第九話 ブチギレてしまったわ
それはセラフィエルが帰ってきた夕方のことだった。
当然だが、離れにいた私よりもエルヴィのほうが先にセラフィエルと会う。そこでどんな話がなされたかなど、考えたくもない。
だが、玄関まで出迎えにやってきた私に対して、セラフィエルの第一声は狂ったような怒声だった。
「ふざけるな!」
いくら私の父や兄がしょうもない人たちだからと言って、女性に対し声を荒げるような野蛮な人間ではなかっただけに、私にとってはとても衝撃で、じわじわ怒りと悲しみが込み上げてきていた。セラフィエルはそれに気付きもしない、怒声と罵倒を浴びせてやらなければならないとでも思っているかのように、眉を吊り上げて私を責める。
「お前が公爵夫人なのは書類上だけだ! 俺にはエルヴィしかいない、お前など間違っても閨に呼ぶものか!」
繰り返すが、エルヴィがセラフィエルに何を言ったかなど、私は考えたくもないし、知りたくもない。
とはいえ、言っていいことと悪いことがある。私は——すっかり我慢するときの癖で——拳を握り締め、確認をしておく。
「つまり、私と夫婦になるおつもりはない、そういうことですね?」
「当たり前だ。お前のような醜い女など、こちらから願い下げだ」
ブツッ、と私の頭のどこかの血管が切れた気がした。
爪が手のひらに食い込む。固い皮膚には痕が付くだけで、鋭い爪にも傷つくことはない。それは右手の話で、左手はそうならないよう、ケープの上から右腕をぎゅっと掴む。
私はずっと、こうして我慢してきた。屋敷の片隅の部屋に追いやられても、父母や兄弟から蔑ろにされても、使用人から嫌がらせをされても、我慢してきた。
その私の我慢の限界を、セラフィエルのふざけた発言により超えてしまった。
「教会にも入れない不浄な女の分際で、つけ上がるな! 追い出されないだけ有り難く思え、外聞が悪いからな!」
エルヴィが追撃とばかりに吐き捨てる。
「ふん、いい気味! 身のほどわきまえなさいよ、伯爵令嬢サマ?」
そのときだった。
私の黒い右腕は、血の気が引いたかのように一気に冷たくなった。
何だろう。それに気を取られて、頭に昇っていた血はすっかり冷めて、私は自分の右腕を見た。
それとほぼ同時に、地面が揺れた。地の底から唸るような地鳴りがどこからか響き、シャンデリアが激しくぶつかり合う。窓ガラスは鳴動し、棚の戸はひとりでに開閉を繰り返した。
徐々にその揺れは深く、素早くなっていく。
メイドたちは抱き合い悲鳴を上げ、執事たちは身動きできず壁に張りつき、青ざめた顔のセラフィエルとエルヴィは床にへたり込む。
「な、何だ? じ、地震か!?」
「えっ、何ですかそれ! 怖い、セラ様!」
サリデール王国では滅多に起きない現象を、セラフィエルごときでも知っているようだ。
私だけは、何事もないかのように、立っていた。実際、私にはほとんど揺れは感じなかった。だから、周囲の反応を冷静に、何をやっているのだろう、くらいの感覚で眺めていた。
あるいは、それは怒りを超越した果ての、諦観にも似た感情なのかもしれない。
やがて地鳴りと地震は緩やかに、そして収まっていく。
それでもセラフィエルの傍若無人な態度は変わらない。私を睨めつけ、セラを片手で抱きしめたまま顎で指図する。
「収まったか……おい、メイドと一緒に片付けておけ。そのくらいしか役に立たないんだからな」
私は半分は聞いていなかった。シャンデリアが落ちてきたらどうしよう、メイドたちに当たってしまう、と心配するほうが有益だと思ったからだ。
私の返事も聞かずに、セラフィエルは嬌声を上げて怖がるエルヴィを連れて、さっさと自室のある二階へと螺旋階段を上がっていった。
私は、やっと大きく息を吐いた。怒りも、諦めも、無関心も、疲れる。いや、今はそんなことはどうでもいい。
「あなたたち、大丈夫? 割れたものが多いから、指を切らないように気をつけて」
執事たちに支えられながらも、メイドたちはようやく落ち着いてきたらしく、こくこくと頷いて、普段どおりにやろうと健気に努めていた。
「奥様、片付けは私どもがやっておきます。どうぞ、お部屋へお戻りください。セラフィエル様が見咎めないうちに」
「……ありがとう、そうしておくわ」
本当に、セラフィエルとエルヴィにはもったいない使用人たちだ。何にせよ疲れた、もう休もう。あのスプリングの見えるソファでも、少しは眠ることができるだろう。
そんな気分も、また聞こえてきた怒声によってかき消されてしまった。
「誰か来い! 部屋がめちゃくちゃになっているぞ! こんなことをしたのは誰だ!」
威圧するかのように足音を立て、セラフィエルが帰ってきた。後ろから慌ててエルヴィが追いかけてきている。
そんなもの、地震でどうにかなっただけだろうに、と執事たちがため息を漏らしたのを、私は見逃さなかった。
セラフィエルは螺旋階段の上からぐるりと、執事たち、メイドたちを見回し、そして——その視線は、私を捉えた。
「お前、か?」
え、と私は声が出た。
なぜそうなる。私はセラフィエルの部屋の場所さえ知らない。
そう弁解する暇も、余裕も、セラフィエルが落ちるように螺旋階段を降りてきて、私のドレスの胸ぐらを拳で掴み上げたせいで、何もなくなってしまった。
「お前だろう! エルヴィに嫉妬するばかりか、俺の部屋を!」
「誤解です! 私ではありません!」
「黙れ! ああくそ、腹の立つ!」
口角に泡を吹きながらの、気が触れたような感情の爆発は、セラフィエルがまともな精神の持ち主ではないことを証明しているのだろう。
こんな男が、私の夫?
私の右腕に力が入る。
喚き散らし、みっともないことを叫ぶ猿のような人間が、これから私を殴ろうとしている。
振り上げられたセラフィエルの拳は、私の顔の前で止まる。
私の黒い右腕は、反射的に動いた。
「聞いていれば、勝手なことばかり」
私の黒い指、黒い手のひら、細いながらも常識を超えた力を持つ黒い腕は——セラフィエルの手首を捻り上げ、脇へ払い飛ばす。手首を握られたまま、セラフィエルの体は勢いよく引っ張られて一回転し、床に叩きつけられる。
そうして、やっと察したようだ。
セラフィエルの手首を、私の右手が締め上げる。みしみし、と骨が軋む音がした。セラフィエルが子供のように叫ぶ。
「は、離せ! 手が、手が折れる! 離してぇ!」
「折られるようなことをしたのはあなたです。このまま引きちぎってやりましょうか」
腕を引きちぎり、二度と誰かを殴れない体にしてやってもよかったが、私は周囲の人間の視線にはたと我に返った。
エルヴィが腰を抜かし、わなわなと口が閉じられなくなっている。執事たちは止めに入ろうとしているが、私の黒い右腕を恐れて躊躇していた。メイドたちに至っては、身動き一つできず、息を呑んで状況を見守るしかないようだった。
何だか、これでは私が悪者だ。
私はポイッと、セラフィエルを放り出す。
ぐしゃりと床に潰れたセラフィエルへ、こう言った。
「いいですか。私はもう、あなたの妻となるつもりなど、一切ございません。あなたのような人間は、心の底から嫌いです。もう出ていきますのでお気になさらず、それでは」
言いたいことは言った。どうせこれほどまでにしでかせば、もうここにはいられない。
私は早足で離れに向かい、ショルダーバッグとボストンバッグを持って、エイデン公爵家の屋敷を飛び出した。
騒動の後ではもう夕の闇の帷は下り、街灯には蝋燭の火が、家々にはシャンデリアの灯りが煌めく時間帯となっていた。
私の偽装結婚の生活はわずか一日と保たず、すべてがご破算となってしまったのだが、私はもう知ったことか、ととりあえず今日の宿を探すことしか考えられなかった。