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前編

 本項は、2023年9月26日より数日にわたりTwitter(現X)上に投稿した戦前期日本の農村問題に関する調査・考察を加筆修正してまとめたものである。

 もともとは現在連載中の拙作「秋津皇国興亡記」において描いている皇都内乱が史実の二・二六事件をモデルの一つとしていたことで、二・二六事件を調査する内に農村問題に行き当たったことが、今回の調査の切っ掛けとなった。


 昭和戦前期における政党の没落と軍部の台頭という問題を考えるとき、この農村問題は避けては通れない道であると考える。とはいえ、私自身は農村史の専門家ではないため、調査の内容はあくまでも架空歴史小説を執筆する際の参考程度のものとなることは、ご容赦願いたい。


 さて、明治維新直後の日本では、その後の昭和戦前期までの時代と比べ自作農の割合が多かった。

 東北など大地主のいる地域の方が珍しく、全国規模で言うと農民は自作農が大半を占めていた。要するに、農村の中間層が分厚かったということである。

 こうした江戸時代的な農村の人口構成が崩れてくるのが、松方デフレ以降である。


 1881(明治14)年より始まった松方正義による紙幣整理に伴うデフレーション誘導政策は、翌82(明治15)年から85(明治18)年にかけて深刻な不況を引き起こした。

 不況に伴い米価は下落し、81年には11パーセントにまで下落していた実質税率は、84(明治17)年には24パーセントにまで上昇した。これに加え、84年は米が不作で、それにもかかわらず米価は下落し続けたために、特に農村部では困窮が加速した。

 こうした中で発生したのが、秩父事件(1884年)などの負債農民による騒擾事件である。

 こうした一連の事件の原因については研究者によって様々な指摘がなされているが、地租改正によって近世的な仁政理論が政府に通用しなくなってしまったことが、農民たちが蜂起した原因であるとの説も唱えられている。


 この松方デフレの影響で、自作農の多くが小作人に転落した。

 借金の返済などのために、土地を手放さざるを得ない農民が続出したからである。こうして、土地が一部の地主の元に集約されていくという現象が生じる。


 1883年から84年にかけての統計では約212万戸あった自作農は、1888年には147万戸にまで減少してしまう。そして、自作農の戸数が200万台に回復するには、戦後の農地改革を待たなければならなかった。

 1903(明治36)年の統計では、全耕作地の実に44.5パーセントが小作地であった。

(以上の数値は、三和良一ほか編『近現代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年、18頁)


 こうして農村部には、寄生地主(自分で農作業をせず、小作人に土地を貸している大地主)、手作地主(自らも田畑を耕しながら、余った土地を小作人に貸していた中小地主)、自作農、小作農の四種類の農民が誕生することとなった。


 そして、1890(明治23)年7月1日、第一回衆議院議員総選挙の日を迎えることとなる。

 この時の選挙権者は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子(被選挙権は30歳以上)であり、有権者割合は全人口の1.1パーセント(約50万人)でしかなかった。

 このわずか1.1パーセントの有権者が、松方デフレで土地を買い集めた大地主たちであった。

 当時の直接国税は地租しかなかったため、必然的にこうなってしまったといえる。

 つまり帝国議会は開設当初から、その支持基盤は地主層であった。


 大日本帝国憲法下において、総選挙は昭和17年(1942年)4月30日までに計21回実施されている(22回目の総選挙は終戦後。23回目から日本国憲法下で実施)。

 全21回の総選挙において、当選した議員の経歴の中で最も多いのが「企業経営」であり、初期の例外を除いて概ね4割から6割の間で推移している。この「企業経営」の経歴を持つ議員の内、高い割合で農業従事者がビジネスを行っている場合が含まれている。

 そのため、酒造業も含めた第一次産業の経歴を持つ議員という観点から見ると、全21回の総選挙において、概ね2割から3割の議員が第一次産業従事者となる。その中でも圧倒的に多いのが農業従事者であった。

 実に衆議院議員中、4人に1人ないし5人に1人が第一次産業従事者だったのである。

(以上の数値は、青木康容「帝国議会議員の構成と変化(1)」『評論・社会科学』第52巻、同志社大学人文学会、1995年9月)


 同時に、19世紀末から20世紀にかけて、近世的な農村秩序は崩壊していった。

 近世までは、一つの農村に地主と小作が共存していた。

 それが松方デフレ以降、ある村の地主が周辺村落の土地を集約していく現象が発生していく。つまり、地主が一般的な資本家になっていったのである。

 こうして、近世的な顔の見える地主と小作人の関係から、顔の見えない関係へと変わっていった。

 そうなると、地主による小作料の取り立ては苛烈なものとなっていった。

 かつて地主は農村の秩序が崩壊しない範囲で小作料を取り立てていたのであるが、顔が見えない関係になると近世的な農村の秩序を崩壊させてでも小作料を取り立てようとする姿勢に変わっていったのである。


 例えば、1891(明治24)年の群馬県では、貧民の側に立って普通選挙を要求する労働自由党の発行した『上州』(8月31日号)に、霜害のために地租が7パーセント免除になったにもかかわらず小作料が免除されていないのは不合理であるとの投稿が掲載されている。


 こうした農村部での極端な貧富の差の拡大、近世的な農村秩序の崩壊が進んでいく中で出されたのが、1908(明治41)年10月13日の戊申詔書であった(第二次桂太郎内閣)。

 この詔書は、日露戦争後、ますます旧来的な秩序が崩壊していく地方社会を立て直すことを目的に渙発されたものといえる。

 しかし、戊申詔書を切っ掛けに始められた地方改良運動も、農村問題を完全に解決するには至らなかった。


 時代は、社会主義思想が広まり、小作争議が増大していく大正時代へと移っていく。

 現在連載中の拙作「秋津皇国興亡記」で描いている皇都内乱は、二・二六事件をモデルの一つとしておりますが、作中の事件の原因は農村問題の深刻化ではありません。

 そのため、今回、戦前期日本の農村問題を調べたのは、単なる興味本位以上のものではありません。

 それをポツポツとTwitterに上げておりましたら、幸いなことに色々な方に見て頂けるようになり、自分でも農村問題を一度、整理して理解する必要があると感じ、このようなエッセイとして掲載することにいたしました。


 ただ、140字の字数制限がなくなった途端、箍が外れまして、前中後編の計9000字に膨れ上がりました。元のツイートが合計しても1100字程度なので、ほとんど新規書き下ろしに近い状態です。


 皆様からのご意見・ご感想を賜れましたらば幸いに存じます。

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