第八話 ここから逃げよう
エルヴィは聞いてもいないのに、嫌味ったらしく自己紹介を始めた。
「私、エルヴィ。あなたがセラ様の偽装結婚のお相手でしょ? ご苦労様、面倒なことは全部請け負ってくれるんだから、助かるわぁ」
これは、対人経験のほとんどない私にだって分かる、悪意の向けられ方だ。
エルヴィは確実に、私を敵と見做している。それはそうだろう、愛人の自分とセラフィエルだけの屋敷に、セラフィエルの妻という名義の女が来るのだから、エルヴィの立場では腹立たしいことこの上ないはずだ。
そんなエルヴィのあからさまな嫌味を、後ろから現れたセラフィエルは聞いていなかったようだ。
「エルヴィ、そいつに適当に部屋を見繕ってやってくれ。俺は今から公務だ」
「はぁい! お任せくださーい!」
セラフィエルは、結婚式を挙げたばかりの妻をそいつ呼ばわりして、放ってどこかへ行ってしまった。まるで気にされていないことに、さすがに私もショックを受ける。そこまで私の妻として、女としての価値はないのか、と。偽装結婚だと聞いていたが、まさかここまでだとは思ってもみなかった。それは私が経験の浅い子供だから想像できていなかったせいでもある、でも何もしていないうちから悪意を向けられるなんて想像もしたくなかった。
エルヴィに対しても、どうにも嫌な感情が鎌首をもたげてくる。我慢、我慢だ。エルヴィの立場なら、私をよく思わないのは当然なのだから、私は所詮セラフィエルの書類上の妻でしかなく、別に嫌われてもいいのだから、そう自分へ言い聞かせる。
セラフィエルが去ったあと、エルヴィは明らかに横柄な態度を見せる。
「はいはい、こっちこっち。早く来て、私だって忙しいんだから」
私は、特に抵抗もせず、メイドたちに礼を言って席を立ち、エルヴィのあとをついていく。どう見たってエルヴィは格好といい仕草といいこの屋敷では浮いているのだが、執事やメイドたちは口出ししなかったのだろうか。いや、したとしても聞かなかっただろうし、主人であるセラフィエルの怒りを恐れて何も言わないことにしたのだろう。セラフィエルの愛人だからとここまで自由気ままにやっているのだ、使用人たちの苦労も偲ばれる。
エルヴィに案内され、一旦庭に出た。そして、その先——庭師の作業小屋の隣にある、小さな平家へ、私を連れていった。
まさか、ここに暮らせと? そう尋ねる間もなく、エルヴィはわざとらしく笑う。
「ここが離れ。荷物はもう運んだし、ここでいいでしょ? 私とセラ様の生活を邪魔されたくないし、そのうち別邸をどこかに構えて出ていってもらうし」
じゃそういうことで、とエルヴィは踵を返して去ろうとする。
ここまでされて、私も黙っているわけにはいかない。
「あの……エルヴィ、さん?」
私はエルヴィを呼び止める。気だるげに、それでも愛想笑いを浮かべて、エルヴィは振り返った。
「なぁに?」
「あなた、メイドだとか」
「それがどうしたの?」
「なぜそんなふうに、家の主人のように振る舞っているのです?」
それは、エルヴィは指摘されたくないことだったのだろう。
私の想像以上に、エルヴィは突っかかってきた。
「何? 私は平民出身のメイドだから、セラ様にふさわしくないとでも?」
「いいえ。私がエイデン公爵夫人となるはずです。なら、エイデン公爵家を取り仕切るのは私です。あなたではありません」
「うるさいな。後から来といて偉そーう。あんたなんか、セラ様にお仕置きされちゃえばいいのよ」
ふん、とエルヴィは鼻を鳴らす。よほど言われたくはなかったようだ、自身が平民だということも気にしているらしい。別にそれ自体はどうでもいいのだ、問題はエルヴィの場にふさわしくない態度なのだから。
ただ、エルヴィはそんな理屈が通用する相手ではない。この様子では、後でセラフィエルに有る事無い事言いつけられることもありえる。
ううん、ここで咎めるのは悪手だっただろうか。でも、言わずにはいられなかった。というか、仮にも公爵夫人となる立場の私が、それを言わないわけにはいかないだろう。
エルヴィはピエロのように口を歪めて大きく開き——本人は気付いていないのかもしれない——捨て台詞を吐いた。
「言っておくけど、あれでもセラ様はかなーり怒りんぼよ? せいぜい泣かないように覚悟決めとくことね」
そのまま、エルヴィは大股で屋敷の中へと帰っていった。もう、ため息しか出ない。エルヴィがいなくなってからメイドがやってきて、平家の中にディリニー侯爵夫人からの荷物を入れてある、と耳打ちしてくれた。
私はさっそく部屋としてあてがわれた平家に入る。幸いそれなりに掃除はされていたからよかったものの、どこをどう探してもベッドがない。スプリングのはみ出たソファが一つあるだけだ。ちょっとここで寝起きするのは、厳しいかもしれない。仕方ない、他にやることもなく、私は玄関脇に置かれているボストンバッグを開けた。
中には、セラフィエルやエルヴィには見られていなかったらしく、札束と小切手、それに金貨が詰め込まれていた。執事やメイドたちが苦心して、二人の目を盗んで運んでくれたのかもしれない。後でまたお礼をしておかないと。
ついでに、ディリニー侯爵夫人のメモがあった。このお金は後で自分の手で銀行に預けなさい、と書いてあった。間違ってもセラフィエルやエルヴィに任せるわけにはいかないから、それは妥当な意見だ。
さて、お金は手元にある。あまり使ったことはないけど、騙されでもしなければ何とかなるだろう。
とりあえず、ここで暮らしていくことは無理だ。あのエルヴィと同じ屋根の下で暮らすことはできないし、この平家で暮らして悦に浸られるのも癪だ。
「急いで逃げる算段をしないと……こんなところで暮らしていくものですか」
私はいくらか札束と金貨をショルダーバッグに入れ、少しばかり容量の減ったボストンバッグを何とか戸棚の中に隠した。
まさか、いくら機を見て逃げ出そうと思っていたとはいえ、結婚初日で逃げ出す決意と準備をするとは思ってもみなかった。