制であり、一方で選挙権は長い間、地主層に限られてきた。

 多くの国民にとって、政党よりも軍の方が自分たちにとって身近な存在だったのである。

 ここに、昭和戦前期になって政党が没落し、軍部が国民の支持を得て台頭していく要因の一つが見えてくる。


 さて、農村問題に話を戻す。

 大正デモクラシーの波は農村部にも押し寄せ、貧しい農家の青年たちも普選運動に加わっていくようになる。

 地主中心の選挙制度を改めることで、社会変革が訪れることを彼らは期待していたのである。

 また、一部の地域では、帰省した大学生たちが農村部の青年たちに社会主義思想を伝えたりもしている。戦後、演説中に右翼青年に刺殺されることになる浅沼稲次郎も、早稲田大学在学中から小作争議などへの協力を行っていたという。


 そして1922(大正11)年4月9日、神戸市において日本農民組合が結成された。日農は耕地の社会化・小作立法の確立・小作人の生活安定などを主張し、農村の青年運動とは違う角度からの農村の民主化に乗り出していく。

 彼らは小作人からの依頼に応じ、弁護士を派遣するなど小作争議を積極的に支援していった。


 一方、こうした小作争議の激化など深刻化していく農村問題の解決を目指そうとしていたのが、農商務官僚の柳田国男であった(農林省と商工省に分かれるのは1925年)。

 柳田は江戸時代のように農村の中間層(自作農)を復活させることで農村秩序の再建を図り、さらにそれまで物納制であった小作料を金納制に変更する、台湾や朝鮮からの外米移入によって地主による意図的な米価つり上げ牽制しようとするなどの改革案を出すものの、これらの意見が受け入れられることはなかった。

 1919(大正8)年、柳田は官界を去って、以後、民俗学者として名を馳せていくことになる。


 柳田の遺した改革案を引き継いでいったのが、同じく農林官僚であった石黒忠篤である(終戦時の農商大臣)。

 二人は農商務省の先輩・後輩であるだけでなく、柳田が幹事を務めていた郷土会を通しての繋がりもあった。官僚としては、石黒は柳田の弟子ともいえる存在であった。

 石黒が農商務省の中堅官僚となるのは第一次大戦後(1919年に農務局農政課長に就任)であるが、米価調整を目的とする米穀法(1921年)を成立させ、さらに農業金融制度を整備するための産業組合中央金庫法(1923年)を成立させるなど、自作農を育成しようとした柳田の政策を引き継いで成果を挙げていく。

 しかしながら1924(大正13)年に農務局小作課長に就任して自作農創設などのための諸政策を実現しようとしたところ、政党の強い反発に遭ってしまう。


 当時の日本は、1930(昭和5)年になっても第一次産業の従事者が就業人口の52パーセントを占めるなど、他の列強諸国に比べて圧倒的に農業国であった(第二次は19パーセント、第三次は29パーセント)。

(以上の数値は、日本銀行統計局『明治以降本邦主要経済統計』日本銀行統計局、1966年、374頁)


 必然的に、政友会も民政党も、その支持基盤は地主層ということになる。

 1925(大正14)年に満25歳以上の男子すべてに選挙権を与える普通選挙法が成立したが、それが初めて総選挙に適用されたのは1928(昭和3)年であり、後世的に見ればすでに世界恐慌まで1年を切ろうとしている時期であった。

 既存政党の支持基盤に変化が起こったり、あるいは無産政党が躍進を遂げていくには、あまりに時間が短すぎたと言えるだろう。

 なお、1936(昭和11)年と37(昭和12)年の総選挙で議席を伸した無産政党である社会大衆党について、無産政党の躍進であると捉える研究者と、単なる親軍勢力に過ぎないと捉える研究者に分かれているのは面白い。

 無産政党の躍進、あるいは戦前期における民主化の頂点と捉えている研究者は坂野潤治氏や源川真希氏らであり、逆に親軍勢力でしかないと捉えている研究者は升味準之輔氏や粟屋憲太郎氏らである。

 筆者の意見は升味氏や粟屋氏の見解に近く、社大党が陸軍の反資本主義的な統制経済に便乗していく姿勢を見ると、民衆の支持を獲得したり党内で主導権を握るには既存政党の経済政策よりも軍部の経済政策に賛同した方が良いという、政友会や民政党が経済政策で軍部に対抗する限界を見る気がするからである。


 こうした地主層の支持基盤を持っている政党が政権を握っているようでは、農村問題の解決は覚束ない。

 だからこそ、必然的に農村出身者が多数を占めることになる軍部内において、農村問題に義憤を抱いて国家改造思想に染まっていく者たちが現れたといえよう。

 ここに、五・一五事件や二・二六事件の原因の一つを見る気がする。


 一方、石黒らの自作農育成政策と共に、農村の中間層の没落と共に姿を消した篤農家の復活、要するに農村のリーダー的存在を復活させようとする動きも存在していた。

 篤農家の復活によって、農村秩序の再建を図ろうとしたのである。

 こうした活動を行った者の一人が、山崎延吉である。

 彼は安城農林学校の校長として、農村の新たな指導者を生み出そうとした。

 山崎延吉の目指したものは多角農業、つまり米だけでなく、都市住民が欲しがる野菜、商品作物を作らせて農民に現金収入を得させようとするものであり、これにより中間層の復活を目指したのである。

 また、彼はデンマークの農業経営方式を取り入れた、協同組合による農業の多角的経営目指していた。

 山崎の取り組みは、愛知県碧海郡(現・安城市)で行われ、この地域は「日本のデンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地域となった。


 そして、安城農林学校の教員として山崎の教えを受けた者の一人が、加藤完治であった。

 後に満州移民を推進することになる、農本主義者の一人である。

 二・二六事件を起こした青年将校たちに影響を与えたとされる北一輝や西田税の思想については、ここでは深く入り込むことはしませんでした。そこまで書き始めると際限がなくなりますし、思想史的な部分は私の手に余ると思ったからです。

 しかし、農村問題の深刻化や二・二六事件における青年将校の思考を見ていきますと、日本人の“お上”に対する認識というのは、あまり変わっていないのではないかと思うことがあります。

 それは要するに、「お上は常に民草に寄り添ってくれる存在で、それを邪魔しているのがその周辺にいる役人たち」という思考です。


 二・二六事件の青年将校たちは、端的に言ってしまえば佞臣・奸臣を排除して自分たちの意思を直接天皇に届ければ天皇はそれを聞き届けてくれるはず、という天皇観を抱いていました。

 正直、これは江戸時代の仁政理論の延長線上にあるように思えます。


 戦後の時代劇、特に「水戸黄門」シリーズや「暴れん坊将軍」シリーズに代表されるような、悪い役人とそれを成敗するお上という図式の物語にも、そうした傾向が現れていると言えましょう。

 最近でも、コロナ下での東京五輪開催に関する宮内庁長官のご懸念拝察発言に、一部で国民の思いを天皇陛下が代弁して下さったと歓迎する声が上がったことなどにも、そうした仁政理論が形を変えて現代社会にも受け継がれているように感じます。

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― 新着の感想 ―
現代の財務省悪玉論も仁政理論の一つのあり様かもしれませんね。そう考えると、陸海軍の青年将校の考え方も理解できるような気もします。
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